たしかに理屈はそうだけど
僕は、日本で最高峰の頭脳が集う大学の研究室に所属している。
そのなかでも僕の研究室はいろいろな分野の精鋭が集まっている。
そう言うと、世間の人は白衣を着た天才たちが、日夜、人類の未来を左右するような研究に打ち込んでいる姿を想像するかもしれない。
それで、だいたい合っている。
ただし、いわゆる頭がいいことと、常識があることは、必ずしも同じではない。
最近、研究室の精鋭の一人が結婚した。
なんと見合い結婚で、婿入りである。
そいつは「私用です」とだけ告げて一週間休み、何食わぬ顔で研究室へ戻ってきた。
「大丈夫だったのか?」
心配した同僚が尋ねた。研究室の人間が一週間も休めば、本人か家族の身になにかあったと思うのが普通だ。
そいつは椅子に腰を下ろし、パソコンを起動しながら答えた。
「結婚してた」
「……は?」
「結婚してきた」
「なんだ、自慢してるな」
「見合いして、そのまま話がまとまった。婿入りしたから名字も変わった」
そう言って新しい学生証を見せたそいつの鼻は、目に見えてふくらんでいた。
「なんだ、その顔は」
「別に」
「得意そうだな」
「そんなことはない」
口では否定しているが、口角も上がっている。
誰がどう見ても得意顔だった。
その日から、ひと月ほど、そいつは機嫌がよかった。
昼休みに妻の作った弁当を開けては、聞かれてもいないのに、
「今日は妻が朝から出汁を取っていた。ありがたいな」
などと報告し、定時が近づけば、
「妻が待っているので」
と、独身者たちを置き去りにして帰っていく。
教授に「結婚生活は順調かね」
と尋ねられ、
「ええ、まあ」
と答えながら、やはり鼻をふくらませていた。
腹立たしいほど幸せそうだった。
そのそいつが、ひと月ほど過ぎたある日、妙なことを言い出した。
「今度の土曜日、皆さんに家へ来ていただきたいのですが」
「結婚祝いならもう渡しただろう」
「祝いを追加で要求しているわけではありません」
「では、研究室全員を家に招いて自慢したいのか」
「それも多少はあります」
「多少はあるのか」
教授を含めた全員の視線を受け、そいつは少しだけ言いにくそうに口を開いた。
「妻が、家がおかしいと言うんです」
「おかしい?」
「心霊現象が起きていると」
研究室が静まり返った。
誰かが吹き出すかと思ったが、全員、意外なほど真剣な顔をしていた。
もっとも、幽霊を信じたからではない。
「現象とは、具体的になんだ」
教授がすぐに尋ねた。
「夜中に庭を歩く音がする。誰もいない部屋から声が聞こえる。開かないはずの蔵の扉が開いている。あとは、家の中に誰かいる気配がすると」
「定量性がないな」
「再現条件も不明ですね」
「音の発生時刻は記録しているのか?」
「していません」
「まず記録を取れ」
心霊現象という言葉を聞いて、この反応である。
そいつも同類なので、当然のようにうなずいた。
「私も気のせいだと言っているのですが、妻が納得しないんです。皆さんに家を見ていただいて、そんなものはいないと説得してもらえれば」
「専門外だぞ」
「妻は、皆さんが国内最高水準の研究者だと知っています」
その一言で、何人かの顔つきが変わった。
専門外であろうと、国内最高水準の研究者がそろって「幽霊はいない」と言えば、説得力があるに違いない。
そう判断したらしい。
こうして、教授を含めた研究室の全員が、新婚家庭を訪問することになった。
◆◇◆◇◆
家は意外にも都心に近かった。
駅から歩いて十五分ほど。周囲には新しいマンションや住宅が建ち並び、少し離れた場所には商店街もある。
「よくこんな場所に一軒家を買えたな」
「家賃より安いくらいでした」
「事故物件ではないのか?」
「不動産屋には、告知するようなことはないと言われました」
「告知義務のない何かはありそうですね」
「やめてください。妻が気にします」
細い路地を曲がった先に、その家はあった。
古い木造家屋だった。
黒ずんだ板塀に囲まれ、門柱には蔦の跡が残っている。瓦屋根の一部はわずかに沈み、二階の窓は昼間だというのに妙に暗い。
家の周囲だけ、空気が冷たいように感じた。
