第八章 再訪の朝、嵐の予感
水無月水蓮、母校訪問の朝。兄妹三人がそろって登校するなか、学院にはどこか張りつめた空気が漂っていた――これは、特別な一日の始まりの記録である。
両親が明々後日に帰国するという一報が入った夜、水無月家の空気は妙に重たかった。無言で並ぶ皿、ぎこちない会話。兄妹それぞれが言葉にできない思いを抱えながら、静かに時間が過ぎていった。
そして翌朝――。
ダイニングには、淡いグレージャケットにパンツスーツを纏った水蓮が、いつもより早く席についていた。コーヒーを傾ける所作には、どこか余裕と威圧感が同居している。
向かいの席には、制服姿の翡翠がパンをかじっていたが、今朝に限ってはやけにおとなしい。
「……いつも蒼空に朝ご飯を作らせてるの? たまには翡翠ちゃんが作りなさいよ」
涼やかな声に、翡翠はむっと唇を尖らせた。
「だってお兄様のほうが、ずっと上手なんだもん……」
「言い訳にはならないわよ?」
水蓮は静かにカップを置き、背筋をぴんと伸ばした。その一動作が妙に絵になる。
「お姉様……その服装って……?」
翡翠が遠慮がちに尋ねると、水蓮は少しだけ微笑んだ。
「OGとして、母校を訪問するの。前々から決まってたのよ。今回の帰国の、もう一つの理由でもあるわ」
その言葉に、キッチンでフライパンを操っていた蒼空が深いため息を吐く。
「……このタイミングで学院に行くとか、SNSでバズってるのに……姉さん、それ完全に火に油……」
小声でつぶやいた愚痴は、誰にも聞かれず空中に溶けていった。
「あれ? お弁当は?」
翡翠がふと気づいたように顔を上げる。
「水蓮姉さんが『たまには学食の味も恋しい』って。昼は学食集合だってさ」
蒼空がタオルで手を拭きながら答えると、翡翠はにやりと笑った。
「ふふ、お昼は……お姉様の奢りね?」
「……ん、まあ……」
水蓮は困ったような、それでいてどこか楽しげな笑みを浮かべた。
そんな三人は、それぞれの思惑を胸に、そろって玄関を出る。
朝の通学路には、すでにいつもとは違う空気が流れていた。生徒たちの姿がいつもより早く、いつもより密集している。
(……やっぱり目立ってる……)
蒼空はうなだれるように歩きながら、猫背をさらに丸めた。だがその不自然な挙動が逆に目立っており、本人の意図とは真逆の効果を生んでいた。
一方で、水蓮はゆったりと歩きながら学院の校舎を見つめていた。
「……昔は女子校だったのよ。セーラー服で通ってたわ。今の制服も綺麗だけど、ちょっと寂しい気もするわね」
「へえ……お姉様のセーラー服姿、ちょっと見てみたかったかも……」
翡翠が素直にそう口にすると、水蓮はほんの少しだけ照れたように笑った。
「私はあまり好みじゃなかったけど……あなたがそう言うなら、悪くなかったのかもね」
やがて、校門が見えてくる。
そこには、中等部と高等部の生徒会役員たちが並び、登校する生徒に一礼を繰り返していた。
その中心に立っていたのは、小豆色のブレザーに生徒会長章を付けた少女――山形若葉だった。
「中等部・高等部生徒会、生徒会長の山形若葉です! 水無月水蓮先輩ですね? お噂は予々聞いております!」
若葉の澄んだ声に、周囲から小さな歓声が漏れる。
水蓮はその様子に微笑みながら、ふと問いかけた。
「生徒会の定員は四人……でも、今は三人しかいないのね」
若葉は表情をやわらげ、少しだけ肩の力を抜いたように言った。
「欠員が出ておりまして。現在は、水無月蒼空君に書記の打診をしているところです」
「……そうなの?」
水蓮がゆっくりと蒼空を振り返ると、彼は目を剥き、これでもかという勢いで首を振った。
(やめてくれ……ほんとにやめてくれ……)
その光景を、少し離れた校舎の窓から見下ろしていた神無月楓は、そっと奥歯を噛みしめた。
(若葉……また勝手なこと言って……)
保健室の窓からは、神子戸洋子が懐かしげな視線を向けていた。
(あの頃を思い出すわね……水蓮と私、ああやって朝の挨拶してたわ)
そして、校庭の隅。
英語教師レベッカ・チェンバースは、ゆるやかな春風の中、遠くの人影にそっと目を細めていた。
制服の裾を風に揺らしながら、どこか所在なげに目を伏せる少年――水無月蒼空。
その表情には、年相応の未熟さと、時折見せる鋭く繊細な光が宿っていた。
「……どうして、あんな目をするのかしら」
彼女は誰に聞かせるでもなく呟いた。
思考は仕事を離れ、ふと物語の中の登場人物を眺めるような気持ちで、蒼空という名の謎に惹かれていく。
それは恋と呼ぶには静かすぎて、けれど確かに胸に残る、最初の気づきだった。
かつての生徒会長・水無月水蓮。
その弟で、目立たぬ読書好きの少年・水無月蒼空。
そして、誰もが知るブラコン妹・水無月翡翠。
三人が並んで校門をくぐる姿は、学院にとって忘れがたい朝となった。
けれど、それはまだ――“特別講義”の幕が上がったばかりに過ぎなかった。