6話:叛逆の断片
人類が世界式に触れてからどれだけの歳月が過ぎ去ったのか。
膨大な歴史は断片的に失われ、散り散りに綴られている。
その全てを知る由はなく、真偽を確かめるのは極めて困難。
錬金術が高度発展した現在ですら、人類は未だ無知のまま。
彼、あるいは彼女ですら全てを知れたのかは定かである。
都合の良い歴史、隠蔽された歴史、改竄された歴史、混沌とした歴史。
どれが真実で、どれが虚偽なのか。
真相は謎のまま。
それが現在、そして現在。
名だたる錬金術師達が歴史に名を刻み、後世へと語り継がれている。
しかし――――
「歴史を辿る中で、一切記録される事なくその生涯を終えた者も存在するのです。”これ”を構築された方もその一人です……」
知恵の蔵は広大な敷地を持ち、世界各国からありとあらゆる本が集められる図書館。
館内の奥には膨大な本を全て管理する為の事務所が設けられており、その更に奥は館長であるジュリアスの個室となっている。
「何ですの……、この妙な汚い球体は……。本当にこんなもので私を言いくるめられるとでも思ってますの?」
「こ、こらエルっ、そんな風に無闇やたら指で突っついて壊れでもしたらどうするつもりだっ」
ジュリアスの個室へと案内されたヘルメスとリディアを待ち構えていたモノは、無色透明の球体だった。
何年も放置されていたのだろうか、無造作に置かれていた謎の球体はすっかり埃を被っており、一見ガラクタにしか見えない。
ジュリアスが両手で抱える人の頭一つ分程の大きさをした球体。
過去を、原点を知る装置だと簡単に説明されたが、エルサリアは指で突きながら半信半疑の様子。
球体の中身は空洞でガラスのような材質であり、ヘルメスはその軽率な行動を咎めるが。
「いやぁ、心配なら要りませんよ。見た目はガラス玉のようですけど、過去に私が何度も蹴り上げて一人遊びしても傷一つ付きませんでしたからねぇ」
「いやいやっ !これ重要な物なんですよねっ!?」
とんでもない発言が飛び込み反射的に詰め寄って反応してしまった。
片手を頭の後ろに回し申し訳そうに苦笑するジュリアスに呆れ、ヘルメスは額に手を置き俯いてしまう。
一癖も二癖もある得体の知れない男に促されるがまま来てしまったが、緊張感というものが一気に薄れてしまう。
どこか興醒めにも似た何かだった。
「おーっほっほっ! ヘルメス、今の発言お聞きになりました? 一人遊びですってよ? それもそうでしょうね、このような変人に友達なんて居るはずありませんわ。それはそれは耐え難い幼少時代を過ごしたのでしょう、この私が特別に哀れんで差し上げても構いませんわよ?」
何故かテンションを上げて高笑いを上げるエルサリアはさて置き、ヘルメスはうな垂れる肩を上げていき今更の質問を投げかける。
「……で、ジュリアスさん。それは何なんです? 本当に先程仰っていたように自分達が求めているモノの手がかりになるんですか? 大変失礼ですが自分にはとてもそのようには思えないのですが……」
ジュリアスは老眼鏡の縁に軽く指をかけ、口元を僅かに吊り上げてヘルメスを静かに見つめる。
「フッフッ、何やら疑いの視線を感じますね。宜しい、ならば確認してみてください。貴女ならば、解読眼を持つ貴女ならば――――この球体が異常なモノだという事は簡単にわかるはずです」
「……まぁ、鵜呑みにはしませんけど。わかりました……」
ヘルメスが怪訝な表情で不信感を抱きながらも言われた通り銀縁の眼鏡を外し、半信半疑で球体を改めて覗いてみると――――
「ジュリアスさん……何ですか……この……、これは……、あの……」
額から汗を垂らし、息を呑み、言葉が上手く出せない。