僕は足を止めた。
「……これを買ったのか?」
「立地がいいですし、妻の仕事場が確保できますので」
「立地以外は?」
「これから改善します」
なるほど、自作の将来性を買ったらしい。
庭だけは、不自然なほどきれいだった。
「最初は腰ほどまで草が生えていたんですが、私が刈りました。そのあと除草剤も撒いたので、もう生えてこないと思います」
そいつは満足そうに言った。
庭の奥には大きな木が立っていた。枝ぶりは立派だが、葉は一枚もない。幹には古びたしめ縄が巻かれている。
奥には小さな蔵まであった。蔵の戸や壁には、黄ばんだ札が何枚も貼られている。確かにこれでは戸を開けられないな。
「この木と蔵は?」
「最初の状態です」
「そうか」
教授はそれだけ言って、家へ入った。
玄関を開けると、そいつの奥さんが迎えてくれた。
「初めまして。いつも主人がお世話になっております」
上品で、穏やかそうな女性だった。
ただし、顔色はよくない。目の下には薄い隈ができている。
「突然、大勢で押しかけて申し訳ありません」
教授が頭を下げると、奥さんは困ったように笑った。
「いいえ。わたしの考えすぎだと、主人は言うんです。でも、どうしてもこの家には何かいるような気がして……」
「先入観が知覚に影響を及ぼすことはあります」
「そうだと、主人も言います」
「ただし、実際に異常がある可能性も排除すべきではありません」
教授は安心させたいのか、不安にさせたいのかわからないことを言った。
家に上がった僕は、早々に言葉を失ったが、同僚たちは「ほー」と感嘆した。
よくまあ、ここを買ったものだ。
廊下の壁には、いたるところに札が貼られていた。柱にも、天井近くにも、ガラス窓にも貼ってある。
墨で書かれた文字は、崩れていて読めない。
昼間、この家に一人でいられる奥さんも、いい加減に強い。僕なら五分で逃げ出す。
「これは最初からですか?」
「はい。前の持ち主の方が貼ったのだと思います」
「剥がそうとしたことは?」
「ありません。触るのが怖くて……」
「では、粘着力がどの程度残っているかも不明ですね」
同僚の一人が、もっともらしい感想を漏らしたが、次の瞬間、ためらいなく札に手を伸ばした。
「あっ」
奥さんが小さく声を上げたが、札はすでに剥がされていた。
その瞬間、廊下の奥で、ギィ、と何かが鳴った。
全員がそちらを見る。
「建材の収縮でしょう」
「湿度を測ったほうがいいな」
「今日は湿度計を持ってきていません」
誰も札との関連など気にしなかった。
座敷へ通されると、部屋の隅に古い木箱が置いてあった。
「それが、押し入れから出てきたものです」
奥さんは箱から距離を取ったまま言った。
「主人は捨てていいと言うんですが、勝手に捨てるとよくないことが起こりそうで……」
「所有権の問題ですか?」
「いえ、そうではなく……」
箱の蓋を開けると、中には黒ずんだ布が入っていた。
その布をめくる。
白く乾いた、小さな骨がいくつも出てきた。
「骨ですね」
「見ればわかる」
「人骨ではなさそうだ」
「長骨の形状から見て鳥類か?」
一人が手袋をはめると骨を手袋越しにつまみ、窓からの光にかざした。
「カラスではないでしょうか」
「鳥かなとは思ったが、カラスまで特定できるのか。さすがだな」
「いえ、確証はありません。大きさから推測しただけです」
「なら分析しよう」
せっかくだから持ち帰り、動物形態学を専門にしている別の研究室へ分析を頼むことになった。
奥さんは、
「持って帰ってくださるんですか?」
と、ほっとした顔をした。
「あちらの研究室には事前に連絡しておきます」
「そういう意味ではないと思うぞ」
骨を箱に戻したとき、押し入れの奥から、コツ、と音がした。
少し間を置いて、またコツ、と鳴る。
まるで、内側から誰かが指で叩いているような音だった。
「鼠でしょうか」
「一定間隔だな」
「空調は動いているか?」
「いいえ」
「なら配管かもしれない」
そいつは押し入れを開け、奥の板を叩いた。
音は止まった。
「ほら、何もいません」
奥さんは納得していない顔をしていた。
