「私、胸がないから・・・」
「私、胸がないから・・・」 そういって彼女、菜摘さんは少しだけ抵抗するそぶりを見せた。
そんなことを気にしているのか、とちょっと飽きれた。
確かに胸のふくらみを感じたことはない。しかしあらゆる面で完璧なこの女性を前にだれがそんな些細なことを気に掛けるのだろうか。
彼女の瞳は深い海のように謎を秘めていて、スローモーションのような瞬きはキラキラと鱗粉を振りまいている。艶やかな黒髪には漆が塗り込んであって、きっと純朴な男が触れたならかぶれてしまうだろう。ベッドに伸びるこの脚を晒して外を歩いたならば、半ダースほどの仙人が力をなくし落ちてくるに違いない。
また頭も抜群にキレる人だ。職場では「問題があれば菜摘さんにきけ」と言われていて、実際に彼女のアイデアで数々の危機が乗り越えられている。他にも、スポーツや楽器は見ただけで習得できるとか、学生時代に分子生物学でブレークスルーを起こしたとか、そういった伝説を挙げていけば切りがない。
「・・・ 貴女は誰よりも包容力のある大人の女性ですよ」
大体そんなことを言いながら一番上のボタンに手をかけた。横目で見ると、彼女はこっそり手首のボタンを外し、手を袖に引っ込めている。うむ、悪くない流れだ。地雷を踏まずに済んだらしい。
そのままキャミソールまで脱がせて、私は息をのんだ。この瞬間まで、彼女の「私、胸がないから・・・」という言葉を全く理解していなかったのだとわかった。なぜなら、私が見つけたのは彼女の心臓があるはずの所に、拳より一回り大きいくらいの穴がぽっかりとあいていたという事だったからだ。
彼女は私の戸惑いを感じとったらしい。悪いことをしたと思うが、彼女の少し縮こまるような態度が、私のお腹の底で渦巻く悩ましいものをより一層禍々しくさせてしまった。でも「それをわたしにちょうだい」といわれるまではこらえておくのが礼儀であろう、特にこの方のような人が相手ならば
彼女の胸に頭をあずけながら空いた手を背中側に回し、人差し指でぽっかりとあいた穴のふちをトンビが旋回するくらいのペースでなぞっていた。その間ずっと、紗に浮雲を詰めたぬいぐるみの腕で抱きしめ、癖のある私の髪をクルクルといじっている。もう少し内側も触れてみようかなと思い始めたとき、彼女が口を開いた。
「こうしてると、あの子のことをおもいだしちゃうな」
「弟のことよ」
私がほんの少し強張ったのを感じて付け加えた。それで力の抜ける私も現金なものだが、彼女はそのまま涙と共に吐き出し続けた。
「いままでしっかり話したことがなかったかもしれないけど、私には弟がいたの。甘えん坊でね、小さいころはいっつも泣きついてきたし、10代になってもたまにこうやって抱きしめていたことがあったな、頭がよくも、器用でも無くて、そこが可愛かったんだけど、唯一音楽の才能だけはあったと思うの。特にギターが上手でね、両親が私のピアノとバイオリンのために作って、私が飽きちゃったから使ってなかった防音室にいっつもこもってギターを弾いていたわ。
"バンドは音楽をするために一緒にいるのでなく、一緒にいるために音楽をする人たちである"っていうけど、弟は音楽にしか興味がなかったのね、いろんな人とセッションをするけどいっつも喧嘩別れして私に泣きついてきた、誰も僕の音楽をわかってくれないって。 私にはわかっていたわ、弟のギターは一流だってこと。華やかではなかったけど、水を鏡のように張ったみたいな繊細さが、アンプで増強された音の中にひそんでいるんだって。
でもね、弟は死んじゃったの。17歳のときだった、生きていれば丁度あなたくらいの年になるわね。ある日ね、防音室から漏れるギターの声が急に途切れたことがあったの。いきなりプラグを抜いたみたい感じだったから、聞き流していても変だなとはおもったのだけど、休憩しているのかなと思ってしばらくは気に留めないでいたわ。でもいくらたっても音が聞こえなかったから、気になって見に行くと弟が倒れていたの、全身から血の気が引いて動けなかったわ。死因は感電死、原因はギターと周辺機器の不正改造だった。眠ってるようなきれいな身体でね。未だに彼が死んじゃった実感が持てないの。
あなた、たまにおどけて私のことを 菜摘姐さん なんて風に呼ぶことがあるよね。その度にね、あなたの中に弟を見出してしまうの。嫌だよね、勿論 あなたのことは素敵で魅力的な男性だと思ってるし、それだから今こうして逢っているのだけど… でもやっぱりあなたは少し弟に似ていて… そんな風に見られたくないよね、 ごめんね、 ごめんね…
そういって彼女は泣き続け、しばらくすると疲れて寝てしまった。
腕を抜いて布団をかけても彼女は寝たままだ。こんなにも力の抜けた彼女の頬は初めて見た気がする。少し小さくなったような彼女の穴から、冷たい夜風が吹いてきて鳥肌が立った。まだお腹の底は暖かいが、だんだんと身体の芯まで冷えていくだろう。