目を見開き、硬直し、恐怖する。
「フン……何をもったいぶってますの? どうせ解読眼を持っていても、貴女に理解できるはずありませんのよ。本当に宝の持ち腐れですわ。って、ちょっとっ! 聞いてますのっ!?」
エルサリアの言う通り、ヘルメスは全ての式が視れるだけで錬金術の知識は乏しい。
しかし、それでも動揺してしまう。
ラティーバで視た全てを呑み込む者の式と同じく。
この球体は異常で、異質で、異端。
「ジュリアスさんッ!!」
球体に集中していたヘルメスがジュリアスに問う、この”正体”を。
「こんな……、こんなモノ、どうやって構築したのですかッ!? これは――――本当に式なんですかッ!?」
世界の全ては式で構築されている。
誰もが知る当たり前の常識。
例外は無く、それが世界の在り方であり全て。
しかし、ヘルメスの解読眼には普段視る事が無い赤黒い異質な式が視えていたのだ。
失っていた記憶の一部が、記憶に無いはずの記憶が、何故か頭を過ぎる。
何故か、式崩しを構築した時の感覚がヘルメスを襲う。
「申し訳ございませんが……何千、何万という数多の本を読み、記憶している私ですら貴女の問いに適正な答えを用意する事はできません」
ジュリアスは球体を乗せた右手をヘルメスに差し伸べ。
「ですが、彼女はこの球体を”叛逆の断片”と呼び、恐らく貴女を待ち望んでいた。その意味を、その答えをもしかすると知る事ができるのかもしれません」
真剣な眼差しでヘルメスを見つめる。
「これは求める過去を追憶する事が可能な奇跡の産物。どうか彼女の願いを、意思を汲んでください」
あまりにも真剣なその口調にふと声を漏らす。
「……彼女とは一体誰なんです? 何故、自分なんですか?」
ジュリアスは目を細め、苦笑する。
「彼女の名を私は知りません……。それ所か何故、貴女なのかも……。ですが――――」
遠い過去を思い出す。
「彼女は私に約束させた……。いつか銀髪の青年と現れるであろう、魔銃ケルベロスを持つエーテルの者にこの叛逆の断片を託せ、と」
ジュリアスですら叛逆の断片を構築した者の詳細は知らない口ぶりだった。
ヘルメスが黙り込み戸惑いを見せていると、壁にもたれて両腕を組み耳を傾けていたエルサリアが鼻を鳴らす。
「フン、随分と都合の良い話ばかりですわね。もし仮にその球体が本当に過去を追憶できる代物なら、四大国家が貴方みたいな館長ごときにいつまでも預けておくわけありませんわ」
「フッフッ、それもそうでしょうね。ですが、叛逆の断片は私本人の声帯と式が作動する鍵になっています。そして私と彼女以外にこの存在を知りません。長らくこうして私の手元にあるのはそういった理由です」
胡散臭い話だったがエルサリアはそれ以上言及する事を止めて不機嫌そうに顔を背ける。
とりあえず今は黙っておく事にした。
なにせずっと求めていたモノの手がかりとなるやもしれないのだ。
例えジュリアスの虚言だったとしても、その命で詫びさせれば済む話だと深く考えないようにした。
「ジュリアスさん、最後の確認です」
だが、エルサリアとは対照的でヘルメスは藁にもすがる想いだった。
「はい、私に答えられる範囲でなら」
ヘルメスは再び眼鏡をかけ、球体とジュリアスを交互に見つめ。
「自分は――――原典を求めて王従士になりました。その想いは……より一層強くなっていくばかりなんです」
心を失った母、リリアンの救済が根本にはある。
だが、欲というものはどこまでも肥大化していく。
父パラケルスス、弟カルロス、そしてアリスの死。
救えなかった者達は他にも大勢いる。
ジンの言葉を思い出す。
――――死んだ人間を蘇らせる方法なんてねぇんだよッ!!!!!
