赤い糸のおまじない
※企画ものにつき、ダーク用PN(黒井雛)は使っておりません。
「好きな人の写真に赤い糸をセロハンテープで貼り付け、反対側を自身の小指に括り付けた状態で、誰にも見られずに裏庭の溜池に浮かべさせることができると、恋が叶う」
そんな噂が、詠美の通う中学校で、ある時から流れ始めるようになった。
恋のおまじない。それは多感な思春期の女の子の感性をしばしば擽る。クラス内では恋に恋する少女たちが、隣のクラスの〇〇さんがおまじないに成功して彼氏が出来たらしいだの、△△さんは人に見られて失敗したらしいだの、ひそひそ声で親しいグループの友人達と囁き合っていた。
そんな人々の声を、詠美は自分の席に座りながら耳をそばだてて聞いていた。
詠美には、親しい友人がいない。クラスメイトから嫌われたり虐められたりしているわけではないが、多くのクラスメイトたちは詠美の存在を「詠美?ああ、いたな。そんな子も」というくらいの認識しかしていない。詠美はとにかく、大人しくて存在感が希薄なのだ。
会話も苦手で、積極的に話にクラスメイトの輪に加わることも出来ず、いつもぽつんと孤立している。そんな状況が詠美の学生生活における常であった。昔はそんな自分に酷く悩んでいた時期もあったが、今ではもうとにかく平穏に卒業さえできればいいかとすっかり諦めてしまっているのが現状だ。
「決めた!!私、今日の放課後、やってみる!!」
「え、美穂マジ、マジ?相手は誰?」
「もちろん、高橋君に決まってるでしょ!!一年の頃からずーっと好きなんだもん!!成功したら、速攻告り行くかんね。私」
「ひゅー。美穂、言うねー」
高橋君。
聞こえて来た名前に詠美の心臓は跳ねた。
クラスの誰からも顧みられない詠美だが、そんな詠美も恋をする。
相手は同じクラスのバスケ部の少年、高橋裕也君。クラスの女子生徒の多くが憧れている、いわゆる人気者の少年だ。
一度日直で同じになった時、詠美相手でも気さくに声を掛けてくれた優しい彼に、詠美は恋をした。
だけど人気者な彼と、透明人間のような詠美。叶わぬ恋なのは分かっている。同じクラスメイトとして、ただひっそりと陰から見つめていられるだけで、詠美は満足だった。
それでもクラスメイトの少女が、おまじないに成功して高橋君と付き合うことになったらと思うと、流石に胸が締め付けられた。
「だから、みんな、絶対放課後は溜池に来ちゃ駄目だよ!?来たらおまじない失敗しちゃうんだから」
「はいはい、分かった分かった」
「健闘祈るぜー。美穂。…まあ、私おまじないなんか信じてないから、成功しても玉砕する未来しか見えんけど」
「圭ちゃん、ひどーい!!」
からからと明るく笑う少女たちの会話は、昼休みの終了を知らせるチャイムの音によって中断させられる。
慌てて席に戻る少女たちを尻目に、詠美は次の授業の準備を始めた。
(誰かに見られたら失敗するか…)
詠美は高橋君の写真なんか持っていない。どうやったらそんなもの入手できるかすらさっぱり分からないので、美穂と呼ばれた少女のようにおまじないを行うことは出来ない。
けれど、邪魔をすることなら可能だ。だって、見られたら困る誰かは、詠美でも構わない筈なのだから。
高橋君は人気者だから、彼女を邪魔したところで、また次から次におまじないの挑戦者は現れるだろうし、だいたいおまじないが本当に叶うとは詠美も思っていない。
だけど恋する詠美は、例えそれがたかがおまじないでも、美穂をそのまま放っておくことが出来なかった。
(だって美穂さん…今野さん、すごくかわいい)
美穂もまた、アイドルのような華やかな容姿と、どこか庇護欲を擽るような子供っぽい明るい性格で、クラスの人気者だった。おまじないなんかなくても、美穂が告白すれば、きっと高橋君だって頷くに違いない。
だけど美穂は、おまじないが成功すれば告白すると言った。つまり裏を返せば、おまじないが失敗すれば暫くは告白しないということだ。詠美は少しでも、高橋君が誰かと付き合ってしまうという事態を先延ばしにしたかった。
