第七章 空気を読まないバカップル ーメソポタミアの逆襲ー
文明展から帰宅した姉弟を待ち受けていたのは、怒れる妹と迷彩エプロンの鬼教官(?)。バカップルに下される罰、そして逆襲のデート計画とは――。家族だからこそ容赦なし!
朝の光が差し込むホテルのラウンジ。
窓の外に広がる街の風景は、どこまでも静かで、どこまでも日常だった。
しかし、その一角で朝食をとる二人の姿は、少しばかり浮いていた。
どちらもやや目の下に疲れの影を落とし、トーストを口に運ぶ速度も遅い。
コーヒーカップを持つ手が時折止まるのは、寝不足によるものか、あるいは後ろめたさによるものか。
近くの席にいた学生風の女性が、スマートフォンを操作しながらぼそりと呟いた。
《ラウンジで見かけた二人、朝食中だけど寝不足っぽかったな……展示会の復習?それとも……》
《兄妹って言ってたけど、あの距離感は……いや、まぁ、仲がいいってことで……ね?》
そんな意味深な投稿がネットの片隅に投下された頃、当の二人は同時にあくびを噛み殺していた。
「……やっぱり、ちょっとやりすぎたね」
「でも、面白かった。あの中王国の再編期の展示……何度見ても飽きないよ」
「うん。……ただ、帰ったら嵐かも」
姉が小さくため息をついた。
そう、展示会に一言も告げずに留守番させた、あの妹が黙っているはずがない。
ホテルを出る前、ロビーの売店で足が止まる。
高級チョコレートの箱が目に入ると、二人は無言で頷き合った。
「これで少しでも機嫌が直れば……」
「無理だとは思うけど、試す価値はある」
チョコレートをひと箱、丁寧に包んでもらい、タクシーに乗って夕方の街へと帰路につく。
だが――。
玄関の扉を開けた瞬間、重苦しい空気が二人を出迎えた。
「……あっ」
リビングの入口に立っていたのは、腕を組んで仁王立ちするツインテールの少女。
目の奥が怒りに煮えたぎり、全身から“怒”のオーラが立ちのぼっている。
そのすぐ隣には、迷彩柄のエプロン姿の女性――涼子が静かに立っていた。
その落ち着いた佇まいは、逆に不気味なほどの威圧感を放っている。
「お帰りなさいませ、“姉さま”。……それと、“お兄様”」
その声は、氷点下の冷気を思わせるほど冷たく凍りついていた。
「とりあえず、座ってもらおうか」
無言で居間に通され、ふたりは正座を命じられる。
説明する間もなく、翡翠の怒りが爆発した。
「私に一言もなく展示会に行ったって、どういうことですかっ!」
姉が申し訳なさそうにチョコレートの包みを差し出したが、翡翠の手がそれを奪い取った。
「これは預かります。……味は評価します。でも、許しません」
そう告げると、横にいた涼子が静かに告げた。
「翡翠ちゃんを仲間外れにした罪は、極めて重いわね。というわけで、罰を与える」
「え……罰って?」
「腕立て伏せ、腹筋、背筋、各50回。それから……小銃スクワット…5回」
「ちょっ……ちょっと待って。まず、現役のレンジャーでも小銃スクワットはキツいって知ってる? それに、そもそもうちに小銃なんてないから!」
蒼空が全力でツッコんだが、涼子はきっぱりと言い放った。
「代わりに米袋でいいわ。10キロ×2。大丈夫、玄関に置いてあるから」
「な、なんでそんなものが……」
「この日のために準備してたのよ」
まさかの計画犯。
しかも米袋は陸上自衛隊正式装備の89式小銃よりもはるかに重い…。
「陸上自衛隊でもレンジャーでもないのに…」
観念した蒼空は、指示通りリビングで黙々とトレーニングを開始した。
腕立て、腹筋、背筋……息が切れるたびに翡翠の視線が鋭さを増す。
チョコレートでは、彼女の怒りは微塵も緩まなかった。
やがてトレーニングが終わる頃、翡翠が勢いよく立ち上がった。
「……決めました!」
その目がギラリと光り、三人が一斉に彼女に視線を向ける。
「ハムラビ法典にも書いてあります!目には目を!歯には歯を!――デートには、デートです!」
「……は?」
「私は、水無月家メソポタミア文明担当として、お兄様を“デート”にお連れしますっ!」
「え、メソポタミア……?」
「シュメールもバビロンもアッカドも、ぜーんぶ語れます!展示品の前で、私が全部レクチャーします!」
「私も――」
「ダメですっ!」
翡翠がピシャリと姉の言葉を遮る。
「お兄様と私が、ふたりきりで“デート”しますっ!」
「……というか、その展示って、どこで開催されるの?」
蒼空の冷静な一言に、翡翠がぴたりと静止した。
沈黙。完璧な無言。
「え?…調べてないの?」
蒼空が呆れて言うと同時に、水蓮のスマートフォンが通知音を鳴らした。
「……母さんから?」
画面を開いた姉が、顔をこわばらせる。
「……“明々後日、父さんと一緒に帰国します。SNSのことで少し話したいことがあります”って……」
「……えぇっ!?」
涼子がさらりと補足する。
「ちなみに、翡翠ちゃんに何も言わずにお泊まりした件、姉さんには報告済み。怒涛天で怒ってたよ」
水蓮と蒼空――いや、姉と弟の顔から、音を立てて血の気が引いた。
(……これはもう、神の怒りだ)
誰もがそう思った、その瞬間――。
「……ぐぅぅ」
静まり返った室内に、胃の鳴る音が響いた。
「……ご飯にしましょうか」
涼子の微笑が、戦場のような空気をわずかに和らげた。
その一言だけが、この日最大の救済だったのは、言うまでもない。