11話 熊野暦21年度開発計画
説明回2
詰め込みすぎて読み辛いかもしれませんがご容赦ください
熊野暦9月下旬
俺は開拓の進む北畠の里に訪れていた。ここ微妙に遠いんだよね。熊野町から30km位有るんじゃないかな。マラソンランナー並みに健脚な人なら2時間ほどで着くが、木材とかは牛に引かした大八車に乗せて運んでいるんだけど、時間が掛かってしょうがない。
サンタクロースみたいに、鹿4頭位に引いてもらった方が早いかも知れない。稲刈りがすんだら、猟師に頼んで鹿を生け捕りにしてきてもらおう。
鹿って花札とかに紅葉と共に書かれているから、そろそろ時期なんじゃない?
俺は、この里の至る所に地蔵堂サイズの小屋を作ってもらい、味噌と醤油を作っている。味の良いものが出来た所に、味噌倉と醤油倉を作ろうと言う寸法だ。ついでに、米味噌・麦味噌なども試作しているな。
それから、空き地に移動し畑を耕した。最近知ったのだが、麦は秋に種を蒔いて、6月位に収穫するらしい。栽培周期が米と一緒だと思っていた俺は慌てて畑を耕すことになった。
単純作業が苦手な俺は、11月頃に取れる大豆製品の製造を夢想し、天音さん納豆食べれる人かなだとか、うずめは納豆で遊んで怒られるんだろうなとか、下らない事を考えモチベーションを保ちながら畑を耕した。
翌朝、熊野家の隣に併設してある熊野神社の前には、うず高く米俵が積まれていた。米俵と言っても30kgの小さなものだ、米の値段がk330円位なら、俵1個で1万円の価値だな。この時代なら価値観はもっと高いかもしれない。
「何です これ?」
「俺は要らないと言うんだが、みんなが奉納とか言って持ってくるんだ」と熊野さんが言うと、まあ実際にご利益有るし当然かと納得した。
一家3人で食べきれないので、大工の集団を雇い領地の開発に当てていると言う。
言い忘れていたが この地方には貨幣は無く物々交換だ。あと紙も無い。
熊野さんと俺なら何とか作れそうだが、紙と言う消耗品に労力を裂く価値が見あたらなかった。絵とかは地面に書けば良いしな。
今後、お菓子の包装紙として需要が有るかもしれないが、当分は生産が追いつかないため、お茶屋スタイルの店頭販売のみとなるだろう。
納められた米を蔵にしまい、熊野家家族会議(21年度開発計画会議)がおこなわれた。
書記は天音さんだ、先ほど紙は無いと言ったが筆記用具はある。建材や竹を割った物を紐で縛った、木簡や竹簡と呼ばれる物だ。墨とすずりは熊野さんが既に開発していた。
熊野領では
一月(30日)×12ヶ月+正月休み(5~6日)で365日で1月1日が仕事初めだ。まあ農家が多いから、実際にはもうすこしのんびりしているが……
俺は、今年出来なかった米の増産方法(現代式の田植え)を提案したのち、専業の猟師と土木工事従事者を提案した 360日フルで仕事が出来る人がいれば生産性が上がるからだ。大工のみに関しては既にこの方法だった。
今のところ、熊野さんの漁で取って来た魚+俺の作り出す食品など+熊野美人の売り上げ、又は現物で農業従事者の暇な時期に期間工を雇う感じだ。
米農家が米貰っても嬉しくないからな。
この時代の人件費は恐ろしく安い。たとえば猿田彦とか、酒4合位で材料費ふくめ大体の物を作ってくれる。森が近いため木材なら実質タダみたいな物と言う事もあるが、それにしても安いと思う。
「さて 来年は何をするか?」と熊野さんに言われたので、幾つか提案して見た。
Q1「此処から南の志摩地区はどうなってます?」
「漁師が使う 休憩所が有る位だな だが陸の孤島だぞ」
「直線距離は短いので街道整備したら 住みたい人も出てくるかもしれませんよ」