詠美は始まった数学の講義に耳を傾けながら、放課後溜池を訪れる決意をした。
授業が終わるなり、友人達に盛大に送りだされて教室を出る美穂の後を、こっそりとつけた。こういう時詠美の陰の薄さは便利だ。誰も詠美が教室から出て行ったことすら気づいていないに違いない。
小走りで溜め池に向かう美穂を、敢えてゆっくりとした足取りで追いかける。このペースでいけば、美穂が丁度おまじないをしようとしたタイミングで、自分は溜池に到着するはずだ。わざとらしくない、そんなタイミングで。
詠美の予想した通り、溜池についたのはちょうどいいタイミングだった。美穂はおまじないの準備をしていたが、まだ写真を水に浮かべていない。
詠美は木陰に隠れると、こほんと一つ咳払いをして喉の調子を整えた。そして、普段の詠美より一オクターブ程高い裏声(美穂が詠美の声を覚えているとは思えないが、一応念のためだ)で叫ぶ。
「…良子―良子―どこー?そっちー?」
架空の友人を呼びかける詠美の声に、美穂はびくりと体を跳ねさせて、慌てて走り去っていった。
そんな美穂の様子に、詠美はほっと胸を撫で下ろす。
(良かった。成功した…)
それにしても随分美穂は慌てていたものだと、詠美はくすりと笑う。
慌てるあまり、おまじないの道具を落としていっているではないか。
(あ、高橋君の写真欲しいな)
落ちている高橋君の写真を凝視する。
貰ってしまっていいだろうか。否、貰ったら泥棒だ。それに、それが原因で詠美が美穂の邪魔をしたことが発覚したら困る。
詠美は高橋君の写真を泣く泣く諦めた。
しかし、ぼんやり高橋君の写真(詠美が初めて見る私服姿だ)と、その中央にセロハンテープで貼り付けられた赤い糸を眺めているうちにふと思う。
写真を貰っていくのは駄目でも、今だけこっそり借りるのは良いのではないだろうか――そう、詠美がおまじないをするその間くらいは。
(…ちょっとだけ。すぐ、返すから…)
誘惑にかられた詠美は、そっと写真を手に取って繋げられた糸の先を辿る。既に美穂によって輪状に結ばれたそこを小指に通して見ると、まるで詠美の小指に合わせてこしらえたようにぴったりと指に嵌った。
詠美は周囲に人の気配がないことを確認すると、静かに溜池に近づいていく。
覗き込んだ溜池は緑色の藻で濁り、底が見えない。底が無いという噂もあるが、所詮人造の池だ。膝丈くらいがせいぜいだろう。
「…高橋君と、両想いになれますように」
詠美は溜池に向かって手を合わせて祈ってから、写真を水面に向かって放った。
「っきゃあ!!」
詠美が写真を放った瞬間、突如噴いた強風に思わず固く目を瞑ってしまった。
「…あ、写真…!!」
目を開いた瞬間、詠美の眼は強風の影響で糸から離れて飛ばされてしまった写真を捉えた。
いけない。このままじゃ、写真が駄目になってしまう。
詠美は慌てて先程まで写真を繋げていた手を伸ばす。
(…え…)
次の瞬間、まるで写真が魚にでも飲みこまれたように一瞬で溜池の中に吸いこまれて言った。
「え…ちょっと待って…写真…なくなっちゃ…」
慌てて袖まくりをして、両手を突っ込んで水中を探すも、写真はまるで水の中に飲みこまれたかのように無くなってしまった。
膝丈程度しかないと思っていた溜池は、想像よりもずっと深い造りだったらしい。限界まで手を伸ばしても、底に手が付かない。高橋君の写真は底まで沈んでしまったのだろうか。
「…溜池の方に今誰か、いますー?…おーい、おーい」
不意に林の奥から掛けられた声に、詠美は弾かれたように体を起こした。
この声は、美穂の物だ。美穂が忘れ物に気付いて、戻ってきたのだ。…他のおまじないをしているかもしれない人物に、気をつかいながら。
こうなったら、一刻も早く逃げなくてはいけない。自分が美穂のおまじないの道具を勝手に使って無くしたことがばれたら、きっと詠美の環境は今以上に悲惨なことになる。
詠美は慌てて溜池から手を引き抜いた。