本当にそうだろうか。
全てを知り得る万物、原典によりそれも可能なのでは。
全てを救う事が可能なのでは。
ヘルメスは、多くを求めるようになっていた。
「率直に答えて頂きたい。貴方の口ぶりからして――――これから追憶する過去の中で自分は原典に近づく事ができるのでしょうか」
その発言にエルサリアは溜息を吐き、両腕を組んだまま壁にもたれて苛立った様子で舌打ちをする。
そしてジュリアスと言えば。
「その答えはこれから知る事になります」
あやふやな返答をするだけだった。
しかし、完全に否定されるものではなかった。
それだけで十分だ。
「……わかりました。可能性があるだけでも試してみる価値はあります。早速始めて頂いても宜しいですか?」
「ま、ヘルメスの言う通りですわね。このままですと時間の無駄ですもの。まったく……救済式だかエンヤー式だか知りませんけど、命が惜しいなら勿体ぶらず早く作動させる事ですわ」
「フッフッ、かしこまりました。それでは……始めるとしましょう。これから向かうのは過去です、貴女方は過去に干渉できず、存在しない者ですのでそれを頭に入れておいてくださいね」
二人の少女に急かされ、ジュリアスは叛逆の断片を再び両手で抱えて微笑む。
「そ、そう言えば具体的な事をまだ――――」
「あ、あと戻り方も聞いてませんわよ――――」
作動の合言葉が引き金となり、少女達は強制的に過去の追憶へと旅立つのだった。
「――――”私の可愛い坊やに、幸あれ”」
ジュリアスの言葉と共に球体は大量の禍々しい赤黒い光を放出して部屋を包み込み、二人の言葉はかき乱されて消える。
青白い錬金術の光ではなく、その正反対とも捉える事ができる赤黒い光。
光は次第に縮小されていき部屋に残されたのはジュリアスただ一人。
ヘルメスとエルサリアの姿は無く、原点を探る過去へとこうして飛ばされたのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
意識がはっきりすると、そこはヘルメスにとって見覚えの無い景色が飛び込んでくる。
「ん……。ここは……?」
周囲を見渡すと一面に広がる虹色の花畑。
青白い光を纏う黄金に輝く蝶が幾多に舞う幻想的な空間。
常に色を変化させる無数の花々。
閉鎖的なこの空間に空という概念はなく、オーロラの様な景色が途方も無く広がるばかり。
「これがジュリアスさんの言っていた過去の追憶……? しかし、自分にはまったく見覚えの無い場所だ……。もしかするとこれは自分の過去ではなく、誰かの過去の追憶という事になるのか? まったく説明不足にも程があるぞ……」
眩い光に包まれたこの場所で、何も詳細を聞かされず過去に飛ばされたヘルメスはただ立ち尽くし困惑すばかりだった。
幻想的な光景に圧巻されていて瞬時に気づく事ができなかったが、ようやく一際目立つ存在に疑問を抱く。
「あれは……」
この場には似つかわしくない”異質な物体”が設置されている。
大小形状問わず、様々な黄金の歯車を集合させて一つの塊となった巨大な物体。
大きな祭壇の上で不思議な文字が刻まれた全ての歯車を静かに回転し続けていた。
「あの奇妙なモノは何なんだ……」
まったく見覚えの無い光景と物体はヘルメスの感情を悪戯に動揺させるばかり。
誘導されるように自然と足は進み、謎の物体へと近づけていく。
何度も黄金の蝶がヘルメスを横切り、擦れ違いにそれを視線で追う。
「綺麗な蝶だが黄金の蝶なんて聞いた事も無いぞ……。それに錬金術が発動した時に起こる青白い光を纏っているが、誰かに構築されたモノなのか?」
次から次へと疑問が尽きない。
この追憶が本当に原典に辿り着く手掛かりになるのだろうか。
「そもそも原点と言われても自分の事なのか原典の事なのか、まったく検討もつかん……。はぁ……。ジュリアスさん、説明不足にも程があるぞ……」
ジュリアスに対し、若干の怒りを抱きながら足を進めて歯車の集合体へと近づいていくと。
「む!? こんな場所に人が……」
全体的に黄金で輝き、一際目立つその歯車の集合体の元で、”誰か”が両膝を地につけて見上げていた。
ようやく人影を見つけ、ヘルメスは重要な人物かもしれないと駆け足で近づいてみるが。
「一体誰なんだろ――――」
全てを知り得た今、絶望しか沸きあがってこない。
狂気とは無縁のこの空間で、嘆き、涙ながらに叫ぶ。
見せ掛けの美しさ。
外見をどれだけ取り繕うと、必ずその光には影が差す。
そして影はやがて闇となり――――狂気を生む。