◆◇◆◇◆
調査は台所へ移った。
教授は床を眺めたあと、突然しゃがみ込んだ。
「ここは、もともと土間だったのではないか?」
「わかるんですか?」
「床の高さに相似性がある。妻の母親の実家も同じような造りだ」と教授が言った。
ちなみに教授の奥様の実家は太い。
経済的にも、由緒的にも、屋敷の柱も太いらしい。
「そういえば、母の実家の本家かな? 似ている」と一人が言い出してさっそく床を指先で叩き始めた。
コン、コン。
少し場所を移動して、また叩く。
コン、コン。
「どうだ?」
「わかりません」
「わからないのか」
「人の聴覚だけで床下の構造を正確に推定するのは無理です」
「始める前に気づけ」
「次は打音検査用の計測器を持ってきます」
「次があるのか」
「床下に空洞があるかもしれませんから」
こうして再訪が確定した。
そのとき、僕の足元で小さく音がした。
コツ。
床の下からだった。
今度は全員が黙った。
コツ、コツ。
叩く位置が、少しずつ移動している。
奥さんが青ざめて同僚の袖をつかんだ。
「ね? こういう音なの」と同僚にうったえる。
「なるほど」
同僚は床に耳をつけた。
「小動物ですね」
「床下に入り込んでいる可能性は高い」
「体重も推定できるか?」
「今の情報だけでは無理です」
教授まで床に耳をつけた。
やがて研究室の人間が次々にしゃがみ込み、床を叩いたり耳を当てたりし始めた。
奥さんは、台所の入口で呆然としていた。
床下の音は、いつの間にか消えていた。
◆◇◆◇◆
ガラス窓に貼られた札も、検証の対象になった。
「この札で隙間風を防いでいるのか?」
一人が窓枠を調べながら言った。
「紙一枚では効果は期待できないだろう」
「だが、貼付箇所が隙間と一致している」
「札を、補修材として使った可能性があるな」
札が一枚剥がされた。
窓がカタカタと揺れて、枠から外れそうになった。
予想していた僕は窓をそっと押さえた。
「相変わらず、先手を打つなぁ」と教授に言われて、苦笑した。
「大局に関係ない所限定ですけどね」と言うと、同僚の一人から同情するように肩を叩かれた。
「風ですかね」
「今、風は吹いていなかったぞ」
「気圧差では?」
二枚目が剥がされた。
今度は窓の向こうを、黒い影が横切った。
「あ、カラス」
「先ほどの骨との関連性は?」
「カラスなんてどこにでもいるだろう」
もっともだった。
次に全員が外へ出て、庭の検証を始めた。
木には、古びたしめ縄が巻かれている。
「これは最初からですよ」
家主が説明した。
同僚の一人が縄を指で押した。縄は湿気を吸い、ところどころ黒ずんでいる。
「こんなぼろい縄はよくない」
「交換しますか?」
「処分でいいだろう。劣化した縄は虫の巣になる」
そいつは何のためらいもなく、しめ縄を外した。
縄が幹から離れた瞬間、木の枝が大きく揺れた。
風はなかった。
「鳥が止まったのか?」
「見えなかったが」
「枝の自重によるものだろう」
しめ縄は丸められ、用意して置いたゴミ袋へ入れられた。
ゴミ袋にいれるが、僕たちの認識では立派な研究資材だ。
庭に落ちていた札も、次々に拾われていく。
「湿っているな。長時間地面に接触したせいだろうな」
「土壌成分が付着しています」
「いいですか?」
「お願いします」
奥さんはもう止めることを諦めたらしく、玄関先から僕たちを見守っていた。
木の根元からは、細い骨も何本か見つかった。
「これも鳥類か?」
「先ほどのものと同じ個体かもしれません」
「比較用に回収しよう」
骨もゴミ袋へ入れられた。
そのたびに、庭のどこかから、ササ、ササ、と草を踏むような音がした。
しかし草は、家主がきれいに刈り、除草剤まで撒いている。
「落ち葉だな」
「落ち葉はないぞ」
「では砂ですかね」
「音の伝わりは複雑だからな」
現象には必ず原因がある。すぐに特定できなくとも原因は探し出す。
研究者とは、そういう生き物である。
最後に蔵の前へ向かった。
扉には、家の中よりも大きな札が何枚も貼られている。
「これは珍しい字体だ」
一人が目を輝かせた。
「読めるのか?」
「いや、読めない。だから珍しい」