「っ…」
溜池から手を引き抜いた瞬間、ピリッとした痛みが糸を結んでいた小指に走った。どうやら糸の先が、水中のどこかに引っかかったらしい。水から抜いた手には、既に赤い糸はなく、糸を結んだところが赤くなっていた。だけど、そんなことを気にしている余裕はない。
「…誰もいないー?じゃあ、行っちゃうよー?おまじない失敗しても、美穂を恨まないでねー」
林の奥から再び聞こえてくる声を背に、詠美は脱兎のごとくその場を走り去った。
その日、詠美は夢を見た。
大好きな誰かと、手を繋いで寄り添う、そんな幸福な夢を。
繋いだ手と手には、それぞれ小指に赤い糸が結ばれている。
何故か、肝心の相手の顔は霞みがかって見えなかったが、詠美は確信していた。高橋君だ。高橋君に決まっている。…だって、詠美がこんなに好きな相手は、高橋君しかいないのだから。
『詠美…詠美…詠美』
声変わりが始まったばかりの、少し低い声が詠美を呼ぶ。
『愛して、いるよ』
「…うん、私も愛している…」
自身の声で、詠美は目を醒ました。目が醒めたあとも、夢の余韻に浸って暫くぼんやりと虚空を見つめていた。
なんて、幸せな夢だったのだろう。これも全てあのおまじないをしたからだろうか。だとしたら、もうこれだけでも十分満足だ。
ほうっと息を吐いて自身の手を見て、詠美は小さく眉を顰めた。昨日糸を結んだ場所が、みみずばれのように赤く盛り上がっていた。見方によってはまるで赤い糸を結んでいるようにも見える。
大したことがないと放っておいたが、もしもっとひどくなるようなら軟膏でも塗っていた方が良いのかもしれない。
枕元の時計を見たら、まだ普段の起床時間よりずっと早かった。詠美は夢の続きを見るべく、再び布団にくるまった。もし明日高橋君に会ったら、思いきっておはようと声を掛けてみよう、そんなことを考えながら。
だけど詠美はその後夢の続きを見ることも、高橋君に朝の挨拶をすることも、叶わなかった。
次の日の朝の学校は、どこか普段と違っていた。
朝から臨時で学年集会が開かれ、同学年の生徒達が講堂に集められた。
ざわめく生徒達を制して、詠美たちの担任の先生が涙を堪えながら告げた。
「昨日の放課後――私のクラスの高橋裕也君が、川で溺れて亡くなりました」
その言葉を聞いた瞬間、詠美の頭の中は真っ白になった。
クラスに戻るとクラスメイトは、みんな、泣いていた。
中には声を張り上げて、雄叫びのように泣く生徒までいた。
男子生徒も、女子生徒も、誰もが泣いて高橋君の死を悼んだ。
皆、高橋君が好きだった。高橋君は皆から、愛されていた。
詠美もまた、愛していた。
だけど、詠美は泣けなかった。だって詠美は高橋君とほとんど関わったことがない。
あの日直の、ただ一度の邂逅が詠美が高橋君と接した唯一の思い出であり、ただそれだけの接触をずっと胸に大事にしまって、恋を育てていた。その僅かな記憶が、詠美にとって宝物だったのだ。
きっと、そんな詠美が泣いたら、クラスメイトは不審に思うだろう。だから、皆の前では泣けないと、そんなことを思った。
詠美は一人で泣く場所を求めて、一人こっそりと教室を後にした。
人気がない場所を探して彷徨っているうちに、なぜだか足は昨日の溜池へと向かっていた。学校の外れにある、溜池の周囲には当然ながら全く人の気配は無かった。混乱故に授業が一時間休みになった詠美のクラスを覗いては、授業中なのだから当たり前といえば当たり前だ。
詠美は膝が汚れるのも構わず溜池の淵にへたり込むと、溜池を囲む石の縁に手をつきながら声をあげて泣き始めた。
(高橋君…何で、死んじゃったの)
こんなことなら、勇気を出してもっと話しかけておけば良かった。優しい高橋君なら、例え詠美相手だろうと、けして拒絶しなかっただろうに。なんでもっと、積極的に声を掛けなかったのだろう。
ああ、高橋君じゃなくて、陰気で小心者な自分こそが死んでしまえば良かったのに。
もう一度高橋君に会いたい。高橋君の声が聞きたい。笑顔が見たい。
