夫婦生活
朝、決まった時間に目を覚ます。
特にこれといった印はない。ただ、何年も続けてきたので身体が適応したというだけだ。
寝起き特有のあやふやさはない。目を覚ましたら意識もしっかり覚醒する。そういう風に、身体をならしてきた。
本日も一日が始まる。
坂道を下る。我が家は山の上にあるという訳では無いが、少し小高い丘の上にある。丘の下の風景を見ながら下りていくのが、私のささやかな楽しみの一つだ。
丘を下りていくと、小川が流れている。昨今では珍しい、きれいな川だ。主観的な話だが。
水を分けてもらう。
この水は生命線である。ここを失えば、しばし遠くまで探しに行かなくてはならない。面倒臭がりな自分には重苦だ。やってられない。
なので、私は小川に手を合わせる。随分現金な話だが、感謝というのはそもそも、そうした感情から生じるものだと思う。
自分にできないからしてもらう。頑張ればできるけど面倒臭いからやってもらう。やってもらったら、また次もやってほしいから「ありがとうございます」などと気持ちの良い言葉を与える――――
色々批判されるだろうが、結局生活に地続きなのだ。我々の思想とやらは。むしろ、思い切って認めてしまった方がよい。下手な言い訳をしなくて済むのだから。
水をえんやこらと運ぶ。一日の中で、ここが一番の重労働だ。力の限りを振り絞って桶一杯の水を、零さないように運ぶ。行きはよいよい、帰りは怖い。坂道を重い水を持ちながら上る苦痛。これだけは何度やっても慣れない。
やっとのことで水汲み終了。しばし休憩する。その後、十分程度の畑いじり。
十分だ。十分で構わない。後は成り行きに任せる。手を必要以上に加えることは許されない。理を捻じ曲げてしまうから。
精々私にできることは、少しズレている箇所を修正するくらいだ。
これで、私の一日の労働が終わる。
後は日々の栄養補給以外、何もすることはない。ただ心静かに景色を眺めるだけだ。
「終わったのか?」
背後から、どこか舌っ足らずな愛らしい声が聞こえてきた。
「ああ」
私は顔を向けることなく、ぶっきらぼうに返す。気に食わなかったのか、声の主はフン、と鼻息を鳴らした。
「ほれ、今日のメシだぞ」
そういって声の主――――奥方様が蒸かし芋を乗せた皿を差し出してきた。私は感謝を述べてそれを頂いた。
「今日のは少し出来が良い。めでたいの」
奥方様は私の隣に座ると、嬉しそうにそうおっしゃった。
例えようのない、美しい姫君である。この方と暮らし始めて幾星霜、正直この方のご尊顔を眺めることが生き甲斐になっている。見ているだけで、心が満たされる。
「なんだ? ワレの顔に何ぞついているか?」
私が色々思いを巡らせているうちに、いつの間にか奥方様の訝しげなお顔が間近に迫っていた。私は思わず目をそらす。
「いえ、別に」
「な〜んだその曖昧な言い草はぁ?」
ますます不機嫌になったのか、奥方様は頬をぷくうと膨らませた。可愛い。
分かりやすいお方だ。喜怒哀楽が表情にはっきり表れ、嘘も一切つかない。御心が手に取るようにわかるのだ。
実に羨ましい。仮面をつけながら生きていかないといけない矮小な私とは違う。生まれながらにして素直に生きていくことを許された、まさしく超人なのだ。
そもそも、超人も貴人も本来、嘘をつく必要のない存在だ。何をしても認められる存在だ。それでもなお、彼らはよく己を脚色しようとする。もっともっと、他者の認識より優れているのだと驕る。その結果は、誰でも予測可能なものだというのに。
こういったつまらないことを我々は「業」などとうそぶく。そしていつも世界に絶望するのだ。少しは奥方様を見習うべきだろう。そうすれば、多少楽観的に生きられる。
「奥方様」
不意に、無駄な問答を始めたくなった。
「なんだ?」
私の意図を察したのか、奥方様は妖しい笑みを浮かべる。
「私は、いつまでこれを続ければよいのでしょうか?」
「ふむ、前にもこの話をしたな? 随分前だ」
「ええ、ちょうど千年前の今日に」
「細かいの。さすがはワレの農夫。しかしこの問答はその時に終わったであろ?」
「暇なんです。お付き合いください」
「はぁ……物好きよの。誰かに聞かせたいのかえ? まぁ、よいわ」
奥方様は蒸かし芋を口の中に入れ、噛まずにゴクリと飲み込んだ。そして、しゅるりと軽く舌なめずりをする。
「未来永劫じゃ。ナレはここでずっと、農夫として活動せねばならん」
「拒否権は?」
「ない。というか、ナレも満更ではないであろ?」
確かに、性に合っている。不満もない。
「ナレは絶対、この役目を放棄することはない。そして、この状態の維持こそが和平となる」
「しかし私にも心があります。心とは不穏の塊です。いつか、心変わりするやもしれません」
「ないな。ナレはこの活動に心から満たされている。渇望感があるなら心変わりもあろう。しかし、ナレは自分の意志でこの活動に勤しんでいる」
奥方様はきっぱりと断言する。確かに、今の役目に不満、それどころか充実しているとさえ思える。この役目を譲るくらいなら、いっそ死んでしまったほうがいいと、本気で思ってしまうくらいに。
「絶対など、存在しませんよ。どんな事象にも例外がある」
「そうだな、どの世界に行っても、絶対の存在証明はできんだろう。だがな、絶対があるという例外も、存在するのだよ」
クスクスと、姫君は口元を押さえながら柔らかに笑う。
「所詮、ワレ等のような存在に、自由などないのだよ、農夫」
「まぁ、これもまた一つの形ですからね」
「左様。世界を成り立たせるためにワレ等がおる。下界の魂は自由がある代わりに、試練が待っておる」
「その試練、昨今厳し過ぎやしませんかね」
「ナレが農夫として生まれる前はもっと厳しかったんだぞ。これでもまだマシなくらいだ」
姫君は残りの芋を頬張りながら、私と同じ方向を眺めている。普段の可愛らしい言動からは想像もつかないほど、静かな顔つきになっていた。
「奥方様は、お役目に不満を持ったことはあるのですか?」
「その質問は初めてだな。そうさな――――」
こうして私達の一日は巡る。眼前に広がる光の海を眺めながら、私は今日も平和であると実感するのであった。
終わり