「な、何だ……!? 今のは声は……!? 見せ掛けの美しさ……?」
一瞬、ヘルメスの脳裏に不穏な言葉が過ぎ去る。
慌てて後ろを振り返っても誰も居ない、今この空間にはヘルメスと目の前の人物しか居ない。
「……この者が発した言葉なのか?」
再び足を進めると、謎の人物が肩を震わして声を漏らす。
「何故なんだ……ッ!!!、どうしてなんだ……ッ!!!!!」
青白い髪をした――――青年がそこで絶望を嘆いていた。
青年は漆黒のコートを纏っており、どこか見覚えがあるのは気のせいだろうか。
地面にひれ伏すように跪き、顔を確認する事はできない。
かろうじて声の若さで青年とわかる程度だった。
「この者は何故こんな場所で一人で……、こんなにも苦しそうに嘆いているんだ……」
青年の心に同調するかのようにヘルメスも胸が急に苦しくなり、複雑そうに胸元へと手を置く。
青年はそれから呼吸を荒げ喘息に陥りながら何度も、何度も叫びを上げていった。
それをヘルメスはただ見守る事しかできなかった。
すると――――
「……」
ふと、青年の挙動が静まったのだ。
青年の異変に気づいたヘルメスは徐に振り返ると。
「おかしい……。さっきまで誰も居なかったはずなのに……」
そこには、一人の老人が穏やかな表情で立ち止まって青年を見つめていた。
真っ白な薄いローブを身に纏い、とても穏やかで優しい雰囲気を醸し出す白髪の女性。
その表情はまるで迷子の子供を見つけて安心した優しい母のように感じる。
「あらあら……。わかっていたはずでしょ? 貴方は全てを知った上でまた”此処”に来たんじゃないの。だから止めたのにねぇ……」
頭部で団子状にまとめた髪をエメラルド色の宝石を用いた豪華な簪かんざしで止めており、首元で光る同じデザインの首飾りを揺らす。
青年を咎めるわけでもなく、哀しみに暮れるように自身の頬に右手を当てて首を横に振る。
「存外にしぶといな……。”その身体”で此処まで追ってくるなんて正気の沙汰じゃないよ。流石は”魔女”と揶揄されるだけはあるって事か」
青年は女性の登場に慌てる素振りも見せず静かにその場から立ち上がる。
その間際、ようやくヘルメスがその素顔が拝めると注目していると――――
「ま、待て! ど、どういう事だ!?」
何故か青年の顔だけが認識できなかった。
女性の容姿が明確に認識できる分、意図的に隠されているような気もする。
不可解な現象が度重なり困惑するヘルメスを間に挟み、女性と青年は互いに黙って見つめ合う。
ここでヘルメスはようやくジュリアスが僅かに伝えていた情報を理解したのだった。
「本当に自分は存在しない者なんだな……。先程からこの二人にまったく気づかれない……。それ所か自分が間に入って邪魔をしているのにお互いを認識し合ってる……。まるでこれは透明人間になったような感覚だ……」
ヘルメスの存在は認識されぬまま、ようやく女性は口を開く。
「……そりゃぁね? しつこくもなるわよ。私の可愛い坊やの為だもの。これぐらいの無茶はへっちゃらよ」
「なら、どうする? お前に残された時間は僅かだ。今更、止められるわけないだろ」
ヘルメスを置き去りに会話は繰り広げられていく。
青年の顔はわからない上に、この女性ですらヘルメスはまったく見覚えが無い。
「本当にこの追憶は自分の求めているものなのか? どうも期待外れな予感しかしないんだが……」
半ば諦め気味となったヘルメスは律儀に二人の間から僅かに離れ、両腕を前で組み俯きながら大人しく二人のやり取りを見守る事に徹する。
女性は優しく微笑みながら少しづつ青年へと歩み寄る。
「フフ、そうねぇ。でも、貴方も気づいているんでしょ? 少なくとも”あの子”がこんな事を望んでないって……」
辺りを飛び交う青白い光を帯びた黄金の蝶を優しく撫でるように右手をかざしながら進む。
「……機械仕掛けの神、運命の歯車は定めていたの。貴方や私が今、答え(ここ)に到達しているのだって運命の歯車の導き。でも、全て失敗に終わるわ」
突然、女性の口から運命の歯車という単語が出てきた事でヘルメスは顔を上げて反応する。
「運命の歯車だと!? 確かジンの話では世界式の核とされるものだ……。そんな存在が会話に出てくるという事はまさか本当に原典に繋がっているのか……?」
妄信的に、ヘルメスは今回の出来事が原典に繋がる手掛かりだと決めつけていた。
今、最も自身が求めているものだと思っているからだ。
しかし。
本当の、心の底から求めているモノは異なるモノだとまだ気づけていない。
