第1話 最終退出ギリギリボーイ、改札で詰む!
「おかけになった電話は、電波の届かない――」
「うわ、マジかよ。吉村のスマホ、死んでんじゃん」
十九階のオフィス。窓の外は漆黒の闇。
まるで“定時退社”なんて都市伝説を、真正面からぶん殴ってくるような暗さだ。
シンジはスマホを机にそっと置き、足元のカバンから財布を取り出し、一枚のメモ紙を発掘する。
「あー……そういや吉村、今日は“地下の隠れ家”って言ってたな……」
なにそれ、初見殺しのRPGの最終ダンジョン? それともリアル裏ボス酒場?
書かれていた番号へ発信。幹事・吉村、いざ召喚!
吉村は同期。シンジと同じく、今年入社の新人だ。
“期待のホープ”という肩書きを、自分で勝手に名乗っている。たぶん死ぬまで名乗るつもりだ。
電話の向こうでは、すでに酔拳を極めた吉村が絶叫していた。
「課長が“早く来いやァ!”ってキレてますけどぉぉぉ↑↑www」
ハイトーンボイスが、鼓膜を破壊する勢いで襲いかかる。背景ではドンチャン騒ぎが絶賛開催中。
(16時過ぎに“今日中でヨロ”って仕事投げてきたの、あなたですけどぉぉ?)
シンジの心の中の“シンジ2号”(理性)が叫んでいた。
課長はいつも、定時チョイ前に「今日中納品」の作業を持ってくる“納品ギリ伝道師”。
そして毎回、決まってこう言う。
「今日中って、今でしょ!」
両手を広げながらの課長ギャグ。もう聞き飽きた。
「……ごめん。今日は二次会、カラオケも無理っぽい」
ちなみに、うちの課の二次会は100%課長のカラオケ。
課長の持ち歌はもちろん髭ダン。しかも【髭ダン三連打】という地獄の無限ループ付き。
「そっかー、今日の会費バックは無しね~。お前の料理も出ちゃってるから~」
「……あー、うん、いいよ」
なぜか、シンジの声まで無駄にでかくなる。電話の向こうは笑い声と拍手。まるで戦場。
そのとき、背後から――
「相馬っ!」
ビクッ。反射的に直立。
このフロアで自分と同じく“深夜残留部隊”に属する、隣の一課の田代課長だった。
「はいっ!」
シンジはスマホと財布を慌てて引き出しへ放り込み、速足で田代課長のもとへ。
「お前の課、今日はクリスマス会じゃなかったか? 加藤が言ってたぞ」
※加藤=定時爆撃魔。今日中タスクの伝道師。――そして今でしょマン!
「あ、はい……そのはずなんですが」
「今日はクリスマスってことで、俺もここでドロンだ。悪いが、また“最終退出”よろしく」
盟友の突然の脱退に、胸がギュッと締まる。
「了解です、任せてください!」
「お前も早く帰れよ」
からの、「ま、無理か」と笑う田代課長。
去り際は、背中を向けて片手バイバイ。渋すぎて、まるで映画のエンドロール。
――戦場に取り残されたシンジは、最終退出チェック表を受け取り、①番――コピー機の電源を落とす。
全項目を確認し、最後の「室内全消灯」と「最終退出処理」以外をクリア。
自席に戻ると、モニターにはゆらゆらとスクリーンセーバー。
時刻は――21:37。
「……また、ラストマンだよ」
誰もいないフロアの壁に、シンジのつぶやきが空しく吸い込まれていく。
自分の上だけがぽつんと灯る、だだっ広いオフィス。
その静寂の海に、一人だけ浮かぶ小舟のように、シンジは黙々とキーボードを叩いていた。
そのとき、構内アナウンスが鳴り響く。
『最終退出時間の10分前となりました。残っている社員は、速やかに退館願います』
「うわぁ……まだ終わってないよ~」
情けない声が、薄暗いフロアにこだまする。
課長からは「ユーザーに出す資料は、必ず二回確認しろ」と言われている。
が、今のシンジは**“0.6回目”**くらい。
とりあえず見つけたミスを修正し、PCの右下の時計を見る。
――22時57分。
「ひえぇ……ヤバっ!」
最終退出時間を過ぎて残っていた課の社員は、翌日、課長が事業部長へ始末書を提出するルール。
「殺される……!」
シンジはExcel資料をメールに添付し、課長宛に送信。
PCの電源を落とし、カバンをつかんで立ち上がった。
椅子の背もたれに掛けてあったダウンを羽織り、チェック表を壁へ戻す。
すべての灯りを落とし、社員証を読み取り機にかざしてエレベーターホールへ。
――そして一階。
各階の“ラストマン”たちが出口に向かって駆け出していく。
シンジもその一員となり、社員証をゲートにかざした。
「22時59分! セーーーーーフッ!」
心の中でファンファーレ。勇者、今日も生還!
外に出ると、今日はクリスマス。
街は赤帽子と鼻メガネの浮かれたパレード状態。
「クリスマスだっていうのに……」
駅へ向かいながら、ふと足が止まった。
――カバンが、やけに軽い。
嫌な予感がして中を覗く。……血の気が引いた。
「無いっっ!!」
財布! スマホ! 定期券! ――オール机の中!
「うわぁ~~~~~~~!」
小声の絶叫が、クリスマスの夜空に吸い込まれていく。
『落ち着け、シンジ……終電まではまだある』
自分に言い聞かせるように呟くが、心はすでに氷点下。
選択肢を脳内で猛連打するが、どれもバッドエンド。
・会社に戻る?→自動施錠。アウト。
・駅で知り合いに借りる?→皆パリピ中。
・交番?→泊まる場所、鉄格子の中。
どうする? どうする? どうするシンジ!!
気づけば、もう駅。改札前にたどり着いてしまった。
――お金がない。
――連絡もできない。
――身分証もない。
改札前。自分だけが場違いにポツンと取り残される。
そのとき、視線を感じて横を見ると、駅員さんが相談窓口の向こうから不思議そうな顔でこっちを。
慌てて目をそらしたその瞬間、背中に軽い衝撃。
「わっ、ごめんなさい!」
振り返ると、バックの中身が散らばり、それを拾う女性。
「いえ。ボクの方こそ、すみません」
シンジも慌てて屈んで手帳を拾い、目が合った瞬間――心停止寸前。
「おわっ!」
身をのけぞり、思わず声が出そうになる。
そこにいたのは――
シンジが密かに恋い焦がれている、蒼井美玲。
終電直前の奇跡。――まさかのラブコメフラグ、ここに発生!?