天翔ける白鳥
広い宮殿の中にある、奥まった部屋。
天井が高く、幾本もの大きな太い柱で支えられている。
部屋の真ん中には、赤々と燃え盛る火の祭壇。
その前に、何歳だろう…真っ白い髪を伸ばし放題にして柿渋で染めたような顔色の、とんでもなく齢を重ねた占師の翁が居る。
翁は何事か呪文を唱えながら、祭壇の火の中に鹿の骨を慎重に置く。
玉串を振り回し、大声で意味の分からない言葉を何度も繰り返す。
私は他の姉妹たちと並んで座らせられ、固唾を飲んで見守る。
この太占で選ばれたものが、今度架ける橋の人柱となるのだ。
『また橋が落ちた』
不吉な囁きが、宮廷中、いや国中を駆け巡る。
『大王は呪われて居られる』
周りを湖と川に囲まれたこの国では、舟と橋が必要不可欠だ。
代々の王は橋と舟の維持に腐心してきた。
しかし、今の大王が即位されてから、何度架け替えても橋が落ちる。
今回落ちた橋も、僅か三月前に架けられたものだ。
舟だけでは物流も人の流れも、極めて効率が悪い。
橋を架けるのにも、膨大な人員と莫大な費用がかかる。
民は疲弊しきっている。
人心は離れていき、早くも次の大王の擁立を望む声が日々大きくなる。
大王は遂に、自身の皇女から人柱を立てることを決意した。
鹿の骨はじりじりと焼けていき、占師の翁が発する怒声のような大音声を合図にしたように、バキッと大きな音を立てて割れる。
音は不気味に高い天井と静まり返った部屋に響き渡り、私は恐ろしさに首をすくめる。
翁は慎重に祭壇の火から骨を取り出す。
「誰だ…」
大王である、私のお父様が苦悩の声で訊く。
翁は生唾を飲み込み、先ほどの大声とは打って変わってかすれる声で言った。
「…第七皇女、碧の皇女…」
・・・・・・・私。
私はその場で気を失ってしまったらしい。
気が付くと、部屋の寝台に寝かされていた。
「碧の姫様…お気づきでございますか」
私の枕元で泣いていた、同い年の侍女、小鹿が顔を近づけてくる。
「お水を持って参ります…」
と言って立ち、涙を拭きながら部屋を出て行った。
「碧の皇女…」
部屋の外、簾越しに男の声が聴こえる。
「尹久沙」
私は起き上がって、簾の傍まで近寄った。
尹久沙は地面に這いつくばるように頭を下げている。
肩が震えているようだ。
「尹久沙…泣いているの?」
「なぜ…碧の皇女が…人柱に…」
私の気持ちが重く沈む。
あれは夢などではなかったのだ…
私は、本当に、神から今度架ける橋の人柱に指名されたのだ。
「太占で示された神様の思召しですもの。
なぜ、なんて言ってはいけないわ。
私が橋の礎になって、皆の命と生活を支えるのよ」
私は思ってもいないことを、自分に言い聞かせるように言う。
尹久沙はぐっと唇を噛みしめ、声を忍んで泣き続ける。
尹久沙は、10年ほど前にどこからかこの国に迷い込んできた孤児だ。
7歳という年齢の割に身体が大きく、また賢かったので、衛士見習いとして宮廷で召し抱えた。
5年前の夏、9歳の私が侍女たちと森の中の湖に水浴びに出かけた時、森の奥から熊が現れた。
警護の兵たちが矢を射かけるが、手負いとなった熊は猛り狂い、私めがけて襲ってきて大きな爪で私を袈裟懸けにした。
皆が声も出せずにその場に立ち竦んだその時、尹久沙が大声を上げながら棍棒を振りかざして私の前に立ちふさがり、大怪我を負いながら熊に何度も棍棒を打ち下ろし、遂に斃した。
私は一命をとりとめたが、胸に大きな傷を負い、豪族には嫁げない身体になってしまった。
尹久沙は特に顔に大怪我を負い、目が片方、潰れて失明した。
私はお父様にお願いして、尹久沙を私付きの衛士にしてもらった。
どこへ行くにも、尹久沙がついてきてくれる。
背が高くて逞しく、無口な隻眼の兵士は、宮中の女人に密かに人気だ。
でも、尹久沙は私にしか口を開かない。
尹久沙が泣いているのを、私は初めて見た。
簾を上げ、床下の地面に泣き崩れる尹久沙の鬟に結った髪に触れる。
「わたしも、碧の皇女のお供をします」
尹久沙は泣き濡れた顔を上げて、私の顔を見つめて言う。
「碧の皇女の居られない世界など、わたしには何の価値もない。
どこまでもお供します、黄泉の国までも」
「尹久沙…」
私の双眸からも、涙があふれる。
尹久沙の気持ちは、私にはずっと以前から判っていた。
だけど、キズ物とは言え皇女である私と、孤児で衛士の尹久沙では身分に差がありすぎて、まったく問題にもできない。
それを重々理解している尹久沙も、一度も私に気持ちをほのめかすこともしたことはない。
ただ黙って、恭順に盲目的に私を守り従う。
そして私も…尹久沙を…
私は頷いた。
「尹久沙と一緒なら、何も怖くないわ」
尹久沙は、ぎゅっと目を閉じて涙を振り零し「ありがとうございます…」と呟いた。
「わたくしも、碧の姫様と共に人柱になることが決定しました。
どこまでも姫様と共に参ります」
いつの間にか、私の後ろにいた小鹿が涙を拭いながら言った。
「そう…では、皆で天翔ける白鳥になり、この国を見守りましょう」
私は、尹久沙と小鹿の手を取る。
懸命に自らの心を奮い立たせて、微笑んだ。
そして、橋の着工の日。
私は巫女の白い装束に身を包み、三つ並んだ棺の、一番大きく立派なものに入った。
部屋の隅に立っている、やはり白装束の尹久沙と小鹿に微笑みかけた。
「尹久沙、小鹿、先に逝くわね。
また後ほど逢いましょう」
その場にいる皆が、涙を堪えきれずに泣き出す。
綺麗な布を敷いてたくさんの花で飾られた、棺の中に横たわり胸の上で手を組む。
水薬のような、毒薬を飲まされる。
意識が途切れる少し前に「碧の皇女…!!」と喉が裂けるような、悲痛な尹久沙の声が聴こえた。
私は最後の力を振り絞り「尹久沙!!愛してる!」と叫んだ。
私は、自分の身体が純白の鳥になって、大空に羽ばたいているのに気づいた。
横に大きな白鳥が優雅に、私を守るように翔んでいる。
隻眼の白鳥。
…尹久沙。
少し後ろを、小さめの白鳥が私たちを追ってくる。
ああ、小鹿なのね。
私は尹久沙に身を寄せる。
尹久沙は愛しげに嘴を合わせた。
新しい橋は、今度は決して落ちない。
大王は名誉を回復し、国は平らかに落ち着いて発展していく。
私たちは果てしない大空を天翔け、いつまでもこの国を見守っていく。