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第17話 安全地帯は魔王軍

「……うっぷ。オェッ……」


僕たちが逃げ込んだのは、国境付近にある古い地下迷宮だった。

日の光は届かず、壁には不気味な発光苔が張り付き、足元には正体不明の小動物の骨が散乱している。

奥からは「ヒュォォォ……」という、亡者の呻き声のような風切り音が聞こえてくる。


臭い。

カビと鉄錆と獣臭が入り混じった、淀んだ空気が鼻を突く。

生理的な嫌悪感で、胃の中身が逆流しそうだ。


「……最悪だ。服に匂いが染み付く」


僕はハンカチで鼻を押さえ、眉をひそめた。

不快だ。ジメジメしていて、陰気で、衛生的にも最底辺だ。


だが――「死ぬほどではない」。


『ピコン』


> [ 恐怖値を検知:ダンジョンの不気味な静寂 ]

> [ 生理的ストレス:Lv.2 ]

> [ バッテリー残量:12%……13%……(微増) ]


(……助かった。回復し始めた)


あの街の、砂糖菓子のように甘ったるい「幸福な空気」に比べれば、この吐き気を催す悪臭の方が、まだ呼吸ができる。

毒ガス室(聖女の街)から、下水道ここに逃げ込んだようなものだ。

どちらも地獄だが、こっちは「即死」しないだけマシだ。


「で? これからどうすんねん。こんなとこ、魔物の巣窟やぞ」


「だからこそですよ、シルフィさん」


僕は暗闇の奥を睨みつけた。


「ここは魔王軍の支配領域。つまり、問答無用で襲いかかってくる『殺意の塊』がうじゃうじゃいます。

 彼らは聖女のように話し合いなど求めない。見つけ次第、殺そうとしてくれる。

 ……なんて分かりやすくて、誠実な連中なんでしょう」


「お前、感覚マヒしとるで」


シルフィが呆れたように肩をすくめた、その時だった。


カツーン、カツーン……。


暗闇の奥から、硬質なヒールの音が響いた。

同時に、甘い……けれど、あの聖女の「暴力的な甘さ」とは違う、どこか毒々しく、脳髄を痺れさせるような妖艶な香りが漂ってきた。


「あらあら。こんな汚い穴倉に、随分と可愛らしいネズミが迷い込んだものね」


闇の中から現れたのは、一人の女性だった。

背中にはコウモリのような漆黒の翼。

露出度の高いボンテージ風の衣装に、鞭のようにしなる長い尻尾。

そして、男の精気を吸い尽くすために特化したような、蠱惑的な紫色の瞳。


魔王軍幹部・夢魔サキュバス


ゾクリ。

背筋に、氷の指でなぞられるような悪寒が走る。

本能が告げている。こいつはヤバい。

物理的な暴力ではなく、精神を直接弄んでくるタイプだ。


『ピコン!』


> [ 警告:高レベル魔族サキュバスと遭遇 ]

> [ 判定:精神汚染・誘惑・精気吸収 ]

> [ 危険度:S(即死級) ]


(マズい……!)


彼女の纏う「誘惑チャーム」のオーラ。

あれを浴びて「好き」とか「気持ちいい」とか感じてしまった瞬間、僕のバッテリーは消し飛ぶ。

聖女とはまた違ったベクトルでの「快楽死」トラップだ。


「あぁん? なんやその格好。痴女か?」


シルフィが即座に戦闘態勢に入る。

双剣を構え、殺気を放つ。


だが、サキュバスは余裕の笑みを崩さない。

彼女は、興味深そうに僕を見つめた。


「ふふ、面白いわね。その男の子……私の魅了チャームを見ても、発情するどころか『怯えて』いるなんて」


彼女の紫の瞳が妖しく光る。

僕は必死に、彼女を「化け物」として認識しようと努めた。

美しいと思うな。エロいと思うな。

あれは毒蛇だ。絞め殺されるぞ。


「私の主食は『精気』だけど……恐怖に歪む顔を見るのも、デザートとしては悪くないわ」


サキュバスが舌なめずりをする。

嗜虐的な視線。僕をいたぶりたいという明確な悪意。


(……それだ!)


誘惑はダメだ。だが、「恐怖」ならエネルギーになる。

彼女に「快楽」ではなく「絶望」を与えさせなければ、僕は生き残れない。


僕は震える膝を叩き、強引に立ち上がった。

そして、精一杯の虚勢を張って、彼女を挑発した。


「はっ……! なんだその目は。僕をビビらせようって魂胆か?」


「カデン!? お前何言うて……」


「やれるもんならやってみろ!

 僕の心は、そんじょそこらの恐怖じゃ動じないぞ!

 どうせ大したことないんだろ? お前みたいな露出狂に、本当の地獄が見せられるのかよ!」


心臓がバクバク言っている。

怒らせて殺されたら元も子もない。

だが、中途半端に可愛がられるよりは、本気で呪ってもらった方が生存確率は高い!


「……あら」


サキュバスの目が細められた。

妖艶な笑みが消え、底冷えするような冷酷な表情へと変わる。


「いい度胸ね。人間風情が、この私を挑発するなんて」


彼女の周囲に、黒と紫の霧が立ち込め始める。

空気が重くなる。物理的な圧迫感。

怖い。逃げ出したい。

だが、その恐怖こそが今の僕には必要だ。


「いいわ。そんなに見たがっているなら、見せてあげる。

 私の得意技は『悪夢』。

 あなたの心の奥底にある、最も恐ろしいトラウマ……一番見たくない光景を、現実よりもリアルに見せてあげる」


一番恐ろしいトラウマ。

一番見たくない光景。


「さあ、眠りなさい……」


サキュバスが、妖艶な唇から紫色の吐息を吹きかける。


「永遠に覚めない、絶望の夢の中で……泣き叫ぶといいわ」


(来る……!)


僕は覚悟を決めて、その紫の霧を吸い込んだ。

恐ろしい夢を見れば、そのストレスでバッテリーは満タンになるはずだ。

そうすれば、聖剣モードで反撃できる。


視界が暗転する。

意識が、深い闇の底へと引きずり込まれていく。


「カデン!! 起きろ!!」


シルフィの声が遠ざかる。

僕は確信していた。

これから見る夢は、ゴブリンに食われるとか、借金取りに追われるとか、そういった類の「地獄」だと。


まさか、魔族である彼女が用意する「一番恐ろしい夢」の定義が、

僕というシステムエラー人間にとって、**真逆の意味**を持つなどとは露知らず。


(続く)

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