クルージングの罠
クルージング?
行った事ないですが何か。
がらがらと抽選器を回す。
ころりと投げ出された球体は、金メッキで塗装されている。
「――おめでとうございます!特賞です!」
からからとベルを鳴らしながら、抽選イベントを行っていた複数の一人が、大きな声でそう謳った。
私はそれを疑いもせず、景品であるクルージングの旅券を、素直に受け取ったのだった。
それが悪い事だとは思わなかった。
あんな災害に見舞われるとは、予測さえできなかったのだ。
さあ、と潮風が頬を撫でる。
磯の香りはあまり好きではないが、折角のクルージング、楽しまなければ損だろうと、無理矢理テンションを上げて、気分を向上させる。
「んー、潮風が少し強い!」
結局ネガティブな感想になるのは、私の性格の所為だろう。
船の縁に座ってそう叫ぶ私は、少しだけ風邪気味で、本当なら部屋で寝ておくべきなのだけど、どうしても部屋にいると悪寒がして、外にいた方がマシだと思えたので、外に出てきたのだ。
悪寒は熱のせいなのに、場所で変わるとは少し不可解で、これは悪寒ではないのでは、とも思うのだけど。
「お、鮫か?鮫なのか?」
三角の背鰭が、水面を滑る。
ぴたりと船の横について泳ぐそれが、鮫なのか海豚なのか、それともまた別の海生物なのかはわからない。
他の人も気付いただろうかと看板を見渡すが、いつの間にか誰もいなくなってしまっていた。
「まだ昼なのに……変なの」
私はまた三角の背鰭を見ようと、海面に目を落とす。
しかし三角の背鰭は、深く潜ってしまったのか、それとも離れてしまったのか、見る事が出来なくなっていた。
「んー、間食でも取りに行こう」
切り替えるかのようにして伸びをすれば、少しだけぼうっとしていた意識が、幾分か晴れ渡るような気がする。
よし、大丈夫。
船内に入って、スタッフさんを探す。
「……誰も、いない?」
少し前まで、私が船内にいた一時間前までは人で賑わっていた船内には、不気味な程人がいない。
それだけなら何か演目をしているのかもと思えたが、ホールにも、シアターにも、誰もいない。
ここで私は、よせばいいのに、好奇心により、昼間なのに人気のない船内を、探ってみる事にしたのである。
屋上にある屋外プール、誰もいない。
食事をとるレストラン、誰もいない。
ついでに奥にある厨房――。
「……っ!」
入った瞬間、血のような生臭い匂いが、鼻についた。
息を潜めて、音を立てないように、私は厨房の奥へと歩を進める。
「う、ぉ、ぉ」
だんっと何かを叩きつける音と、びちゃびちゃと、水飛沫の飛ぶ音がする。
私は好奇心のままに、その音へと引き寄せられていく。
まるでそれは、誘蛾灯に誘き寄せられた蛾のように。
「あ、あ……」
私の目に入ったものは、シェフのような格好をした太った男が、タキシードを着た少年を、包丁で切り刻んでいる光景だった。
ぼそりと漏らした悲鳴のような声に、シェフらしき男が、こちらを向いた。
――ああ、あれは、人間ではない。
ぐずぐずと腐った疣だらけの顔に、穴が空いたようにある大きな口には、歯が円を描く様に生えていて、でろりと剥がれた腕の皮膚は、そこからうねうねと溢れ出る蛆のような触手が押し破ったかのように見える。
「う、お……お、おお……」
呻き声と共に、男が歩を進める。
私は逃げようとするが、足がどうしても動かないのだ。
このままここにいれば殺されるのはわかっている。
けれど、膝が震えて動けない。
「う、お、おお!」
男が包丁を振り上げた。
私は――、がっと肉を断ち切り骨に包丁が引っかかった音を、耳にした。
「逃げるぞ!」
私を助けたのは黒髪の少年だった。
彼は振り下ろされた包丁から私を庇い、代わりに腕を刺されたのだ。
少年は腕に刺さった包丁を抜いて、それから私の手をとって走り出した。
「うおおおおおおおお!」
獲物を持ち逃げされた男は、咆哮をあげて怒りを顕にする。
「しょ、少年よ!君さっきまで包丁で切り刻まれていなかったっけ!」
「その事については後だ!それと、静かにしないともっと沢山の化物が寄ってくるぞ!」
私はあの男のようなのがもっと沢山出てくるのを考えて、さっと顔を青くさせた。
