第16話 広域回復魔法(エリア・ハイ・ヒール)
「はぁ、はぁ……! しつこい……!」
逃げ場はなかった。
大通りの十字路。前方からは、噂を聞きつけた衛兵たちが「保護」のために展開し、後方からは「慈愛の権化」が迫ってくる。
左右は、野次馬という名の「善意の監視者」たちで埋め尽くされていた。
「もう逃げられませんよ」
聖女アマリアが、静かに歩み寄ってくる。
汗ひとつかいていない。涼しい顔だ。
対する僕は、酸欠とガスマスクの息苦しさで、すでに半死半生だった。
「観念しなさい、カデン」
人混みに紛れていたシルフィも、諦めたように肩をすくめている。
彼女の目は「もう楽になれや」と語っていた。
ふざけるな。楽になる=死ぬんだよ、こっちは!
「皆様、離れていてください」
アマリアが、胸の前で両手を組んだ。
その瞬間、大気の振動が変わった。
空気が、ビリビリと震える。
物理的なプレッシャーではない。
空間に含まれる「幸福因子」の濃度が、臨界点を超えようとしている予兆だ。
『ピコン』
> [ 警告:超高密度の魔力収束を検知 ]
> [ 判定:戦略級・広域殲滅魔法(とシステムは認識します) ]
> [ 生存確率:0.002% ]
「う、嘘だろ……?」
僕は後ずさる。
彼女の背後に浮かぶ「ピンク色のオーラ」が、太陽を覆い隠すほどの巨大な入道雲のように膨れ上がっていく。
「一人の迷える魂を救うために、私は惜しみません」
アマリアが、祈るように目を閉じた。
「この街に満ちる穢れ、悲しみ、痛み……その全てを、私の愛で包み込みましょう」
やめろ。
その詠唱はやめろ。
それは、街一つを地図から消し去る(平和にする)禁断の呪文だ!
「母なる大地よ。慈悲深き光よ。
降り注げ、あまねく癒やしを――」
「逃げろおおおおお!! 毒ガスだあああああ!!」
僕は喉が裂けんばかりに絶叫した。
だが、群衆は動かない。それどころか、期待に満ちた顔で手を合わせている。
「『広域回復魔法』!!」
カッ!!!!
視界が、白一色に塗りつぶされた。
音がない。
衝撃もない。
ただ、圧倒的な「光」と「香気」が、津波となって押し寄せてきた。
「ああ……っ!」
「体が……軽い……!」
「腰の痛みが消えたぞ!」
周囲から、恍惚とした歓声が上がる。
石畳の隙間から、季節外れの花が一斉に咲き乱れる。
ドブ川の水が、一瞬で湧き水のように透き通り、薄汚れた壁の落書きが消滅して真っ白になる。
世界が、強制的に「美しく」書き換えられていく。
だが、僕にとっては地獄絵図だ。
「ガハッ……!? グッ……!!」
防毒マスク(木炭入り)なんて意味がなかった。
この光は、皮膚から、毛穴から、網膜から直接侵入してくる!
血管の中を、熱いシロップが駆け巡るような不快感。
脳細胞が一つずつ、強制的に「リラックス」させられ、思考が停止していく。
「恐怖」も「焦燥」も、生きるためのハングリー精神も、すべてが光の中に溶けていく。
『ピコン』
> [ 警告:幸福度リミッター解除 ]
> [ バッテリー残量:50%……30%……10%……!! ]
(消え……る……)
立っていられない。
膝から崩れ落ちる。
地面は、いつの間にかフカフカの花畑に変わっていた。
その柔らかな感触さえもが、僕の意識を永遠の眠りへと誘う。
「さあ、身を委ねなさい……」
光の向こうで、聖女が微笑んでいる。
それは死神の誘い。
もう、抗えない。
ああ、なんて……気持ちいいん……だ……。
『ピコン』
> [ バッテリー残量:3%……システムダウン寸前 ]
(……だめだ)
消えかけた意識の底で、生存本能が最後の火花を散らした。
死にたくない。
まだ、あのクソったれな借金も返してない。シルフィに一泡吹かせてもいない。
こんな、お花畑で死んでたまるか!
