3話 あたたかいご飯
パシャパシャと冷たい水で顔を洗うと、二日酔いでボーッとしていた頭の中が、少しだけさっぱりとする。あまり覚えていないが、端から見ればかなり面倒な酔っぱらいだったかもしれない。
奈美子は自宅で一人酒を飲む事が多かったので、酔った自分がどんな風に人に絡むのか、知らなかった。今後、気を付けなければ、と鏡の前でムッとした顔をし、奈美子は自分の顔とにらめっこをしていた。
「とりあえず、一言謝っておくか」
「あのー……」
リビングに戻ると、お米の炊ける匂いと、味噌汁のいい匂いが部屋に漂って、陽介は手際よく朝ごはんの支度をしていた。
「あ、奈美子さん、二日酔いは大丈夫ですか? 昨日はかなり飲んでましたから」
「うっ、あ、大丈夫です。迷惑掛けてすみません! ……私、変なこと言ってませんでしたか?」
「変なこと? とっても楽しくて、かわいかったですけど……。あ、いや、変な意味じゃありませんよ!?」
陽介は昨日の出来事をぼんやりと思い出しながら話し出すが、途中で恥ずかしくなったようで、もじもじし出した。
「はぁ、もうそんなかわいいって歳でもないですけど。とにかく、変なことしてなくて良かったです。今後気を付けます。」
奈美子はその様子を気にも止めていないようで、淡々としたいつもの感じに戻っていた。陽介は少しホッとしたような、寂しいような、複雑な心境で苦笑いする。
「はぁ、美味しい。朝ごはんに、こんなしっかりしたもの食べるの、久しぶりですよ」
少し具だくさんの味噌汁に、だし巻き玉子、白いご飯。特別なものではなかったが、二日酔いと疲れた体に染み渡るようで、奈美子は気持ちまで暖かく、満たされるような思いだった。
「口に合って良かったです。二日酔いでも食べられそうですか?」
「全然、関係なく食べられますよ! 特に、このあまじょっぱい玉子焼き、最高です!」
奈美子は、幸せそうな表情で、玉子焼きを頬張る。
「それ、昔ばあちゃんがよく作ってくれて、俺も大好きだったんです。会社の寮にいた時に、頑張って作れるように練習したんですよ」
「へぇー、思いでの味なんですね。やさしいお祖母さんなんでしょうね」
「ええ、俺、親代わりのばあちゃんとじいちゃん家で暮らしてて。ばあちゃん、優しくて大好きでしたから」
「そう、なんですね……」
奈美子は陽介の両親の事が気になったが、なんとなく聞きづらく思い、言い淀んでしまった。
そんな奈美子の様子を察したようで、陽介はパッと話題を変えた。
「そ、そうだ、俺、今日仕事探しに行こうと思うんですけど、この辺でハロワとかってありますかね?」
「んー、こっからだと、電車で二駅くらいですかね。ところで、川崎さん、スマホは持ってるんですか?」
陽介は尻ポケットからゴソゴソとスマホを取り出すが、画面は真っ暗で、電源は切れているようだ。
「あるっちゃあるんですが、何せ支払いが出来てないので……」
頭をボリボリと掻き、陽介は困ったように笑った。
「それじゃあ仕事も探しづらいでしょ、とりあえず私が出しますから、先に支払ってきたらどうですか?」
「そ、そんなに甘えられませんよ! これ以上迷惑かけられません!」
「でも、その方が早く仕事見つかりますよ? 日雇いのアルバイトとかも探しやすいでしょうし、早くここを出ていけますよ?」
ケロッとした顔で、淡々と話す奈美子に、陽介は何故か胸の奥にズキッと小さい痛みを感じる。少し暗い表情で、平静を装いながら、「はい」と小さく頷いた。
「じゃあ、お言葉に甘えて。仕事が決まったらお返しします」
「はい、頑張ってくださいね!」
奈美子は純粋に陽介の事を応援したいと思っていた。
近所のコンビニで携帯料金の支払いを済ませた陽介は、アルバイト情報紙を手に取り、公園のベンチに腰掛ける。パラパラと募集要項に目を通していくが、ふと奈美子から言われた言葉を思いだし、「はぁ……」と小さくため息をつく。
「別に、気にするような事じゃないのに……。なんでだろ……」
そう呟き、うっすらと曇った空を見上げる。まだ、昨日出会ったばかりの女性だ。それでも、見ず知らずの汚い自分を助け、困惑しつつも面倒を見てくれる奈美子に、感謝の気持ちだけではない特別な感情を、陽介は抱き始めていた。
陽介は気持ちを切り替えようと、パンっと自分の両頬を軽く叩く。
「っよし! 仕事、探さないと!」
「おかえりなさい」
インターホンを押し玄関を開けると、奈美子が明るく出迎え、「ただいま……」と陽介は少し照れながら答える。
「どうでした? 何かいい募集はありました?」
「一応、短期の清掃のアルバイトがあったのでそれに。面接は無いみたいで、明日から行くことにしました」
「早速見つかったんですね! 川崎さん、真面目だし、これからもきっとうまく行きますよ。頑張ってくださいね!」
素直に自分を応援してくれる奈美子に、陽介は嬉しくなり、子供のようにあどけない表情で「はい!」と笑った。
「あ、そうだ。昨日合鍵探してたんですけど、見つかったので、川崎さんにも鍵、渡しておきますね」
朝食を食べながら、奈美子は「はい」っと陽介に合鍵を渡す。鍵には絶妙に微妙な可愛さの、熊のキーホルダーが付けられていた。