よし、静かにしよう。
「……よし、ここなら大丈夫」
シアターの扉を閉めて、少年は取手に閂のように棒を刺す。
「少年、腕治ってない?」
私は少年の腕を見てそう言った。
さっき確かにざくりといった筈の腕には、傷らしきものが見えなくなっていた。
「ん?ああ、致命傷でなければすぐに治るんだよ。致命傷でも時間がかかるくらいだし」
「ごめん少し意味がわからない……っと、伏せて!」
先にこっそり入り込んでいたのか、おおよそ人間とは思えない姿の生き物が、また私達に接近していた。
私は少年がしゃがむものとして、思いっきりそれを蹴った。
ぎりぎり間に合った少年の頭の上すれすれを、私の回し蹴りが通る。
恐怖が一周回って勇気になったのか、今度は膝が震えることもなかった。
「えっ、強っ……えっ?」
蹴られたそれは、椅子に激突して首を折ったが、人間ではないのでそれが致命傷になるかどうかはわからない。
「少年、甲板に出るぞ!」
少年の腕を引っ張って立ち上がらせ、私は閂を急いで外し、外に出る。
目指すは、私が最初にいた甲板。
殺せないなら、海に落とせばいい。
「ちょっ、アンタこそ何モンなんだよ!元軍人のオッサンでもあそこまで吹っ飛ばせなかったぞ!?」
「一応武術を少しね。まさか使う事なんてないと思ってたんだけど……!」
「少しってレベルかなぁ!?」
師匠は一撃で体を破壊できる。
さっきあれが首を折ったのは、椅子に当たって偶然なのだから、少しのレベルでしかないだろう。
あの蹴りの威力じゃあ、まだまだ殺すに至っていない。
「あれじゃ肋骨折ったくらいだし。内臓を潰したり加減したりを自在に行えるようになって一人前だって師匠が言ってた」
「物騒だな師匠さん!つーか内臓潰したりって、それどうやって一人前だって判断する気だ?」
「こう、人体にそっくりな人形をまず作ってだね……」
私も教えられたが、師匠のように意識があれば人間、というレベルまでの精巧なものは作れない。
見かけを寄せる事はできるが、内臓から血管までを細かく再現する師匠は、はっきり言って気持ち悪い。
似てればそれで良いんじゃ、と思うけど、師匠にとっては駄目らしいのだ。
と、そんな話をしていると、さっさと甲板まで辿り着く事が出来た。
「――おおおおおおおおおおおおおお!!!」
「なっ、ついさっきまで何もいなかったのに、どうして!」
しかし、甲板には、この船に乗っていた沢山の人間が――もとい、化物と化した人間が、いた。
確か、乗客数二千人、だったか。
全てがここに集まっている訳ではないだろうが、 それでも甲板に詰められるだけ詰めた、といった様子だ。
「意外と知性があるのかもな。俺が囮になるから、アンタは逃げて!」
「いや、どうせ逃げてもね!後ろ見てみな!」
「は?……っ、一体どこからこんなに……!?」
ざわざわと音が聞こえて、背後に沢山いる事に気付いた私は、前へと踏み出す。
どうせなら、殺しやすい方に賭けよう。
こっちなら海に落とせば良いだけだ。
「あっ、待て!」
一人飛び出してそれらを蹴り殺す私を、少年が制止しようとするが、もう私は少年の手の届かない所にいる。
慣れたか、元々下地ができていたのか、それとも一時的に狂化しているだけなのか、さっきの勇気が持続しているのか。
死地に向かっているというのに、私の気分は晴れ渡る空のように爽快だ。
「あ、でもこれ、駄目だね!」
黄色のドレスを着た、顔のない女に腕を掴まれる。
私はその女を、近くにいた腕を蛆で覆った男に叩きつける。
足下をずるずると這っていた少女の頭を踏み潰す。
蹂躙していく、捕まらないように、一方的に。
けれどまあ、人間疲れもするよねって話で。
肩を掴んだそれは、勿論人間ではない。
それを肘打ちで引き剥がそうとして、それの腹に大きな穴――口が空いているのに気付く。
がぶり、と腕が食われた。
肘が食われて、そちらの方の腕はもう使えなくなった。
使えるのは、片腕と片足のみだ。
少年が苦痛に叫び声を上げた気がする。
「あー、巻き込んじゃってごめんね……」
四肢をもがれていく、食われていく。
痛みにチカチカし始めた視界は、しかしすぐに黒く塗り潰された。