「何か特産物が無いと 此処から移住する意味がないがどうする」
「昔はどうかか知りませんが 海苔の養殖が有名でしたよ」
「ああ、俺の実家もやって居たな」
と言う会話の末、志摩地区の開発が決まった。
Q2「伊勢地区 志摩地区は掘れば温泉出ますけどどうしますか?」
「あれ どれだけ掘ってると思う まあ自然湧きしてる可能性はあるが」
街道整備のついでに調査してもらう事になった、まあ人力で1500m掘るのは厳しいか?昔の人はどうしてたんだろうな。
「ああ、自然湧きで思い出しましたけど、御在所岳のふもとに温泉が湧いてる可能性がありますね」と大体の場所を説明した。
御在所岳の麓には、湯ノ山温泉と言う場所が有って、猟師が傷ついた鹿が湯に入っている所を発見した事から、別名鹿の湯温泉とも言う。その伝説が本当なら湧いている可能性は高い。
こちらも調査してもらう事になった。
Q3「今後 北畠でお菓子を売り出すなら近くに大規模な養蜂場が欲しいのですが?」
「北畠から 西の名張地区 伊賀地区は猟師の狩場が有るから規模を拡大してみるのもいいな」
こちらはそれほど手間が掛からないとの事で了解を得た。
Q4「そろそろ 鰹と秋刀魚の季節ですね?」
「たまに迷い込んで来るやつは居るが かなり沖に出ないと取れないぞ」
安定して取るには大型船が必要で、今年度は無理と言うことだが、どの位の沖に居るかは今年中から調査してもらえる事になった。
Q5「現愛知県と岐阜県のご祈祷及び奉納舞はやりますか?」
こちらは此処から遠過ぎて無理との事だ。
「巫女の素養の有る人を育てて、熊野神社の分社をたてて見ては?」
「おはぎの製造販売も含め人手が要りそうだから考えてみるか」2~3人従業員を雇って貰える事になった。
まとめると
1志摩地区の街道整備および海苔の養殖の実験
2名張地区・伊賀地区の集落の規模の拡大
3御在所岳周辺及び伊勢志摩地区の温泉の探索
4三重県沖の海洋調査
5熊野神社の見習い兼従業員の雇用
これに真珠の養殖実験が成功すれば鳥羽湾での真珠の養殖が始まる。これが熊野暦21年度の開発計画だ。
このあと、志摩地区へどのルートで道を通すかと言う話になったので、外で周辺地図書き論議していた。俺は三重県北部の人間で南部には詳しくないので、熊野さんの意見を聞きたかった。
「俺の生きてた時代だと こことここに県道と国道がありましたね」
「昔はここだったな」 などと会話していてふと気付いた。
「確かこの辺に 飲料水に使えそうな沢と洞窟が有りませんでした?」
「ああ 天の岩戸だな」
さすが地元民と言うか詳しい場所を知ってていた。
「その辺りを中継点として飯場とか置いて拠点として見てはどうです? 洞窟内なら食材も日持ちしますし」
「まあ 長い目でみたらそれが現実的か」と大筋のルートが決まったので、町に行き有志を募ったところ意外な人気だった。以前トンネル工事をした時にやりがいを見つけたらしい。
まあ、仕事はしんどいが達成感ハンパ無いもんな土木工事。
来年の1月1日に起工式とご祈祷を行い、工事開始の予定になった。
この時、熊野町南部の山間に拠点を置く、土木工事集団「熊谷組」が誕生した。熊野さんの名前と、本拠地が谷間にある事が名前の由来だ。
日本発のトンネル工事を行い、奇しくも現実世界と同じく「トンネル工事と言えば熊谷組」と呼ばれる事になるが偶然の一致だ。
後の世に、こっちの世界の熊谷組が青函トンネルを作るかは不明である。
こちらの世界の熊谷組
創業約2600年少なくとも紀元前から存在すると言われている
西暦1100年代に奥州藤原氏の資金援助のもと青函トンネルを開通
実際に有ったらこんな感じになるのかな




