05 引き摺る者共
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寝ることができたのは何年ぶりだろうか、奏は思い出せなかった。
目を閉じれば浮かび上がってくる死の光景。動物の臓物が剥き出しになったグロテスクな植物のような生物、地面に広がる液状の肉塊、地面からでも空からでも現れる怪虫、襲い来る人型の異形。
どうやって精神を保っているのかが分からない。
いや、とっくの昔に正気は失っていたのかもしれない。奏は自分のことが分からずにいた。
奏は小さな小屋で寝ていた。ふと何かの気配を感じて目を覚ます。
辺りを見渡しても、何も見当たらなかった。
上を見た時、恐怖で背筋が凍るを思いをした。
天井一面を覆い尽くすほどの、大量の芋虫のようなものがいた。ここに来た時には気付かなかった。
奏が呆然としていると、一体が落ちてきた。赤黒い体の二十センチメートルもある大きな芋虫が、毛布の上を這いずる。
そこでようやく奏は気付いた。もう既に何体もの芋虫が地面に床に転がっていることに。
「うわあああああああああああああああ」
何度目か分からない、心の底から上げる悲鳴。慌てて傍の剣を掴み、その小屋から脱出した。小屋の屋根には、この世界で初めて綺麗だと思えるような翅を持つ蛾が一匹、止まっていた。
あの気持ち悪い芋虫達の成虫なのだろうか、奏にとってはそんなことはどうでもよかった。
あまりに急ぎ過ぎたのか、躓き転ぶ。
いつものように、黒い太陽は奏を嘲笑うかのように橙の光で地を照らしている。
今日も真っ赤な空が広がっていた。
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「っ!!」
奏は異様な気配を察知して跳ね起きた。窓から差し込む橙色の光を見て、思わず戦慄いた。
ベッドから飛び降りて窓の外を見る。どこまでも広がる赤い空に、忘れもしない真っ黒な太陽が空に浮かんでいた。
「ぐ、ぎぎぎぎ……アじ、レあ」
異形の、苦痛を噛み殺したような声を聞く。
剣を右手に作り出し、体ごと声の主へと向ける。
人型の異形がそこにいた。顔と思わしき部分にはぽっかりとした穴が広がっているだけで、目も鼻も耳も見当たらない。開いた穴が目なのか口なのかも分からなかった。
黒い半透明の皮膚が全身を覆っている。それは肉を保護しているようにも見えた。異形の臓物は心臓のように脈打ち、不気味に痙攣している。
「死ね」
剣を振りかざし、切りかかる。そのバランスの悪い体を思いのほか素早く動かし、異形が避ける。
「アア、ああああああああああ、アアアアアアアアアアアアアア」
耳を覆いたくなるような鳴き声を異形が上げた。
剣を異形に投擲し、合わせて突撃しながらもう一つ剣を作る。
異形は思いっきり奏に向かって突撃し、不意を突かれた奏は異形の体当たりを諸に受けてしまう。
「しまった」
バランスを崩されたところで右手を抑えられ、剣が振れなくなった。
すぐさま左手に剣を作り、それを逆手に異形の背中を突き刺そうと試みる。だが、異形はその攻撃を察知し、骨に内臓がこびり付いている右手で奏の左手を打った。
「くっ」
想像以上の痛みと衝撃で左手の剣を手放してしまう。
そのまま押し倒されるようにして動きを封じられる。人型の異形でここまで強いものも中々いなかった。完全に油断した。
目の前の異形は人間が使うような技を持っているが、力比べでは奏に勝てないことを知る。
奏はもがき、異形の拘束を外そうとした。
その時、大きな音を立てて扉が開く。目の前の異形から視線だけ逸らしてそちらを見ると、新たな異形が三体も部屋の中に入ってきていた。
「くそっ」
目の前の異形からまともに逃れることも出来ていないというのに、このままだと死ぬ。焦った奏は力任せに異形の拘束から逃れた。
「ジャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
扉から入って来た異形が雄叫びを上げる。
扉の前には四体の異形。突破はあまりにもリスクが高すぎる。
奏は窓から身を乗り出し、飛び降りた。飛び降りる瞬間、異形達が体を不気味に揺らしながらこちらへ走って来るのが見えた。もしかしたら後を追ってくるかもしれないが、その時は落下時の衝撃で息絶えるはずだ。
奏は剣を作り出し、城の壁に思いっきり突き立てる。ある程度落下速度が減少したものの、右腕に物凄い負荷が掛かり、瞬く間に使い物にならなくなる。同様に、左手に剣を作り出し、壁に突き立てた。当然、こんなもので止まる筈がない。
ただ減速できればそれでよかった。ダメージさえ最小限に抑えることができれば、それでいい。
――奏は不死なのだから。
結局、奏の体は高所から叩き付けられ、地面に血をぶちまけた。もはや痛みと言う痛みはなく、ぼやけた意識だけがそこにあるだけだった。
「なんだ……空、青いじゃないか……」
仰向けに倒れる奏の視界には、大きな城と、どこまでも広がる青空が映っていた。
「治癒の魔法使いをこちらへ、手遅れかもしれませんが」
駆け寄ってくる足音と、毅然とした女性の声。
まったくと言っていいほど動かせない体がもどかしかった。何とか目だけを動かし、声の主を探す。
「これはもう、駄目ですわね……」
背中まで流れる金髪に、青と緑が混じった瞳、高貴で美しい顔立ち、フリルの付いた黒と赤のドレスに黒のソックス。まさに貴族のお嬢様という印象の美少女だった。その少女は倒れた奏の傍らへと寄った。
少女は悪趣味にも、奏の死体の傍に座り込んで観察していた。まさか生きているとは露ほども思っていない。
ふと、奏は右肩と上腕の肉が動く気配を感じた。何度も体験しているから分かる。体が再生しているのだ。
何とか動くようになった右手で、傍らの少女の手を取った。少女の手は柔らかく、確かに温かかった。彼女は夢でも幻でもなく、本当に生きている人間だということを奏は知った。
「…………よかった……夢じゃない」
死体と思っていた人間にいきなり手を握られて驚く少女を他所に、奏は泣きながら小さく笑った。
さっきの異形は、ただの悪夢で、奏はただの頭の可笑しい人間だっただけなのだ。
奏はその事実に安堵し、さっきからギリギリの所で繋ぎとめていた意識を、自ら手放した。
「あの、離して欲しいのですけれど」
奏に手を握られたままの少女はただただ困惑していた。
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