1話 ゴミ山に眠る男
ふわっと金木犀の香りが通りに漂い始めた頃、まだ昼間だと言うのに、疲れきった表情の女が、ふらふらと歩いていた。
女は黒沼奈美子、市内の病院で働く看護師である。
「はぁ、お腹減ったなー。でも先にシャワー浴びて横になりたい……」
奈美子がアパートの近くまで帰ってきた時、ふと視界に人影が見えて、ゴミ捨て場の方を見る。すると、悪臭漂うゴミ袋の上に、覆い被さるように倒れている男がいた。
「……なんだろう、人間、だよね? ……酔っぱらいかな?」
職業柄、放置もどうかと思ったが、夜勤明けで疲れていた奈美子は、酔っぱらいが寝ているだけと思い込むことにし、足早に通りすぎる。
その時、ガシッと足首を何かに掴まれ、「ひゃあ!」と奈美子は小さな悲鳴をあげた。
「す、すみませんっ、何か、飲み物か食べ物を、分けてもらえませんか……」
ボサボサ頭に、伸び放題の髭、元々そういう色なのか、汚れなのかわからないスウェットを着た男は、奈美子の足を掴み、握った手をプルプルと震わせた。
「え、え? あのー、ホームレスか何かで? 私なんかに頼むより、交番とかに行った方が……」
奈美子は面倒事に巻き込まれたくなかったので、警察に助けを求めるように勧めるが、言い終わる前に、男の大きな腹の音にかき消されてしまった。
「あ、あの、本当にもう動けなくて、2日ほど飲まず食わずなんです。うぅ……っ……うぅ……」
「あー、もう泣かないで…。はぁ、わかりましたから、私の部屋まで頑張って付いてきてくださいよ」
泣き始めた男を落ち着かせ、奈美子は仕方なく、アパートに連れていくことにした。
「あの、本当におかしなことしないで下さいね? もし変な事したら、すぐに通報するんで! それに私、夜勤明けでヘトヘトなんです。大したもの出せませんから」
「あ、ありがとう、ございます!! 疲れてるのに、ごめんなさいっ! ううっ……」
怒って忠告する奈美子だが、男は助けてくれた奈美子に感激して、更に泣きじゃくった。
「もう、また泣いて。男の人がそんなに泣かないで下さい! 人目につくじゃないですか! ほら、こっちです」
男はこくりと頷くと、目を擦りながら、とぼとぼと奈美子の後を着いていく。
何となく、悪人ではないと思いつつも、奈美子は見知らぬ男を招き入れることに、恐怖を感じていた。だが、男の話が本当なら、2日は飲まず食わずと言うことだ。人間は3日水分を摂取しないと命に関わる、そう思い、仕方なく面倒を見ることにした。
奈美子は男をテーブルの前に座らせ、コップ一杯の水を用意する。すると男は素早くコップを取り、ゴクゴクと勢いよく飲み干した。
「っはぁぁ!! 美味しい!! ……はっ! すみませんっ、お礼も言わずに飲んでしまって」
男は汚れた格好とは似合わずに、きちっと正座をし、かしこまっている。
「別に良いですけど。体、大丈夫ですか? 私、一応看護師なんで、何か調子が悪ければ、言ってください」
奈美子は淡々と、男に話しかける。
「だ、大丈夫です! さっきの水で生き返りました。本当にありがとうございます」
「それはまぁ、良かったです。あ、そうだ。何か食べれますか? まぁ、カップ麺しか無いんですけど……」
カップ麺しか無いことに、少し恥ずかしくなった奈美子は、なぜか申し訳なさそうに言った。不規則な仕事と、長い独り暮らしのせいもあり、奈美子は自分の体調管理がおろそかになりつつあった。
「良いんですか?! カップ麺なんてご馳走してもらって!」
「そ、そんなに喜ぶようなもんですか? はぁ、ついでに私も食べます。ちょっと待っててくださいね」
男は「はい!!」と元気よく返事をし、少し落ち着かない様子で、部屋をキョロキョロ見渡している。
「あの、俺、川崎陽介って言います。歳は23で、今は働いてないんですけど、えっと趣味は……」
「ちょ、何急に自己紹介始めてるんですか?!」
「い、いや、怪しい者じゃないって事、証明したくて……」
「もう十分怪しいと思ってますよ。はい。とりあえず、これ食べたら、出てって下さいね」
奈美子は即席の豚骨ラーメンを2つ、お盆に乗せてテーブルに置いた。
