第14話 慈愛の聖女登場
「……はぁ、はぁ。……あかん、もう限界や」
街道沿いの休憩ポイント。
僕の隣で、シルフィが恨めしそうに空になった水筒を逆さに振っていた。
カン、カン、という虚しい音が、乾いた喉をさらに刺激する。
「水、尽きてもうたな。次の街まであとどんくらいや?」
「地図によれば、あと半日といったところですね」
僕は、カラカラに乾いた唇を舐めた。
喉が張り付くような渇き。照りつける太陽。
肌をジリジリと焼く紫外線が、僕の体力を削り取っていく。
痛い。苦しい。
喉が焼けるようで、今すぐにでも水を浴びたい。
不快だ。最高に不快だ。
『ピコン』
> [ 恐怖値を検知:脱水症状への不安 ]
> [ バッテリー残量:105%(安定) ]
(よし……この「苦しみ」のおかげで、ステータスは維持できている)
肉体は悲鳴を上げているが、システムはこれを「燃料」として歓迎している。
この矛盾した感覚こそが、僕の生命線だ。
「あの、シルフィさん。僕の分、飲みますか?」
僕は腰に下げた水筒を差し出した。
中には、さっき小川で汲んだばかりの、少し泥が混じったぬるい水が入っている。
「泥水やんけ! 飲めるかボケ!」
バシィッ!
水筒ごと叩き落とされる。 痺れる手首。地面に吸い込まれていく貴重な水分。 ああ、勿体ない。そして、この「理不尽に拒絶される」という精神的ダメージ。
完全に狂ってるが俺にはこれが必要なのだ。
「さーせんしたァ! じゃあ、渇きに苦しみながら歩きましょう!」
「お前ほんま、いつか殺すぞ」
そんな殺伐とした空気を維持しながら、僕たちは峠を越えた。
眼下に、白亜の城壁に囲まれた美しい街並みが広がっていた。
宗教都市「サン・マリア」。
この国で最も治安が良く、最も「慈愛」に満ちた街として知られる場所だ。
つまり、僕にとっては「危険地帯」のど真ん中である。
***
街に入った瞬間、異変を感じた。
空気が、甘い。
物理的に、砂糖を煮詰めたような甘ったるい匂いが充満している。
パン屋の焼きたての香り? 花屋の香り?
いや、違う。もっと根本的な、空間そのものが発する「幸福の波動」のようなものだ。
「うわ、何やここ。めっちゃ空気キレイやん」
シルフィが深呼吸をして、気持ちよさそうに目を細める。
彼女の肌がツヤツヤと輝き出し、旅の疲れが癒やされていくのがわかる。
対して、僕は。
「ぐっ……、うぅ……」
膝をついた。
胃の奥から、強烈な吐き気がせり上がってくる。
なんだ、この空気は。
吸い込むたびに、肺の中で綿菓子が膨らむような窒息感。
血管に温かいシロップを注入されているような、ドロリとした不快な重み。
『ピコン』
> [ 警告:高濃度の『幸福場』を検知 ]
> [ バッテリー急速放電……残量 80%……70%…… ]
(マズい……! 息をしてるだけで削られる!)
ここは毒ガス室か?
街行く人々を見れば、誰も彼もが穏やかな笑顔を浮かべている。
「こんにちは」「いいお天気ですね」「幸せですね」
そんな会話が、BGMのように脳を溶かしていく。
脳の奥が痺れる。
「ああ、楽になりたい」
「もう頑張らなくていいんじゃないか?」
そんな甘い誘惑が、麻薬のように思考を侵食してくる。
ダメだ。それを受け入れたら、僕は「廃人」になる。
「シルフィさん……早く、早く宿に行きましょう。できれば地下牢みたいな、ジメジメした部屋のある安宿へ……」
「何言うてんねん。せっかくやし、広場の方行ってみようや。なんか人だかりできとるで」
「やめっ、そっちは……!」
僕の抵抗も虚しく、シルフィは好奇心に目を輝かせて、群衆の方へと歩き出してしまった。
「共犯者」である以上、彼女と離れるわけにはいかない。
僕はハンカチで口元を覆い、防毒マスク代わりにして、恐る恐る人混みを掻き分けた。
広場の中心。
噴水の前で、一人の女性が立っていた。
純白の修道服。
太陽の光を糸にして織り上げたような、輝く金色の髪。
そして、見る者すべての心を無条件で解きほぐす、聖母のような慈愛に満ちた碧眼。
「……皆様に、女神様の祝福がありますように」
彼女が祈りを捧げると、広場全体が柔らかな光に包まれた。
足の悪い老人が杖を捨てて立ち上がり、泣いている子供が笑顔になり、疲れた冒険者たちの傷が塞がっていく。
奇跡だ。
誰もがそう称賛し、涙を流して拝んでいる。
そこにあるのは、一点の曇りもない「善行」であり、完璧な「救済」だった。
(……なんて、恐ろしい)
彼女の背後から、目が潰れるほど眩しい「ピンク色のオーラ」が、温かな蒸気のように噴き出している。
美しい。
あまりにも神々しく、抗いがたいほどに「安らか」だ。
だからこそ――僕にとっては「死の宣告」に見えた。
あんなものを浴びれば、僕の中にある「恐怖」「不安」「焦燥」といった、生きるための燃料が一瞬で蒸発してしまう。
後に残るのは、幸せに満たされて微笑むだけの、ただの死体だ。
『ピコン!』
> [ 警告:特級危険個体を確認 ]
> [ 個体名:聖女アマリア・キュア・ブライト ]
> [ 推奨:即時逃走。接触すれば、一撃で強制ログアウトです ]
(逃げなきゃ……!)
