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徒に咲く花

 地下鉄のつり革にぶら下がっている男が、車両の窓の外に浮遊している。

 暗闇の中で微かな光の粉をまぶされて、ゆらりゆらりと揺れている。

 右左右左、左左右左。

 青白いのっぺりした顔に穿うがたれた目がこちらをにらんでいる。

 その目が問いかける。


「お前は何者だ?」


 ギクリ! 


 ハギは平静を装い、少し強めに言い返す。


「お前こそ何者だ?」


 ハハハ。


 相手は何も言い返せない。

 苦悶の表情がそののっぺりした顔ににじみ出してくる。

 悪性の伝染病みたいに黒い染みが広がる。

 広がっていく。

 そいつの姿が暗闇に紛れていく。


 不意に閃光が全てを真っ白にかき消す。


 パニクったまぶたが痙攣けいれん


 視界に現れたのは、谷間を不規則に埋め尽くすコンクリートの直方体。

 今にも雪崩を起こしそうに不安定にひしめき合って急斜面にへばりついている。

 その一番底で寺の御堂の甍が春の陽光を反射している。

 ぐにゃりと曲がった松の枝が青い。


 という残像を残して既に列車はトンネルの中だ。

 闇の中であいつがまた、こちらをうかがっている。

 車内放送が終点を告げる。

 列車のため息と同時に、ハギは黄色っぽく薄汚れたホームに吐き出される。

 周りと歩調を合わせて短い階段を上がり、改札を抜ける。


 地下のコンコースは人でごった返していた。

 何度も来た場所なのに、どちらに行けば良いのか分からなくなる。

 人ごみの中に立ち尽くすハギの両側で人の流れが渦を巻く。


「一体僕はどこへ行こうとしているのか?」


 それは就職活動もせず、今日もまた舞踏集団・解痢羅蝦蟇螺げりらがまらのワークショップに参加している自分自身への問い掛けだ。

 就活中の同級生たちが「俺、物産にしようか商事にしようか迷ってるんだよね」などと話している輪の外で、影を薄くして立っている自分。

 問いかけられたら「僕は一応大学院に残るつもりなんだけど」という答えを恐る恐る差し出すしかない。


 ハギは確信が持てないまま、人の流れに乗って歩き始める。

 方位磁石がクルクル回転し、あっちを指し、こっちを指す。

 こっちで良かったんだっけ?  

 硬いはずのコンコースのタイルがぶよぶよにふやけている。

 靴が食い込み推進力が弱まる。

 右肩に鋭い衝撃が走る。

 後ろからぶつかってきた背広を着た若い男は舌打ちをして足早に過ぎ去っていく。

 残されたのは右肩の痛みと怒り。

 やりきれないが、そんな怒りは放置しておくしかない。

 再びハギは歩き始める。

 しばらくすると見覚えのあるデパートの地下の入り口が見えてくる。

 ここまでくれば一安心だ。

 向かいにある長いエスカレーターに乗って地上に出る。


 両側のビルに押しつぶされそうになりながら、アスファルトの地面だけを見て歩く。

 交差点で立ち止まる。

 左に視線を送ると、緩やかに下っていく道路がJRの線路の下に吸い込まれている。

 通称ビックリガード。

 大きく開けたその口に向かって、ハギは坂を下る。


 トンネルの中に隈なく満たされたオレンジ色の光が時間を封じ込めようとしている。

 歩道の隅の吐瀉物が永遠の保存状態を保ってぬめぬめと光っている。

 頭上で列車が通過する轟音が響く。

 ガードの最深部で、ぽっかりと青空が現れる。

 交差点があり、まっすぐ行けば私鉄のガード下を潜るトンネル、左に行けば駅の構内に続く工事車両専用の道路がある。

 ハギは右折する。

 両側を高いコンクリートの擁壁ようへきに挟まれた坂道を登っていく。

 擁壁にはゲルニカを更にデフォルメしたような壁画が描かれている。

 そしてその上に何やら読めない文字がスプレーで殴り書きされている。

 世の中すべてに向かって「否」と叫んでいるようだ。


「まあ、僕には何かに向かって否といえる足場さえないけどね」


 坂を登ると、右手のJRと左手の私鉄の線路に挟まれた狭い一画に出る。

 両側の線路は少し先で交差していて、そこに小さな踏切はあるもののまるで盲腸のような中途半端な場所だ。

 人気はない。

 殺風景な倉庫や運送会社の建物の間を進み右折して短い路地に入る。

 突き当りに三階建ての廃ビルがある。

 廃ビルの背後を列車が行違う。

 列車の台車がレールの継ぎ目を通過するカタンカタンというリズムが路地に反響する。

 枯れてしまったつたが廃ビルを血管のように覆いつくしている。

 ビルの入り口は鎖で頑丈に封じられている。

 ハギはビルの脇から裏に周る。

 地下に降りる苔むした小さな階段がある。

 下りると古風な字体で「ポンプ室」と書かれた鉄の扉がある。

 ノブを回す。

 鍵は掛かってない。

 軋むドアを開けハギはビルの中に入った。


 ドアを閉めると完全な暗闇に包まれる。

 ひんやりする気温のせいなのか、それとも暗闇に対する本能的な恐怖なのか、ハギは身震いをする。

 ズボンの尻ポケットに手を伸ばしスマホを取り出し、ライトを点ける。

 剝き出しのコンクリートの空間にパイプやバルブそしてポンプの機械盤が浮かび上がる。

 パイプの下をくぐって奥に進むと古い煉瓦で出来た狭いトンネルの穴が現れる。

 スマホのライトを消し尻ポケットに入れる。

 再び完全な闇が眼球の底まで満ちてくる。

 ハギはかがんでトンネルに入り込み、緩やかなスロープを四つん這いで下って行った。


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