「必ず成功する、成功するさ。その為に”彼”を選んだんだ」
「彼? それは――――貴方にとって”どちら”を指す言葉かしら?」
先程からゆっくりと近づく女性をじっと見つめ、微動だにせず立ち尽くしていた青年が哀しそうに自身の左手を見つめて語りだす。
「……昔話を聞かせあげるよ。その昔、”旧支配者”と呼ばれていた”闇の賢者”が存在した。彼は世界式を紐解き、運命に囚われない自由な世界へと編み替えようとしていたんだ」
ヘルメスが組んでいた両腕を解き、僅かに前のめりとなって反応を示す。
「旧支配者……だと? 全てを呑み込む者が言っていた主と呼んでいた人物の名じゃないか!? それにダレクス王が見せてくれたアンチスミスの手帳にも同じ名前が記されていたようだが……。運命の歯車と言い……この二人は一体何を、どこまで知っているんだ?」
ジュリアスは言っていた、過去を遡り原点を探れと。
アンチスミスの手帳の切れ端によれば、旧支配者と呼ばれる存在によって運命の歯車に歪が生まれたと記されていた。
よからぬ存在だという事がヘルメスにも何となくわかる。
「知っているわ、自分語りが好きなのかしら? どれだけ美しい理想を語ろうと、その判断は多くの民衆に支持されるかで善悪が別れるのよ……。だから貴方がしようとしている事は――――」
「黙れッ!!!!!」
女性の口ぶりから、ヘルメスの中である仮説が立てられた。
そして、恐る恐る青年に視線を向ける。
「まさか……この青年が旧支配者と呼ばれる人物なのか? だ、だが! そうなるとアンチスミスは遥か過去の人物だ……。この過去はそんなにも昔のものになるのか……?」
怒り震える手を振りかざし叫ぶ青年の正体が旧支配者かもしれない。
そう、この状況が起きている年代がまだ不明だった。
もしヘルメスの推測が正解ならば、今もどこかで伝説の錬金術師アンチスミスが存在している可能性があるのだ。
この前代未聞の現状にヘルメスは大きく息を呑む。
「可哀想ね……。私には”欠けている感情”が貴方をそんな風にしちゃったのね……」
歩みを止め、両手を胸元に置いて女性は哀しみに暮れて俯きそう言った。
感情が欠けている、その言葉にヘルメスは母リリアンを思い出し唇をかみ締めて瞳を閉じる。
そう、今はこの青年が本当に旧支配者なのかなんてどうでも良い。
ただ原典の手掛かりが知りたいだけなのだ。
ヘルメスが二人のやり取りから何とかヒントを得ようと瞳を見開き慎重に耳を傾けようとしたその瞬間。
「もう終わりにしよう。この場所でどんな言葉を口にしようが無意味だ。それに――――気づいていないとでも思ったのか?」
明らかに青年は女性ではなく、ヘルメスに顔を向けてそう告げた。
「そ、そんな馬鹿な……」
今のヘルメスは存在しなのだ、それは先程からの経験で証明されたはずだが。
完全に青年の視線はヘルメスに向けられている。
「っ、嘘だろ……?」
その場から移動して青年の視界から外れてみても。
「見えてるんだな……ッ」
青年は動き回るヘルメスを的確に視線で捉えて離さなかった。
そして女性も穏やかな笑顔で同じくヘルメスを見つめ。
「実はね、私の死はもう避けられない……。だから”あなた”に少しでも知って欲しかったの……。あなたなら――――必ずまた”此処”に辿り着けるわ」
まったく話が呑み込めないでいた。
ヘルメスは原典の手掛かりが知りたかったはずだが、この追憶は不可解なこの場所に導く意図が含まれていたとでも言うのか。
そんなもの、ヘルメスは望んでいない。
「……貴方達は一体何者なんです? どうして自分にこのような体験を? 何故、この場所にまた来させようとしているんです?」
だが、しばらくしても返答は無い。
認識はされていても、声までは届いていないようだ。
ヘルメスが期待外れの展開に苛立ち、二人から距離をとり睨みつけていると。
「あの子、”ジュリアス”はちゃんと約束を守ってくれたのね……。でに、まさかこの場面だとは思わなかったけど……。フフ、あなたが誰かはわからないけど、ぜひお礼を伝えておいて頂戴」
どうやらヘルメスの存在は認識できるようだが見た目や声まではわからないらしい。
それよりも、女性がジュリアスの名を口にした事で明るみなった事実。
この女性こそが叛逆の断片を構築し、ジュリアスに約束を果たさせた張本人だった。
ヘルメスは思わず怪訝な表情で問う。
「貴女はどうやってアレを構築したんです……、そして何故、自分が知恵の蔵に訪れる事を予め知っていたんですか……」