「判断基準が雑ではないか?」
「筆圧と運筆が興味深い。資料として保存したい」
言うなり、そいつは蔵の扉から札を次々に剥がした。
奥さんが「あ」と声を上げるより早く、札はゴミ袋ではなくそいつの手帳へ挟み込まれた。
最後の札が剥がれた瞬間、蔵の中から、ドン、と大きな音がした。
「何か倒れましたね」
「棚か?」
「地震は感じなかったが」
「建てつけの問題でしょう」
家主は錆びた錠前を外し、扉に手をかけた。
「開けます」
ギイイイイイ、と、耳を刺すような音を立てて扉が開いた。
暗い蔵の奥から、冷たい空気が流れ出してくる。
その風の中に、確かに人の声のようなものが混じっていた。
細く、長く、苦しげな――悲鳴だった。
奥さんが夫の腕にしがみつく。
「今の! 今の声よ!」
家主は少し考えた。
「軋みからですね。この音は」
「扉が?」
「あるいは、内部の梁が」
「人の声に聞こえましたけど」
「木材の摩擦音は周波数が広い。偶然、人の声に近く聞こえたのでしょう」
教授は懐中電灯を取り出し、蔵の中を照らした。
「床に地下へ続く扉があるな」
「本当ですか?」
家主の声が弾んだ。
「購入時の図面にはありませんでした。隠し地下室でしょうか」
「面白い」
「床下の音とつながっている可能性がありますね」
「次回は床下探査用の機器に加えて、ガス検知器も必要だな」
「内視鏡カメラも持ってきましょう」
「地下なら酸欠の危険もある。防護装備を整えてからだ」
研究室の面々は、次回の調査に必要な機材を相談し始めた。
奥さんだけが、真っ青な顔で蔵の奥を見ていた。
僕もつられて、懐中電灯の光の先を見る。
蔵の奥、懐中電灯の明かりがやっと届く辺りの、棚と棚の隙間に、白い顔が浮かんでいた。
目も口も真っ黒で、僕たちをじっと見つめている。
「奥に、何か見えないか?」
僕が尋ねると、全員が一斉に奥を見た。
白い顔は消えていた。
「どこに?」
「あの棚の間だ。人の顔みたいなものが」
「光の反射だろう」
「人間の脳は、三つの点があれば顔として認識する傾向がある」
「シミュラクラ現象ですね」
「写真を撮ったか?」
「いや」
「では記録なしだな」
そう言い切られた。
奥さんが、か細い声で僕に尋ねた。
「……見えたんですか?」
返事に困っていると、教授が蔵の扉を閉めた。
「今日は準備不足だ。地下の調査は次回にしよう」
「いつ頃がよろしいでしょうか」
「来週の土曜日はどうだ?」
「私は空いています」
「私も」
「分析結果も、それまでには出るでしょう」
次々に参加者が決まっていく。
新婚家庭に巣くっているかもしれない何かに対し、国内最高峰の頭脳たちは、恐怖よりも好奇心を刺激されてしまったらしい。
帰り際、奥さんが僕の袖をそっと引いた。
「皆さん、本当に大丈夫なんでしょうか」と心配そうに聞いて来た。
同僚を心配してくれているようだ。
同僚たちは、剥がした札や骨やしめ縄を詰め込んだゴミ袋を抱え、楽しそうに話している。
「地中レーダーも借りられないか?」
「申請理由はどうします?」
「古民家の床下構造の調査」
「虚偽ではありませんね」
僕は彼らを眺め、それから暗い蔵を振り返った。
閉じられた扉の向こうから、ドンと音がした。
奥さんにも聞こえたらしい。
もちろん、研究室の連中にも聞こえていた。
「中で棚が倒れたようだな」
「次回、固定金具も持ってきましょう」
誰一人、逃げようとはしなかった。
「……大丈夫だと思います」
僕は奥さんに答えた。
「これだけ怖がらない人間が集まれば、たいていのものは向こうから逃げます」
奥さんは何とも言えない顔をした。
同僚によると、その日の夜から、家の中の心霊現象はぴたりと止まったらしい。
ただし、持ち帰った札を手帳に挟んだ同僚の研究室では、誰もいないはずの実験室から悲鳴が聞こえるようになった。
そいつは録音機材を設置して、毎晩、嬉々としてデータを集めている。
頭がいいことと、常識があることは、必ずしも同じではない。
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