雪の向こうに 2
アケビは二つの頃からの幼馴染だった。
六条のような人形じみた美術品のような美しさはないが、親しみやすくも時にハッとときめかせられる愛嬌のある女だった。見た目より中身をと付けられた名前をいい意味で裏切ったと評判の娘だった。
私と彼女は家が近かったことも手伝って姉弟のように睦まじく過ごした。あの夏に彼女が投げた蝉のことは忘れないしあの冬に転がった雪の柔らかさと彼女の手の温かみは幼い頃の記憶にいつも鮮やかに蘇る。
私たちは生涯を共にするものだと思っていたし、周囲も皆そう思っていた。
数年前の冬、彼女が消えるまでは。
何もかもが順調で幸せだった。
「山菜を取ってくるわ。蓄えも減ってきたし、たまには違うもの食べたいじゃない」
私は反対した。
一月も降り続く雪で蓄えは確かに減っていたが別に危険を冒すほど危機的ではない。あと一月、二月はどうにかなる。そう言って返したがアケビは聞かない。
一度言い出すと頑として譲らないのが彼女の欠点だったし、それに負けて自分が折れたことは悔いても悔いても気が済まない。
「大丈夫だって、そこの山の裾野に行くだけなのよ。それにほら、雪も弱くなってると思わない?」
雪は確かにまばらに降っていたが依然として深く白く空を覆う雲を見ればまだ止みそうにないことは明白だ。
「安心してよ。きっと冬眠してる猪くらいは取ってきてあげるから」
私も付いていくと言ったが彼女は「いいって、いいって。期待して待っててよね」と言うやいなやそそくさと籠を持って出て行った。
アケビは足が速い。
私が急いで雪支度をしている間にもう畑の向こうを悠々と進んでいく。
「母さん、少し出掛ける!」
「どこにー?」
「山の麓! アケビと!」
私は急いで駆け出した。
降り積もった雪はなだらかな起伏で家を畑を包み込み一歩一歩進むたびに足がふかふかと沈んでは少しずつ冷えていく。
吐いた息が白くほうっと浮かんでは消え、私は身を縮める。吸い込んだ空気の冷たさに刺されるようだった。
「おーいアケビー、待ってくれー」
真っ白な雪景色に揺らめいていた牡丹色の人影は私の一声で足を止め、さっきとは反対にだんだんと大きくなっていった。
「着いてきたの? あなた、鈍くさいから家にいてて良かったのに」
「そうもいかない」
「あっそう。まぁ足手まといにならないことね。邪魔したら雪だるまにしてやるわよ」
悪戯げに笑うアケビの鼻と頬が寒さで朱く染まっていて綺麗だと思ったのを憶えている。
忙しなく動く彼女は暑い暑いと言うが息は白い。
早く帰らねば。
「あの辺ね。ああいう木の根本とかにはよく生えてるのよ」
「へえ」
「前の冬とかで教えなかったっけ」
教えられた。
が、聞いたというと会話が終わってしまうから、そのまま講釈を聞く。
「いい? 山菜はね、冬の寒さにじいっと耐えて生えているの。凄いと思わない? だから私たちもこの冬をじいっと耐えて耐えて……そうするとまた春が来るのよ。楽しみね」
この時が続いていたなら、どれほど良かっただろう。
※※※
「臭うな」
「あら、風呂でそんな……デリカシーのないこと」
「違う。この天気だ」
「ほぅ、しかし一度気に止めると体臭も気になるもの」
風呂桶の水を沸々温める秋実を横目に睨んで仁美は手の辺りを嗅ぐ。
「自分の匂いは分からないものですね。秋実さん、どうです?」
ずいっと頭を突き出した仁美の髪に鼻を近づけて秋実は首を振る。
「分からんな。四六時中横にいるからかな、それに風呂で分かるものか」
「それは全く至極当然に必然に有り得ることですね」
桶を探して右手を右往左往させていたので秋実は桶を手に取ってお湯を頭にかけてやる
「ああ、助かりますわ。水場では周囲が分かりませんもので」
「何、お互い様だ」
秋実は怪我の後遺症で不自由だが、仁美もまた先天的に視力が極度に低く慣れない場所では不自由する。
「して、雪の話でしたか」
「そうだ。そもそも我々が来た理由がそれだろう。“降り止まない雪がある”とな。求めるものが根底にあるやもしれん、そう思わないか」
しん、と浴槽は静まり返った。
「私も伝手を辿り考えを巡らせた。私と君を繋ぎ止めておくには幾つか手段がある。それは幸いだ。しかしその手段は星を掴むような不可能の先にある」
仁美は無言で立ち上がり探り探り歩きつつ浴槽に静かに身を沈ませた。
真横に座る男の肌は熱く燃えるようで、刻まれた傷口は赤く煌めく血の固まりに覆われている。
「一つは『彼等』、一つは『我等』。片や夥しい犠牲の上に成り立ち、片や想像上の産物に至る。あまりに非現実で諦めかけているものの、今回は違うと思ったんだがな……」
ふう、と秋実が吐いた息は寒くもないのに白く燃えていた。
「止まぬ水の流れる理、『神の残滓』のその一つかもしれないなと思うが……どうだろう」
「あなたの吐息に負ける程度ではそれまでです」
仁美の言うとおり、この止まない雪は秋実の吐いた息、秋実の出す熱を受ければたちまち溶けてしまう。
その上濡らした服も秋実が少し動けば乾く程度であり、秋実がいかに特別で比較には値しないとはいえ雪の方は一月降り続くこと以外は何の変哲もない、ただのぼたん雪だ。
「あなたは熱いものです。私もたまに、夏とかは特に近付くのに躊躇しますよ」
「なら少し距離を取れば良かろう……」
「……冷え症ですので」
仁美は湯に浸けた足先を揉んで言う。
仁美は目以外は見た目よりよっぽど丈夫だが雪道の旅路は多少堪えたようだ。
「なぁ、その気になればこんな雪ぐらい吹き飛ばせるがどうだ? やってみせようか」
「目立つのは嫌いです。それに、あなたにはあまり無理をして欲しくはありません」
仁美は瞼を開いて秋実の傷口を見る。
痛々しく爛れた傷口はついさっき付いたかのような生々しさで永遠に塞がることはない。
かつて、尋常ではないほどに無理を通した代償だ。
「これ以上傷つかないでくださいまし」
「何、案ずることはない」
秋実が自虐気味に笑うとその右眼の傷口から火が燃える。
「私は死なないからな」