やはり返答はなく、ヘルメスは投げやりに質問を続ける。
「……何故、ジンと一緒に訪れるであろうエーテル家の人間に叛逆の断片を託すようジュリアスさんに約束させたんですか……」
ここ最近、溢れんばかりの疑問が解決された試しが無い。
ヘルメスが額を右手で押さえながら頭痛を起こして立ち眩みしていると。
「あと……、ジンが気がかりね」
女性がジンの名を口にすると、青年は穏やかではない不穏な雰囲気を発しながら女性へと静かに近づき始めた。
そして、ヘルメスは顔を上げて驚きの表情を浮かべ。
女性は、目頭を熱くさせながら両手を頬に当てて瞳を閉じて暖かい声で想いを綴る。
「今、どんな風に成長してるのかしら……。あの子ったら泣き虫さんだから、あなたを困らせちゃいないかしら……。私の言う通り……ちゃんと人に優しくできてるかしら……」
それは、我が子の身を案ずる母の言葉そのものだった。
「待ってください……、もしや……、貴女は……、」
ドルスロッドでジンが話してくれた過去の中で、一人だけ居たのだ。
バケモノと恐れられた青年を愛してくれた心優しい女性が。
「フフ、偽人だから見た目は成長してないでしょうけどね……。大きく、逞しく成長してくれていると嬉しいわ……」
いつしか、女性の瞳から涙が零れ落ちていた。
「不器用な子だから……お友達ができたか心配なの。私は、あの子が一人でまた孤立しないか本当に心配だったの……」
ジンを心配して涙を流してくれる女性の存在を、ヘルメスはただ一人しか知らない。
「本当は……あの子とても優しくて素直な子なのよ? それに、お勉強だって得意なお利口さんなんだから……」
いつも、ジンは彼女の話になると嬉しそうだった。
照れる素振りも見せず、あのジンが大好きだと言っていたのを覚えていた。
哀を失ったヘルメスはとても辛そうに、女性の言葉を一字一句聞き逃さなぬよう神経を集中させる。
「私の自慢の坊やなの……。あの子に出会えた事で私の人生は満たされた。あの子との出会いが――――私の最高の出来事なの」
不穏な影が徐々に女性へと近づく。
ヘルメスは眼鏡を外して激しい怒りに包まれながらその場から跳び出す。
青年が赤黒い光を両手から発し、ゆっくりと女性に向かっていたのだ。
これから一体どんな式を構築しようとしているのはわからない。
ただし女性に危害を加えようとしている事が明らかだった。
「やめろおおおッ!!!!!」
ヘルメスは青年の腹部めがけて大きく拳を振り上げるが、青年の腹部をそのまま通過するだけで触れる事すらできなかった。
ここで再びジュリアスの言葉を思い出す、過去に干渉する事はできないと告げられていた。
女性に脅威が迫っているというのにヘルメスに青年を止める事はできないのだ。
「その人に近づくなぁッ!!!!!」
どれだけ鋭い拳や蹴りを入れようと青年の身体を通過するだけで終わる。
青年は無意味な行動を繰り返すヘルメスを無視し、両手を僅かに横へかざしながら女性の元まで向かう。
「あの子の成長を……この目で……本当に……見届けたかった……」
今すぐ危機が迫ろうとも、女性にとって今のこの時間が惜しかった。
既に己の死を悟っていた女性はヘルメスに愛する息子への想いの一部を伝え終え、ローブのポケットからハンカチを取り出して涙を拭う。
「ふー、そろそろ時間ね……」
その瞬間、ヘルメスの身体が眩い光に包まれて透け始めていく。
青年を止めるべく攻撃を繰り返していたヘルメスは動きを一旦止め、自身に起こるその現象が現代への帰還を意味する事を察して女性に視線を向ける。
「はぁ、はぁ……っ、ッ、」
息を切らしながら両膝に手をついて唇を嚙みしめるヘルメスの姿など認識できないはずだが、女性は嬉しそうに優しい笑顔を浮かべていた。
「忘れないで……この場所に到達するには”世界式を解く必要がある”の。恐らく原典の知識が必要になってくるはずよ。肝心の原典は既にあなたが――――」
「――――喋りすぎだ」
女性の頭上から禍々しい光を帯びた青年の両手が差し迫る。
ヘルメスが手を伸ばして跳び出すが間に合う距離ではない。
肝心な所で言葉を遮られ、女性は申し訳そうに微笑みながら。
「ごめんなさい、欲張り言っちゃうわね……」
最後にどうしても、これだけは伝えたかった。
――――あなたに託すわ。――――ジンを、愛してあげて頂戴。
「”ルル”ーーーッ!!!!!」
ジンを愛し、ジンが愛した女性。
ヘルメスがその名を叫ぶと、同時に追憶は終わりを迎えた。