「シ……ル……フィ……」
僕は、霞む視界で隣を見た。
そこには、へたり込んだエルフの少女がいた。
だが、様子がおかしい。
いつもの険しい表情は消え失せ、頬を紅潮させ、とろんとした目で宙を見つめている。
「あ~……なんか、どうでもようなってきたわ……」
「ウチ、もう働きたない……一生、猫みたいに暮らしたい……」
ダメだ。
最強の用心棒が、骨抜きにされている。
このままでは、僕たちは二人仲良く、この幸せな地獄で肥料になるだけだ。
(目を……覚まさせろ……!)
今の僕に必要なのは、回復魔法を打ち消すほどの、強烈な「負の感情」だ。
それを作り出せるのは、彼女しかいない。
僕は最後の力を振り絞り、這いつくばって彼女に近づいた。
そして、彼女の耳元で、震える唇を開いた。
「……おい、この……貧乳……」
ピクリ。
シルフィの長い耳が反応した。
「……え?」
「ヤンキーのくせに……押しに弱くて……チョロいんだよ……お前は……」
それは、僕が持てる限りの語彙を動員した、決死の挑発だった。
この平和な世界で、唯一のノイズ。
「……あぁ?」
シルフィの目が、焦点を取り戻す。
とろんとしていた碧眼に、急速に暗い光が宿り始める。
額に青筋が浮かび、こめかみがピキピキと音を立てる。
「……今、なんと抜かしよった?」
空気が凍る。
周囲の花畑が、彼女を中心にして枯れていく気がした。
「聞こえなかったか……? この、万年金欠の……エルフの面汚しが……!!」
ブチッ。
何かが切れる音がした。
「誰が面汚しじゃああああああああ!!!」
ドガァァァァァァァッ!!!
光の奔流をかき消す、渾身のアッパーカットが僕の顎を捉えた。
「ガハッ……!!?(歓喜)」
視界が反転する。
脳が揺れる。顎の骨がミシミシと悲鳴を上げる。
強烈な痛み。
だが、その痛みこそが、僕を「生」へと引き戻すアンカーだ!
『ピコン!』
> [ 恐怖値を検知:相棒の激昂(殺意) ]
> [ 強力な物理的衝撃を確認 ]
> [ バッテリー急速充電……15%……40%……60%!! ]
「あーっはッはッ!! 痛ってェェェ!!」
僕は空中に舞いながら、血を吐いて笑った。
これだ。この痛みだ。
甘ったるい幸福の味を、鉄錆の血の味が洗い流していく!
「死ねやボケェ! ウチのどこが貧乳じゃあ!!」
シルフィが追撃の構えを見せる。
完全に正気に戻っている。さすがだ、僕の充電器。
僕は空中で姿勢を制御し、吹き飛ばされた勢いを利用して、城壁の外へと続く屋根の上に着地した。
「あばよ、聖女様! お前の回復魔法じゃ、この『業』は浄化しきれなかったようだな!!」
僕はガスマスクを投げ捨て、聖女に向かって高らかに宣言した。
顔は腫れ上がり、鼻血まみれだったが、その表情は生き生きと輝いていた(と自分では思っている)。
「……ま、まさか」
光の中で、アマリアが呆然と立ち尽くしている。
「私の……全力の癒やしを受けて、なお苦痛を求めるというのですか……?」
「なんて……なんて根深い闇……!」
彼女の目には、僕が「光に焼かれてもなお、呪いにしがみつく悲しき怪物」に見えているのだろう。
涙を流して、口元を震わせている。
「待っていなさい……! 必ず、もっと強い光で、あなたを救ってみせますから!」
「結構です! 二度と会いませんように!」
僕は屋根の上を走り出し、まだ怒り狂っているシルフィの手を引いた。
「行こう、シルフィ! ここは空気が綺麗すぎて体に毒だ!」
「離せや! まだ一発しか殴ってへんぞ!」
「あとで百発殴らせてやるから! 今は逃げるぞ!」
僕たちは、奇跡に包まれた美しい街を背に、全速力で逃走した。
背中には、聖女の「諦めない視線」と、街中の人々の「白い目」が突き刺さっていたが、それは今の僕たちにとっては最高の追い風だった。
目指すは、この大陸で最も危険で、薄暗く、殺気に満ちた場所。
そう、魔物の巣窟だ。
あそこなら、きっと安心して深呼吸ができるはずだ。
(続く)










