5
若者が片手に持ったその錫杖を大きく振るう。
(鹿神)
強い衝撃波が化け犬を襲い、そのまま外へと弾き飛ばした。
「お兄ちゃん、どうしてここに?」
梢が驚いたように声をあげた。その若者は梢の兄である七尾流だった。当然、彼にも『憑神』の力があり、その手に持つ錫杖には『鹿神』という妖かしが封じ込められている。
「一条家に連絡を入れたら、お前が来ていないと言われた。スマホのGPSをたどって来ただけだ」
「あら、流君、妹のスマホで位置検索なんてしてるの?」
少し誂うように文乃が言う。そして、その腕に抱いていた梢をソファへと降ろす。
「こういう時のためです。いったいどういうことですか? なぜこんなところに梢がいるんですか?」
明らかにその声は怒っている。
「あらあら、ちょっとお仕事をお願いしただけよ」
「仕事? さっきの妖かしがそれですか?」
不愉快そうな声で流は言った。
「まあまあ、そんな怒った声を出さないでよ」
「梢を危険なことに巻き込まれては困ります」
「危険なことなんかないさ。後で話は聞くからさ、とりあえずは流君も手伝ってよ」
流の怒りなど、まったく意に介さない様子で文乃は言った。
外の妖かしの妖気が再び強くなり広がっていく。
(なんだ?)
このペンション全体を取り囲んでいるかのようだ。
「梢ちゃん、範囲を広げて」
文乃が梢に向かって声をかける。
「でも、それじゃお兄ちゃんがーー」
「構わないから! 早く」
光太郎に向けていた力を外し、梢は大きく手を広げる。
梢を中心として、この一帯の広い範囲での妖気が消えていく。それは響自身に対しても影響のあるものだった。自分の中にある妖力が吸われ、力が抜けていくのを感じる。だが、妖力を使わない術ならば影響なさそうだ。
文乃は何も言わず、ただ視線を響のほうへと向けている。
(そういうことか)
響は持っていた呪符を周囲に張り巡らせ、その術で結界を張った。それは最近になって一条春影から教えられていた呪符を使った簡単な術だった。
「響君、おみごと」
「でも、長くは持ちませんよ」
「大丈夫、大丈夫。これで少しの間はアレも襲ってはこれない」
そう言って文乃は光太郎へと近づいていく。
「あれは何だ?」
光太郎は恐る恐る窓の向こうを覗き込みながら訊く。そこには暗い闇が広がっているだけだ。梢の力と、響の結界によって空間が少し歪んでいるせいだ。
「妖かしだね」
当たり前のように文乃は答える。いや、実のところ、文乃の答えというのはいつも答えになっていない。
「どうしてあんな化物が私を?」
「化物じゃあないよ。あれは妖かしだ」
「同じようなものだろう? どう違うっていうんだ?」
「全然違うものさ。月とスッポン、アルキメデスとソクラテスみたいにね。何よりも妖かしは強い恨みから生まれるものさ。そこには感情というものがある」
誰もが首を傾げる例えだったが、誰もそれを指摘することはなかった。
「恨み?」
「何か覚えはありませんか?」
思わず響は問いかけた。文乃に任せていては全く話が進まないように感じたからだ。その問いかけに光太郎は首を振った。
「ないよ。犬なんて。飼っていたベスだけだ。さっきのはベスじゃない」
「そうみたいだねぇ」
文乃は全てをわかっているかのような目で光太郎の顔を覗き込む。
「え? ベスを知っているのか?」
「知らないよ。知らなくてもそれはわかる。ベスはあなたの中にいる。あなたの中にいてあなたを守ろうとしている」
そう言って文乃は光太郎の肩をポンと叩いた。
「私を守る? ベスが?」
「だから、まだあなたは生きていられる。でも、あなたは誰かの恨みを受けている」
本日、ウチの愛犬が他界しました。どんな形になったとしても、見えない存在であったとしても、傍にいてほしい・・・なんて思いがこの小説にも現れています。
後で読み返した時、そんな自分の感情がわかるよう、後書きとして残させていただきます。




