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ヒック

作者: 四木高秀

 働かざるもの食うべからずと言うが、いつから働くことが食事の条件となったのか。意義を申さずにはいられない。

 ライオンを見よ。かの獰猛な肉食獣は草々を撫でるそよ風に耳を傾けながら、朝日が昇り切るまでその身を大地へ投げ、起き上がったかと思えば勝手気ままに荒野を駆け巡り、一度か弱いシマシマ模様の草食動物を見るやガブりとひと噛みである。哀れ草食動物は自身の毛が黄金色に輝くソレではなく白と黒のツートンカラーであったことを嘆き、肉体を捨てた魂はされるがままの我が身を眺めながら成仏していく。そんなことも露知らず、自身の腹を満たしたライオンは再び大地との抱擁を開始する。酷い時にはそのまま太陽が一周している事にも気づかず、今日も今日とてシマシマを噛むかと伸びをするのだ。これのどこが労働者か。

 シマウマを見よ。かの傲慢な草食動物は自身の血と肉となる草を踏みつけ、糞を擦り付け、それでも一生懸命真っ直ぐに伸びた草をなんの容赦も無くムシャムシャと頬張るのだ。する事と言えば集る虫に対して耳で牽制するぐらいのものだ。あの気怠げな瞳はきっと現実など見ておらず、寝ているのか起きているのかもわからない頭で健康の時も病の時も、富ときも貧しき時も、幸福の時も災いに会うときも、死が二つを分かつまで延々と草との接吻を繰り返すのだ。誓い直しを何度もするのだ。このようなヒモ野郎、百獣の王に食われて当然である。

 かように、働く者に必ずしも食事の権利がにあるわけではないのだ。非労働は、米を食す罪悪感の要因に成り得ない。パンが無い状況下でケーキを食べることに、微塵の躊躇もいらない。腹がクウと鳴る。それだけが、食事のための条件だ。真の罪とは腹も減っていないのに目の前の炭水化物に手を出すことである。

 満腹時に食すものよ、くい改めよ。

 私の腹は限界である。故に、私は口を開けるのだ。

 万年床となった我が布団で仰向けになりながら、私は口を開ける。手を振り回すと、カサリとビニールの袋に当たる感触があった。パンだ。食パンだ。私は袋の切れ目から一切れの食パンを取り出し、程よい大きさにして口の中へと放り込む。放り込まれたそれをムシャリと噛む。もはや、味はどうでもいい。ここ数日の偏食が祟ったのか、私の舌は貴族にも負けない高貴さを持っている。もしくは、バカになっている。味がわからなくなった以上、食べやすく貯まりやすく、何より取りやすいパンがマイベストだ。

 私は口を開ける。次のパンが放り込まれる。パンは、十数個に分けて私の近くに置かれている。今現在床へ直に置かれているパンの様を見るには、私は人生を綺麗に歩みすぎた。

 三個、四個と口に入れ、喉を通すうちに水分が生地に奪われ、渇きが増していく。さあ、次はミルクだ。私の脳が伝令を出し、またも手が布団の周りを探る。ミルクを飲むのだ。

 私の右手はしばらく床を這った後、無事に二百ミリリットルの牛乳パックを手に入れる。ゴミと食物が共同するこの部屋で無事な牛乳を見つけるコツは、重さだ。手に当たった際に、抵抗するのが牛乳パックのレジスタンスだ。

パックを持ち上げ、プリントされた牛と目配せする。私はすぐに蓋を開け、そのままパックをこちらへと傾けた。ダバダバと白い液体が注がれ、というよりこぼれ、六割は口に。残り二割は顔に。あとのいくつかは布団の染みへと変わっていく。それでも二百ミリリットルの六割だ。私はゲップと共に空の牛乳パックを放り投げ、食事の作業を再開させる。

