雪の向こうに 7
白い。
白い光に包まれているようだ。
微睡みの中に私は瞼の裏から垣間見る。
「……ほぅ」
吐いた息が熱い。
ああ、私は生きているのだと今更に感じた。
ここには全てがある。
草も、木も、熊も猪も蛇も鹿も、……そしてアケビも。
穏やかに眠っている。
白い。
白い雲と山に包まれて揺蕩う。
なんて安らぐんだ。
こんなに安らかなのは、母の胎に浮かんでいた時以来だ。
母。
母はどこだろう。
父は。
あの、旅の男の声がする。
火にまみれたあの化け物の。
「顔を見せよ『天照の目』よ」
橙色に暖かい光が夏のように照って気温を瞬時に上げた。
異常を感じた頭が三四郎の眠りを妨げる。
手先足先が痺れて動かないので、無様にも倒れた。
彼を覆っていたかまくらが熱と衝撃で壊れる。
「気がついたか」
目の前にはおよそ穏やかとは言い難い燃え盛る櫛井田の姿。それに寄り添う、櫛井田の上着を羽織った仁美の姿があった。
「あら生きていましたの。ですが随分と冷えていらっしゃる。秋実さん」
「了解」
秋実が燃えてない方の手で三四郎の首をゆるく掴んだ。
血液が徐々に温められていき、数秒も立つとまるで走ってきたかのように身体全体が熱くなった。
「ああ、ありがとう…………そうだ! アケビも頼む!」
「アケビ?」
「横にいる、ほら! この娘のこと…………」
指さした場所には熊の大きく開けられた口があった。
私を食いちぎろうとするそこに櫛井田が火を放つ左腕をこれでも食らっていろとばかりに突っ込み止めた。
拳からは炎が上がるが熊は構わず牙を立てる。
「どういうことだ? 何故離さん」
おかしい、と三四郎も思った。
熊は臆病な動物だ。
火に燃える人間にかかることはないだろうし、仮に襲ってきても炙られればさすがに逃げる。
そう思うが、現に熊は櫛井田の左腕に噛みつき更には人間の頭ほどもある腕を振りかざす。
櫛井田は左手は封じられ、右手も飛びかかってきた鹿の角を掴んでいるので使えない。
足だ。
彼の右足に炎が群がる。
松明のようだ、尾を引いて熊の腹を蹴飛ばすと熊は後ろに吹っ飛ばされた。
するとその影から猪が突進して来ており、今度は櫛井田が飛ばされた。
「おかしなこと。火を恐れない動物がこれほどいるとは」
「そんな筈が……」
彼の飛んでいった方向から明ける太陽の上がるように虚空が光った。
それと共に火をまとった櫛井田が飛んで来て地面にヒビの入る勢いで着地した。
傷はない。
蒸気と火の粉が雪を散らして舞う。
「獣風情が、生意気だぞ」
火急の立て続けに三体の獣の腹に正拳突きを見舞い、遥か後方に落とす。飛ばされた獣の腹からは火柱が上がってその身を焼き焦がしている。七転八倒、暴れているが動く端から脆い炭と砕けていくのでもう彼らも立ち上がることはない。
恐ろしい力だ。
「さて……今のうちに逃げましょうか」
三四郎に仁美が言う。
櫛井田の火に目を取られていた三四郎はそれで仁美の方に顔を向けた。
すると目を伏せた少女の後ろに、真っ青な肌の女が微笑んでいたのにようやく気がつく。
その顔は紛れもない、間違えようもない。
「アケビ……」
「はい?」
首をかしげる仁美の首をアケビが絞めた。
かはっ、と仁美の息が切れる。
「アケビ! やめるんだ!」
三四郎はアケビを止めようとしたが、アケビが一睨みすると雹の交じった吹雪が強く吹きつけて動きを止める。尻もちをついてもそれは止むことなく打ち据えてくる。
痛く、そして冷たい。
足元にも雪がまとわりつき体温を急激に奪う。
ふいに心臓が鋭く痛んだ。
「世話の焼けるな、『天之火明の息吹』」
すると熱風に包まれた。
櫛井田の吐いた息が熱風となって三四郎の奪われる熱を補い、吹きつける雪と雹を弾いたのだった。
「さて、仁美。今助けるぞ!」
無事と見るや三四郎を押し退けて櫛井田は駆け出す。
両手には業火。窪んだ右の眼窩からは星の光のような輝きがある。
三四郎はその肩を掴んだ。
音を立てて焼ける指に痺れたような鈍い痛みが走るが三四郎は放さない。
「何の真似だ!」
焚き火のような男の激昂する顔に三四郎は頭を下げる。
「やめてくれ」
「何を……仁美を殺すつもりか⁉」
「あんたはアケビを殺すつもりだろう⁉」
櫛井田は押し黙った。
「アケビは生きてたんだ……二十の祝いも出来てない……まだまだなんだ……それを、それをあんたは……そんな……!」
「……………………」
櫛井田は黙りながらも熱波を放つ。しがみつき立っているのも地獄のように苦しいほどの世界が三四郎を襲った。
細く開けた目の向こうで向かい風に吹かれてアケビと仁美が煽られて飛ぶのが見えた。櫛井田の上着に守られた仁美は無事そうだが、アケビは苦しみのたうち回る。
「やめろ! やめてくれ!」
「…………」
熱と風がおさまる。
アケビは再び仁美に掛かるが、今度は仁美の借りていた秋実の上着が火を上げて近寄らせない。
何故アケビが仁美に襲いかかるのか、雪の中薄着で無事なのか、そもそも、何故生きているのか。
三四郎も馬鹿ではない。おかしいのは分かる。
だが、櫛井田と戦えばアケビは確実に死ぬ。今度こそ完全にこの世から消えてなくなる。
「やめてくれ……もういいだろう……もう、行ってくれよ。……頼むから」
「そうか」
櫛井田は言葉とは裏腹に、仁美に尚も襲いかかるアケビに熱波を放ちながらゆっくりと近付く。恐ろしいその姿にアケビも恐れをなして逃げて、三四郎の背中に隠れた。
秋実から離れた手の平はグズグズに溶けていた。
不思議と何も感じない。
そっと手のひらにアケビは触れて、頬をあててほころんだ。もう骨も柔らかな指に私は幸せを感じるようだった。
「仁美、行こう」
「ええ、御意の侭に」
青く首に残った跡を撫ぜて仁美は頷く。
後ろから襲い掛かってきた獣や人の群れが櫛井田の揺れる火に砕かれた。猪の頭が硝子と容易く砕けて白銀の氷と水、そして血と脳髄の濁った赤色が迸る。
櫛井田が足を踏み込んだ地面から火柱が空高く上がって天地が震える。猪も熊も鹿も、いつか消えて行った村の人々のような影もその熱に溶けて落ちてやがて消えた。どこか安らかに、何故か朗らかに、皆笑って消えていくのが印象的だった。
三四郎には彼から向こうの景色は春と夏にさんざめいて遠く涙の出るように美しかった。
だが、三四郎は向こうへは行けない。
もう二度と逃げないと誓ったからだ。
「三四郎。…………さらばだ」
そうして櫛井田秋実は仁美をおぶって雪の道を春に染めながら去った。
しばらくして三四郎は再び微睡みの中に沈んだ。
恋い焦がれた人に抱かれながら、真白い景色の中にやがて真白く雪に紛れた。
雪は降り積もる。
満ち足りたような白に染め上がって。