本能が警鐘を乱打する。
あの女はヤバい。ゴブリンキングやドラゴンなんかより、よっぽど凶悪な「捕食者」だ。
僕はシルフィの袖を引っ張った。
「し、シルフィさん! 戻りましょう! ここは危険です!」
「あぁ? 何言うてんねん。あの人、めっちゃええ人そうやんか。挨拶くらい……」
その時だった。
「――あら?」
雑踏のノイズを切り裂いて、鈴を転がすような澄んだ声が響いた。
聖女アマリアが、ゆっくりとこちらを振り向く。
その慈愛に満ちた瞳が、群衆の中に埋もれていた僕を、正確に射抜いた。
「……まあ」
彼女が、口元に手を当てて絶句する。
その瞳に、見る見るうちに涙が溜まっていく。
そして、まるで捨てられた子猫を見つけたような、底知れぬ「憐憫」の表情で僕を見つめた。
「なんて……なんて可哀想な方……」
ゾワリ。
全身の毛穴という毛穴から、氷水のような冷や汗が噴き出した。
ロックオンされた。
「あなたは……今まで、どれほどの苦痛を背負って生きてこられたのですか?
魂が……悲鳴を上げていますわ」
「ひぃッ……!?」
違います。それは歓喜の歌です。
放っておいてください。こっちを見ないでください。
僕は首を横に振って後ずさる。
だが、聖女は止まらない。
彼女は、まるで汚れた泥人形を拾い上げるような手つきで、両手を広げてこちらへ歩み寄ってきた。
「もう、大丈夫ですよ」
一歩近づくたびに、周囲の空気が重くなる。
甘い花の香りが、濃度を増して鼻腔を塞ぐ。
息ができない。酸素の代わりに、強制的な「多幸感」が肺を満たしていく。
「私が、その苦しみをすべて取り除いて差し上げます」
彼女の掌に、眩い光が集束していく。
あれは、ただの回復魔法じゃない。
僕にとっては、致死量数千倍の猛毒カプセルだ。
「『聖なる癒やし(セント・ヒール)』……!」
「来るなぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
僕は、群衆が見守る静寂の中で、断末魔のような絶叫を上げた。
「ひぃッ、やめろ! 近寄るな! 殺す気か!?」
「え……?」
聖女が、きょとんとして足を止める。
周囲の人々が、一斉に僕を睨みつける。
「せっかく聖女様が癒やしてくださるのに」「何て失礼な男だ」「狂ってるのか?」
その視線。
侮蔑。不信。敵意。
『ピコン』
> [ 恐怖値を検知:周囲からの社会的制裁(白い目) ]
> [ バッテリー微増……85% ]
よし、いいぞ。この「アウェイ感」。
針のむしろのような居心地の悪さに、胃がキリキリと痛む。
おかげで、かろうじて息ができる!
僕は必死にシルフィの背中に隠れた。
「シ、シルフィさん! 助けて! あの女、僕を廃人にする気です!」
「……お前、ほんま失礼やな」
シルフィが、呆れたように僕を引き剥がす。
「すんません、聖女様。こいつ、ちょっと頭打ってておかしいんですわ。悪気はないんで」
「まあ……頭を? それはいけませんわ」
聖女の瞳が、さらに深く、ドロドロとした「善意」で濁っていく。
「脳の損傷による錯乱……。急いで治療しなければ、手遅れになります」
「えっ」
「さあ、じっとしていてくださいね。痛みはすぐに消えますから(=自我が消えますから)」
聖女が、慈愛の笑みを浮かべて再び歩き出した。
その背後には、僕にはハッキリと見える。
巨大な死神が、ニッコリと微笑んで鎌を構えている幻影が。
「ギャアアアア! 助けてくれェェェ!!」
僕はシルフィを盾にして(突き飛ばして)、全速力でその場から逃走した。
「あ、こら待て! カデン!」
「待ってください! 治療を拒んではいけません!」
背後から、白い悪魔(聖女)が追いかけてくる。
ドレスの裾を翻し、恐るべき速度で。
その顔は、どこまでも優しく、どこまでも恐ろしい笑顔のまま。
こうして、僕と「善意の暴力」との、地獄の鬼ごっこが幕を開けた。
(続く)










