第15話 善意の鬼ごっこ
「ハァッ、ハァッ……! し、死ぬ……!」
路地裏を、全速力で駆ける。
心臓が破裂しそうだ。肺が悲鳴を上げている。
だが、足を止めるわけにはいかない。
背後から、あの「甘ったるい死の気配」が迫ってきているからだ。
「待ってください! 逃げないで!」
「怪我をしているのでしょう? 心が、泣いているのでしょう?」
鈴を転がすような美声が、路地の壁に反響して鼓膜を撫でる。
そのたびに、脳内麻薬がドバッと分泌されかけ、膝から力が抜けそうになる。
『ピコン』
> [ 警告:精神感応系スキル『慈愛の呼び声』を検知 ]
> [ 効果:対象の戦意喪失 ]
> [ バッテリー残量:65%……低下中 ]
(くそっ、声だけで削ってくるのかよ……!)
僕は必死に頬をつねり、痛覚で意識を繋ぎ止めた。
あの女はバケモノだ。
ゴブリンや盗賊なんて目じゃない。
あんな純度100%の善意を浴びせられたら、僕みたいな「不幸駆動型人間」は、ものの数秒で自我が溶けて昇天してしまう!
「カデン! 待ちぃや! お前、聖女様に失礼すぎるやろ!」
さらに悪いことに、シルフィまでが追っ手(聖女側)に加担している。
彼女には、僕がただ「治療を怖がる子供」に見えているのだ。
「来るな! 誰も来るなぁぁぁ!!」
僕は、ゴミ捨て場の陰に滑り込んだ。
ここなら……この腐った生ゴミの山なら、あのキラキラした「聖なるオーラ」を中和できるかもしれない。
「スゥー……ッ」
僕は、生ゴミの山に顔を突っ込み、思いっきり息を吸い込んだ。
鼻を突き抜ける腐敗臭。残飯の酸っぱい匂い。
ドブネズミの糞の臭い。
「……オェッ」
強烈な吐き気が込み上げる。
涙が出るほど臭い。最悪だ。
『ピコン』
> [ 恐怖値を検知:強烈な不衛生環境 ]
> [ 生理的嫌悪:Lv.3 ]
> [ 急速充電……70%……75% ]
(……生き返った!)
僕は涙目でガッツポーズをした。
やはり、僕にはこの汚れた空気がお似合いだ。
あの金色の光の中で深呼吸するより、ゴミの中で窒息する方が、よっぽど「健康的(生存に有利)」なのだ。
だが、これだけでは足りない。
あの聖女が近づけば、この程度の悪臭など「聖なる風」で一瞬で浄化されてしまうだろう。
(防具だ……! あの「幸福」を物理的に遮断するフィルターがいる!)
僕はゴミの山を漁った。
ボロボロの革袋。木炭の燃えかす。何かの獣の頭蓋骨(半分)。
「……これだ」
僕は震える手で、それらを組み合わせた。
見た目など気にしている場合ではない。
生きるか、幸せになって死ぬか。その瀬戸際なのだ。
数分後。
路地裏に、異様な姿の男が誕生した。
顔面には、目の部分だけ穴を開けたボロボロの革袋。
口元には、砕いた木炭を詰め込んだ筒(割れた竹筒)を装着し、隙間を泥で埋めた、特製ガスマスク。
「シュー……、コー……」
呼吸をするたびに、木炭と泥の味がする。
視界は狭く、革の裏側のカビ臭さが鼻を覆う。
はたから見れば、完全に不審者。いや、モンスターだ。
だが、これでいい。
これなら、あの毒ガス(慈愛)の中でも、数分は耐えられるはずだ。
その時。
「――見つけましたわ」
ビクッとして振り返る。
路地の入り口に、後光が差していた。
聖女アマリアだ。
彼女が歩いた跡には、ゴミだらけだった地面に小さな花が咲き乱れている。
文字通り、世界を浄化しながら歩いている。
「ひぃッ……!」
僕は壁に背中を押し付けた。
マスク越しでもわかる。彼女の輝きが、物理的な熱量を持って肌を刺してくる。
「……まあ」
アマリアが、僕の姿を見て息を呑んだ。
「お顔を……隠してしまわれたのですね」
彼女の碧眼が、悲痛に揺れる。
「ご自分の姿が、それほどまでに醜いと……そう思い込んで、心を閉ざしてしまわれたのですね」
(違います! あんたが眩しすぎるんです!)