「え!? 鍵なんて、俺、いいんですか?」
「ええ、お互い働き出したら、無いと不便でしょ?」
もちろん、何も深い意味はないのはわかっていたが、陽介は嬉しくて、謎の熊のキーホルダーをニコニコしながら見つめた。
「ふふっ、なんですか? この熊」
「中学校の頃に流行ったんですよ? 熊の小次郎。知りません?」
「はは! 知らないですよー。物持ち良すぎでしょ」
まるで超有名キャラクターのように思っている奈美子が可笑しくて、楽しそうに笑っていた。
「あ、そろそろ私行ってきますね! 川崎さんも、初出勤、頑張ってください!」
ふと時間を気にして、奈美子は仕事に出る準備を急ぐ。
「あっ、ちょっと待ってください! ……これ、よかったらお昼に……」
陽介はタッパーに入れた手作りのお弁当を、慌ててキッチンから持ってきた。
「えっ……」
奈美子は驚いて戸惑っていると、陽介は「あっ……」と不安な声を出した。
「あはは……、余計な事、しちゃいましたかね……? あ、もし要らなかったら、俺が食べますんで……」
病院での昼食があるかも知れないのに、そこまで考えず用意してしまった事に気付き、陽介は苦し紛れに話す。
「あ! いえ、違います! まさか、お弁当まで作ってくれるなんて思わなくて、ビックリしてました……」
「ありがとうございます! 絶対美味しいに決まってますから、お昼が楽しみです! じゃ、行ってきますね!」
元気よく笑って、お弁当を受けとると、足早に仕事に出ていってしまった。
陽介はあっという間の事に呆然としながらも、喜んで受け取ってくれたことが嬉しく、鼻唄を歌いながら、食事の後片付けをしだした。
慌ただしい午前の業務が終わり、奈美子は同僚と昼休憩をとっていた。
「はー、やっと休憩だー。朝の田中さんの退院出し、忘れ物しちゃってさー、もう探すのに30分掛かっちゃって、めっちゃ怒らせちゃったよー」
「確認してても、忘れちゃう事ってあるよね。でも見つかって良かったよ。次から気をつけよ」
仕事の愚痴を話しながら、奈美子はワクワクしながらお弁当を開ける。
「なに? 奈美子今日弁当じゃん!? あんた、自炊なんて出来たっけ?」
「……歩実、なにもそんな言い方しなくても良いでしょ。わ、私もやるときはやるんだよ」
同僚の歩実の発言に、ムッとしながらも、あまじょっぱい玉子焼きを美味しそうに頬張った。
歩実とは、看護学校時代の友人だが、なんとなく陽介の事を説明するのが面倒だったので、つい小さな嘘をついてしまった。
「ふーん……。なんか怪しい。ねぇ、その玉子焼き、1個ちょうだい」
「……だめ。……パクっ」
奈美子はお弁当を隠しながら、最後の1切れを口に放り込んだ。
仕事を終え、アパートに帰宅すると、玄関の鍵は開いていた。
「ただいま」
「あ、おかえりなさい! 仕事お疲れさまでした」
奥のキッチンから、陽介がひょっこり顔を出す。晩御飯の支度をしているようで、煮物の美味しそうな匂いがしていた。
「お疲れ様です。お弁当、ありがとうございました。とっても美味しかったですよ」
空になったタッパーを受け取り、陽介はじっと何かを考えるように、それを見つめていた。
「あの、どうかしました?」
「あ、いや、誰かに自分の作った弁当を食べて貰うの、初めてだったんで、なんだか感動してしまって。いつも、自分用に作ってただけだったから……」
「綺麗に食べて貰えて、嬉しいです!」
幸せそうに微笑む陽介に、奈美子は少し照れ臭さを感じ、慌てて話題を変えた。
「そ、そういえば、どうだったんです? 掃除の仕事、大丈夫そうですか?」
「はい! オフィスビルの清掃で、先輩のおばちゃんがお喋りなんですけど優しくて。掃除は大変ですけど、うまくやっていけそうな感じです」
「いい感じの職場で良かったです。お互い仕事頑張りましょうね」
「ほんと、奈美子さんのおかげです。立て替えてもらった携帯代、頑張って稼ぎますね!」
陽介は、ふんっとガッツポーズをするが、やっぱり筋肉はあまり出ていなかった。
「ふふ、やる気があっていいですね! じゃ、私先にシャワー行ってきます」
笑いながらヒラヒラ手を振ると、奈美子は浴室に消えていった。
陽介は「はーい」と返事を返すと、空になったタッパーを、満足気な顔で洗い出した。
「あー、川崎さん、今日ゴミの日なんで、ついでに出しといてもらっていいですか?」
夜勤入りの奈美子は、ソファーにごろんと横になって、陽介にゴミ出しを頼む。
「はーい、じゃ、行ってきます!」
「あ、ゴミ捨て場の場所はわかりますか? ……って、よくご存じでしたね」
「あは! はい、なかなかの寝心地でしたから。では、奈美子さんはよく寝ておいてくださいね」
そう言うと陽介はアルバイトに出掛けていった。
バタッと玄関のドアを閉めると、隣人の中年と思われる女性が、同じくゴミ袋を持って出てきた。
「あ、おはようございます」
ペコッと頭をさげて、挨拶をし、通りすぎようとする陽介を、女性は不思議そうな顔で陽介を見つめる。
「あんた、お隣さんの彼氏さんかい?」
「へっ!?」
唐突に答えにくい質問を投げ掛けられ、呆然とする陽介は、もう10月だと言うのに、滝のような汗をかき始めるのだった。