4.午雲さんのうんちくに助けられる
4.午雲さんのうんちくに助けられる
14時6分。修善寺に到着。
「もう着いちゃったの?なんか、飲み足りねえなあ」
缶ビール片手にホームに降りた閉伊さん。
「ほら!あそこでもう少し飲んでいきましょう」
ホームのベンチを指して律子さんが言う。
「ダメですよ。取り敢えず、一旦外に出ましょう」
ボクは弁当と閉伊さんと律子さんの荷物を抱えて歩き出した。
「これ持つよ」
そう言って弁当の袋を持ってくれたのは大橋さん。
「悪いな」
閉伊さんは自分の荷物と律子さんの荷物を受け取った。律子さんは閉伊さんの腕にぶら下がり状態だ。
「りったん、大丈夫?」
香穂里さんとまゆさんが心配そうに律子さんの顔色をうかがう。
「まだ、青くなってないから大丈夫だよ。それより、早く歩いて。バスの時間が分からないから」
「えー!バスに乗るの?私、バスは苦手。ねえ、タクシーで行かない?」
「誰が俺に乗るって?俺なら退屈させないぜ」
雫さんの我がままに反応したのは閉伊さん。確かにあなたの名前は卓司さんだけど、今話しているのはタクシーだから。
「りっきさん、下ネタはやめて下さい!」
香穂里さんとまゆさんが口をそろえて閉伊さんを睨みつける。
「って言うか、私もバスは苦手だなあ…。さっき、ホテルのパンフレット見せて貰ったけれど、けっこう山道を行くのよねぇ。絶対、酔っちゃうよ」
まゆさんも雫さんと同じようにバスが苦手なのだと言った。
「俺はもう酔ってるけどな」
「誰もあんたの話なんか聞いてない!」
雫さんが閉伊さんを一喝。
「大丈夫!」
ボクはお手製の“ゲロ袋”を取り出して見せた。
「いやだ!余計に気持ち悪くなってきた」
雫さんは今にも吐きそうなそぶりを見せた。
「まあ、みんなでワイワイやっていれば、案外、酔わないものだって」
午雲さんが助け舟を出してくれた。
「そうかなあ…」
バスでの移動は思ったほど大変ではなかった。午雲さんがうんちくを披露してくれたおかげで、曲がりなりにも“小説家”の面々は興味深くその話に耳を傾けていた。
「夏目漱石は修善寺にはとても縁があって、明治43年6月、『三四郎』『それから』に続く前期三部作の3作目にあたる『門』を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院に入院したのだけれど、その年の8月に療養のために門下の松根東洋城の勧めでこの修善寺で療養することになったんですよ。けれど、そこで胃疾になって、800gにも及ぶ大吐血を起こしたそうです。それで、生死の間を彷徨う危篤状態に陥ったのだそうです。これが『修善寺の大患』と呼ばれる事件だということは当然、皆さんもご存知ですよね?」
「はい!でも、その年には落ち着いて、長与病院に戻って再入院したんですよね。だけど、その後も胃潰瘍とかの病気に苦しめられて、関西で講演した直後に胃潰瘍が再発して、大阪の大阪胃腸病院に入院したんですよね」
「そうそう!さすが桂さん、よく知ってますね」
「それで、東京に戻ったら今度は痔にかかって通院していたんでしょう?『行人』も病気のために執筆を中絶してるんですよね。それど、その翌年には神経衰弱とか胃潰瘍で悩まされて最終的には4度目の胃潰瘍でとうとう床についてしまったんですよね」
「河さんもさすがですね。そして、作品は人間のエゴイズムを追い求めて行って、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていったわけです」
バスが苦手だと言っていた雫さんはいつの間にか気持ちよさそうに眠っている。電車の中で少しビールを飲んだせいかな。それとも、午雲さんの喋り方が穏やかで子守唄のように感じたのかな。
そして、二人の酔っ払いはバスに乗った瞬間から鼾をかいていた。
「そろそろ着きますよ」
「えっ!もう?残念だなあ。もう少し午雲さんの話を聞きたかったなあ」
「大橋さん、続きはホテルでいくらでも。夜は長いですから」
「あ、そ、そうですよね」
大橋さんは顔を引き攣らせて答えていたけれど、今日は間違いなく長い夜になるんだと思うなあ…。
「雫さん、起きて下さい!着きましたよ。閉伊さんも律子さんも」