「わぁ! 美味しそう! ……あのぉ、豚骨……、好きなんですか?」
陽介はラーメンに喜びつつも、少し不思議そうな顔で、奈美子に尋ねた。
「わ、悪い? 嫌なら食べなくてもいいです!」
奈美子は背脂たっぷりの豚骨ラーメンが大好物なのだ。少し恥ずかしいので、家でだけ楽しむようにしていたのだが、初対面の男に知られてしまい、顔を赤くして言い返した。
「た、食べます! ただちょっと意外で。キレイな方から豚骨ラーメンが出てくるのが……」
「何言ってるんですか。早く食べないと伸びちゃいますよ」
陽介の言葉を気にする様子もなく、奈美子はズルズルと勢いよく麺をすする。その様子は空腹の陽介が驚くほど良い食べっぷりだった。
「いただきます!!」
陽介は微笑みながら、手を合わせて、負けじと勢いよくすすり出した。
「ご馳走さまでした」
二人は同時に食べおわり、手を合わせる。
「あのぉ、今さらですが、お名前は?」
「? ……あぁ、まだでしたね。私は黒沼奈美子。さっきも言ったけど、病院の看護師をしてます。まぁ、もう会うことも無いでしょうが……」
奈美子は陽介が出ていくものと思い、適当に自己紹介をする。
「奈美子さん……。本当にありがとうございました! ……じ、実は、大変言いにくいのですが、俺、住むところも所持金も無くて、出来れば、しばらくここに住まわせて貰いたいのですが……」
陽介はもじもじしながら、奈美子に訴えた。
「はぁ!? 嫌ですよ? 何でよくわからないあなたを、私が面倒見ないといけないんです!」
「お願いします!! 家事全般お手伝いします。他にも出来ることなら何でもやりますから……。もちろん、仕事が見つかれば出ていきます! だから……」
土下座して頼み込む陽介に、夜勤明けでフラフラしてきた奈美子は頭を抱える。
「ちょ、ちょっと、もう頭が追い付かないんで、とりあえず私、シャワーしてきます。もちろん……覗かないで下さいね……!」
「え? な、奈美子さん?ちょっと…」
すたすたと浴室に入っていく奈美子に、陽介は戸惑うが、浴室の扉は勢いよく閉まってしまう。
シャワーを浴びながら、奈美子はどうすべきか考えていた。
「いや、普通に無理だよね……知らない男といきなり住むなんて……」
「やっぱり、出ていってもらお……」
ブツブツと呟き、奈美子はやっぱり陽介に出ていってもらおうと思った。
「はぁ、ちょっとさっぱりしたー」
ガシガシと髪をタオルで拭きながら出てくると、部屋の角で体育座りをしている陽介がいた。
「わぁ! 座敷わらし!!」
「……違います。川崎陽介ですよ…」
陽介はどんよりとした空気を醸し出し、恨めしそうに奈美子の方を見る。
「ご、ごめんなさい、つい」
「急にお風呂に入ってしまって、俺どうしたらいいかわからなくて……。あの、迷惑なのはわかってます。絶対に変なことしません! なるべく早く出ていきますから、お願いします!」
「でも、いきなり知らない男の人と住むなんて……」
「お願いします!もう、頼れるところも人もいなくて……!」
「……はぁ、もぉ、わかりましたよ……」
土下座をし、情けない声で訴える陽介に、奈美子は呆れて、ついには同居を許してしまった。
「でも、変なことしたら、即通報ですからね。部屋は狭いけど、寝室を使ってください。私はリビングの方で生活するので」
「あ、ありがとうございます!! 何でも言い付けて下さい!」
陽介は立ち上がり、奈美子に顔を近づけた。
「ちょ、く、臭っ!! とりあえず、お風呂入ってください!!」
ふんわりと鼻を突く臭いに、奈美子は陽介の体を押し返す。
「はぁーい!!」
小走りで浴室に消えていく陽介に、軽く目眩を起こしながら、奈美子はソファーに倒れこむ。
「もう、なんなのよ……」
ボソッと呟くと、浴室からご機嫌な鼻歌が聴こえてきて、奈美子はそのまま眠り込んでしまった。
「お風呂ありがとうございました、奈美子さん! ……ん?」
ソファーに寝転び、すやすやと眠る奈美子に、陽介は傍にあったブランケットをそっとかけて、優しく微笑んだ。
「お疲れ様です……」