「可哀想に……。どれほどの孤独を抱えてこられたのでしょう」
彼女の解釈が、斜め上の方向に爆走していく。
聖女の目には、ガスマスク姿の変質者が、「自尊心を失い、世界を拒絶する哀れな子羊」として映っているようだ。
「安心してください。私は、あなたの外見など気にしません」
アマリアが、胸の前で手を組む。
その背後から、特大の「ピンク色のオーラ」が噴出した。
「心の醜さも、体の傷も、すべて私が受け入れましょう。
さあ、そのマスクをお取りなさい。そして、太陽の光を浴びるのです」
「やめろおおお!! 太陽なんていらない! 俺は日陰のカビとして生きたいんだぁぁぁ!!」
「……ッ! まだ、光を恐れるのですね……!」
聖女が、悲しげに、しかし力強く一歩を踏み出す。
「ですが、私は諦めません。
病人が薬を嫌がるのは当然のこと。
多少、手荒な真似をしてでも……あなたを『幸せ』にしてみせます!」
「ヒィィィッ!! 虐待だ! これは善意の虐待だぁぁぁ!!」
僕は脱兎のごとく駆け出した。
もはや会話は成立しない。
彼女は「正義」を行っているという確信があるため、躊躇がない。
悪人は躊躇うが、善人は止まらない。これこそが、この世で最も恐ろしい真理だ。
「待ちなさい! 逃がしませんわ!」
「おーい、カデン! 観念せぇや!」
路地裏を抜けて、大通りへ飛び出す。
そこは、多くの人々が行き交うメインストリートだった。
「なんだ!?」
「うわ、なんだあの変なマスクの男……」
「後ろから聖女様が!」
衆人環視。
数百人の視線が、一斉に僕に突き刺さる。
「見ろよ、聖女様から逃げてるぞ」
「治療を拒んでるのか?」
「頭がおかしいんじゃないか……」
「関わりたくないな……」
ザワザワとした嫌悪感を含んだ視線。
まるで汚物を見るような目。
『ピコン』
> [ 恐怖値を検知:社会的孤立(狂人認定) ]
> [ バッテリー急速充電……85%……95%……!! ]
(い、痛い……! 視線が痛い……!)
恥ずかしさで顔から火が出そうだ。
穴があったら入りたい。今すぐ消えてなくなりたい。
だが、その「居たたまれなさ」が、聖女の放つ「幸福場」をギリギリで相殺してくれる!
「ははッ……! そうだ、もっと見ろ! 俺を軽蔑してくれ!」
僕は走りながら、群衆に向かって叫んだ。
マスクのせいで声がくぐもり、余計に不気味に響く。
「俺は幸せになんかならないぞ! 一生、不幸のどん底で這いつくばってやるんだ!」
「キャーッ! 気持ち悪い!」
「子供に見せちゃいけません!」
石が飛んでくる。
コツン、と頭に当たる軽い痛み。
ああ、素晴らしい。この冷たい拒絶こそが、僕の生きる世界だ。
「待ってください! 皆様、石を投げてはいけません!」
背後で、アマリアが悲痛な叫びを上げている。
「彼は病気なのです! 心が壊れてしまっているのです!
どうか、温かい目で見守ってあげてください!」
(やめろ! 余計なことを言うな!)
聖女の言葉で、群衆の敵意が「同情」に変わりかける。
「ああ、可哀想な人なんだ……」という空気。
マズい。同情は「優しさ」の一種だ。それは僕を殺す成分だ。
僕は立ち止まり、群衆に向かって中指を立てた(マスク越しに)。
「同情じゃなくて罵倒をくれ! 優しくしたら呪うぞコラァァァ!!」
シーン……。
群衆がドン引きし、再び冷ややかな視線に戻る。
よし、これでいい。
「カデン……お前、ほんまに救いようのないアホやな」
いつの間にか追いついてきたシルフィが、建物の影から顔を覆って呟いているのが見えた。
彼女の「他人のフリ」スキルが発動している。
その冷たい放置プレイに感謝しつつ、僕は再び走り出した。
「逃がしません……絶対に、癒やして差し上げます……!」
背後から、聖女の執念(愛)が迫る。
この鬼ごっこは、まだ終わらない。
彼女が「広域殲滅魔法」を解き放つ、その時までは。
(続く)