――例え、幽霊でも構わないから。
そう思った瞬間、不意に小指に違和感を感じた。
「…え」
詠美は思わず泣くのも忘れて、目を丸くした。輪のように赤くミミズばれになっていた小指の周り。そこから、一筋の赤い糸が伸び、詠美の小指を引いていた。赤い糸をそのまま視線で追っていくと、糸は溜池に向かって伸びていき…
「…っ!!!!」
糸は、溜池の中から突き出している、真っ白な手の小指に繋がっていた。
人目で分かった。――生きた人間の手じゃ、ない。
詠美は悲鳴をあげてその場を逃げ出そうとした。
だが、ふと思い立ってぴたりと動きを止める。
(もしかしたら、あれは…)
詠美は一瞬の逡巡の後、おそるおそる溜池から伸びた手に近づいて行った。
「…高橋、君なの?」
詠美の問いかけに肯定するように、手が詠美に向かって手招きをした。
詠美の目から、再び大粒の涙が溢れだす。
「っ高橋君…会いたかった…」
詠美は溜池の淵に駆け寄ると、水中から伸びている手を、両手でしっかりと握り締めた。そして身をかがめて、その手に頬ずりをする。
昨日失敗したと思ったおまじない。目を瞑って分からなかったけど、きっと写真が飛ばされる直前にちゃんと写真は水面に浮いていたのだ。
だから、高橋君はこうして死んだ後も詠美に会いに来てくれたんだ。そうに違いない。
詠美はこんな異常な状況にも関わらず、高橋君と両想いになれたことが、どうしようもなく嬉しかった。
「…大好き。大好きだよ、高橋君…」
握った手が、詠美を引きずり込むように、手を引っ張る。
だけど詠美は抵抗しなかった。
高橋君が望むのなら、自分もまた高橋君と共に逝ってもいい気がした。
だってこんなに好きな人は、他にはいない。
そして、家族の中ですら空気のような詠美を、こんなに求めてくれる相手も。
愛する高橋君と一緒に死ねるなら、きっとこんな幸福は無い。
詠美はどこか陶酔した気持ちで、手に導かれるままに池に向かって身を乗り出した。
だが、水の中に身を投げ出す前に、詠美の視界に奇妙なものが映った。
(あれは…昨日の写真?)
溜池の奥に、昨日無くしたはずの高橋君の写真が浮いているのが見えた。真ん中から、二つに引き裂かれて。いくら水にふやけて破れやすくなったとしても、自然にこんな風に写真は引き裂かれるものなのだろうか。まるで写真を誰かが破ったかのように。
その時、ふと気が付く。
高橋君は昔、手が女の子のように小さいのがコンプレックスだとクラスメイトに愚痴をこぼしていた。そしてクラスの女生徒達と手を合わせて比べっこをして、クラスで一番背が低い安藤さんですら、それほど差がないとからかわれていた。
だけど今握っているこの手は、詠美の手をすっぽりと覆ってしまう程大きい。
さっと全身から血の気が引いた。
「――高橋君じゃ、ない…っ!!」
叫んだ時には、もう遅かった。
詠美の体は既に、突如引く勢いを増した手によって、水面に投げ出されていた。
溜池の周りに、人間の体が沈む激しい水音が響く。
慌てて泳ごうと足を動かすが、水中の中にいた何者かによって詠美の体は拘束されていた。
詠美の体を優しく抱きしめながら、濁った角膜を持つ、白い「何か」が愛おしげに眼を細めて笑う。
水中で詠美は悲鳴をあげた。だがあげた悲鳴は当然ながら音にならず、開いた口から大量の水が、胃に、肺に、流れ込んでいく。
「何か」はそんな詠美の姿を、ひどく満足そうに見つめていた。
やはり、おまじないは失敗していたのだ。…否、ある意味では成功していたと言っても良いのかもしれない。
写真から外れた糸の先は、水中に沈みこみ、水の中にいた「何か」の小指に繋がった。
詠美は高橋君で無い「何か」と、赤い糸を繋げてしまったのだ。
そして詠美を愛した「何か」は、嫉妬のあまり高橋君を殺して、そして今は詠美を…
『愛しているよ――詠美』
夢で聞いた声を、今度は現実のものとして耳で捉えながら、詠美の体は「何か」に導かれるがままに、底がない水中をゆっくりと沈んでいった。