第六章 空気を読まないバカップル ー誰だっけ?水無月蒼空ー
SNSで話題の“博識バカップル”の正体は、まさかの学修館の生徒だった!?
ざわつく校内、怒れる妹、そして誰も知らなかった少年の素顔が浮かび上がる。
翌朝、学修館学院の空気はどこか落ち着きがなかった。始業のチャイムが鳴るより前から、生徒たちは教室のあちこちでスマートフォンの画面に目を凝らしていた。
深夜のうちに、ある一本の動画がSNS上で爆発的に拡散されたのだ。
「なあ、見たか? あの展示会のやつ」
「英語でミイラの解説してた子、うちの生徒らしいぞ」
「姉ちゃんがケンブリッジの教授とか言ってたよな、あの女の人の弟だってさ」
古代エジプト展の会場で撮影されたその映像には、流暢な英語で展示物を語るふたりの姿があった。姉と弟と称されながら、あまりに親しげで息の合ったそのやりとりは、動画のコメント欄でも〈バカップル〉と揶揄されるほどの親密さを見せていた。
注目されたのは、英語でミイラについて語る少年だった。視聴者たちは、彼の言葉の端々から「この前の授業で〜」「レベッカ先生が言ってた」「B組の〜」などのキーワードを拾い集め、匿名の“特定班”が導き出したのが――学修館学院の生徒、という可能性だった。
だが、特定されたはずの高等部一年B組の名前を見ても、生徒たちの反応は今ひとつ鈍かった。
「……いたっけ? そんなヤツ」
「水無月蒼空? 名前は……聞いたことあるような……」
「俺、編入だから知らんけど……」
「B組って、あの地味な……え? あれ蒼空?」
確かに出席簿には名前がある。けれど、誰も彼の顔をはっきりと思い出せなかった。授業にも出ているし、行事にも参加していたはずなのに――存在そのものが霞んでいる。
同じころ、中等部。
登校してきた水無月翡翠のただならぬ雰囲気に、教室の空気はぴたりと凍りついていた。スマホを手にしたまま、じっと画面を睨みつけるその姿に、誰も声をかけられない。
(ああ……ヤバいな……)
(“重度のブラコン”って有名だし……)
(あれはもう、怒りを通り越してる……)
翡翠の周囲には、目に見えない結界のような沈黙が張りつめていた。誰ひとりとして、半径一メートル以内には近づこうとしない。
「……やっぱり……お兄様は私に何も言わず、姉さまと展示会に行ってたのね……!」
翡翠は唇をきゅっと噛み、震える手でスマホを握りしめる。
「妹を置いて出かけるなんて……これはもう――」
椅子を音を立てて引き、机に肘を打ちつけながら叫んだ。
「――国家反逆罪よっ!」
一瞬、教室の時が止まったかのように静まり返る。
だが、誰もツッコミを入れなかった。いや、入れられなかった。
「目には目を、歯には歯を……姉さまが法なら、私は復讐……!」
水無月翡翠の決意が、ここに宣言された。
その頃、職員室も例外ではなかった。
「水無月水蓮って……確か、あの元生徒会長ですよね?」
「ええ。たしかイギリスに留学して、いまはイギリスの大学で助教授とか……」
「その弟が、うちの生徒って話なんですけど……」
「水無月……蒼空……?」
教師のひとりが、学年名簿を引っ張り出して確認する。
「一年B組……ああ、いたね……でも、どんな顔だったっけ……?」
名簿に記されているその名前に、顔がまったく結びつかない。教員たちもまた、記憶の糸を手繰り寄せることができずにいた。
そのとき、保健室の養護教諭、神子戸洋子が静かに言った。
「彼、時々貧血で保健室に来てたわ。あまり話す子じゃないけれど……礼儀正しい子よ」
「その子が……英語でペラペラと解説してたって?」
英語教師のレベッカ・チェンバースが成績表をめくりながら呟いた。
「うーん……英語の成績は“中の中”ですね。でも、あれが本物の会話力なら……“芸達者”と言うべきかもしれません」
地味で物静かな少年と、世界にバズる“解説少年”がどうにも一致しない。教員たちは戸惑いながら、蒼空という存在の実像を測りかねていた。
一方、事務室では混乱がピークに達していた。
電話のベルが鳴り止まず、職員たちは応対に追われていた。
「ええ、はい。英語教育には力を入れておりますが……え? 考古学の特進コース? いえ、設置はしておりません……」
「展示会で話題の生徒について? はい……確認中ですので……」
「資料のご請求ですね、かしこまりました。今日中に二十部、発送いたします……」
応接の職員たちは、書庫から学校案内をかき集め、コピー機の前で右往左往していた。
「校長……これはもう、“問い合わせ地獄”ですよ……!」
理事長室でも、理事長がデスクに肘をつきながら頭を抱えていた。
「……水無月蒼空って……誰なんだよ、本当に……」
そのころ、都内のあるビジネスホテルの一室。
カーテンの隙間から差し込む柔らかな朝日が、山積みの資料と開きっぱなしのノートの上に静かに降り注いでいた。
ベッドの端には、水無月蒼空が『古代エジプト神話構造論』を抱くようにして眠っていた。その肩に、そっと頭を預けるようにして眠る水無月水蓮。
互いの肩と肩が寄り添い、寝息が重なり、同じリズムで胸が上下している。
資料の海のなかで、まるで寄り添う恋人のように眠る姉弟の姿は――けれど、どこまでも自然で、どこまでも静かだった。
そしてこの日もまた、世界が騒がしく回り出そうとしていた。