 ガンガンガンと、玄関の戸を叩く音が聞こえる。乱雑な叩き方だ。耳をすませば、何かを叫んでいるのも聞こえてくる。来訪者だ。アポイントメントは取られていない。

 私は十個目のパンを口に運ぶ。私の家の玄関を太鼓代わりにし、衝突音の合間合間に聞こえてくる何かしらの訴えを聞きながら、私は記念すべき十個目のパンをモグモグと噛み砕く。うむ、うむと、ゆっくり噛み砕く。食事は焦ってはいけない。喉に詰まらせると危ないし、シャックリなどは厄介極まりない。食事中の大きな音など、以ての外だ。パンが喉を通り切るのを待ち、無事胃に着地したのを確認してから口を上げる。十一個目。

 ポトと、舌の上に着地したと同時に玄関の開く音が聞こえる。はて、鍵はかけたはずだ。この一週間外出もしていない。泥棒だろうか。大声でドアをノックしながら、堂々と真昼間から鍵のピッキングをする泥棒だろうか。

 おそらく大家であろうその来客に対して、私が文句を言おうと頭を上げたその瞬間、しかし体は固まってしまう。元々貝類と何ら変わりない不動ぶりだったが、そのまま化石となったかのような固まり具合である。

 この来客は。彼女は。玄関から廊下まで土足で踏み入った後、バンと勢いよく部屋のドアを開けた。ドアは壁に激突し、再度大きな音を出す。その音に促され、大して噛まれていないパンの欠片が喉を通り抜ける。

 視線を向けると、どうやら彼女は蹴破ったようだ。

 「いいかげんにしろ」私の口からシャックリが出る。

 少し鼻声なのは、その高い鼻を、細い指で摘んでいるからだ。「何時までこうしているつもり?」

 私はシャックリを止めようと飲み物を探し、彼女の視線に気づいて諦めた。

 「というか、何時からこんな事やってるの」

 この質問は簡単だ。私は答える。「三日前」

 「嘘を付け」彼女は言う。「私がフったその日からだろう。講義はどうした。出席しているのか」

 私の口からシャックリが出る。「出ていたか? 私は」

 彼女はため息をつき、首を降る。私もため息をつきたかったが、無能な喉仏はありもしない異物を吐き出すのに忙しい。首だけでも振ろうかと思ったが、オレンジジュースやミルクやコーラが混ざった固形物が、髪と布団をくっつけて離さなかった。

 彼女は言う。「恥ずかしいと思わない?」

 ヒック。とシャックリをした後に私は答える。いや。

 「情けないとは?」

 シャックリしてから、答える。うんにゃ。

 「罪悪感は?」

 ヒック。まったく。

 彼女は言う。「ダメ人間」

 答える言葉も見つからないので、私はシャックリだけを出す。ヒック。

 私がなんて言ったか、覚えている? と彼女は言う。何時のことだろうか。

 「私、責任感のない人は嫌よと言ったのよ」

 私は言う。「覚えてないね」同時に、しゃっくりが出る。それも、一つだけではない。

 ヒック。ヒック。

 「あの一言で、貴方が変わってくれると私思っていたわ。まだ信じてたの。――その結果がこれよ」

 「これ」とは何とも雑な言い方だ。しかし、私の思いをよそに彼女は「このざまよ」と言い直すだけだった。

 彼女は言う。「動かないの?」

 彼女は言う。「私、もう一度言うわね。責任感のない男、嫌よ」

 彼女は言う。「動かないの?」

 私は答えたいのに、ヒックヒックと痙攣を繰り返すばかりで、何も喋れない。

 何時までたっても答えない私に、彼女は透き通った声で言った。

 「私からはもう会いに来ないわ。会いたいなら、まず体を洗って、部屋を綺麗にして」

 靴の擦れる音。帰るのだろうか。それから、と彼女は続ける。

 「それから、痩せて」

 私は重い頭を動かし頷いたが、彼女には見えなかっただろう。


 働かずに飯を食う。よかろう。大いによかろう。なんら恥じる事はない。何一つ、悔いることもない。己の腹と心を満たす行為に、従順になりたまえ。

 しかし、その結果は太陽に身を焦がすだけのライオンであり、ブクブクと肥え太ったシマウマという名の餌である。その結果に、いつかは責任を取る時がくるだろう。

 だからこそ、戒めの為にここにもう一度言おう。

 満腹時に食すものよ、くい改めよ。

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