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第三章 空気を読まないバカップル ―水蓮と蒼空の博識デート―

博識すぎて周囲を置き去りにする姉弟――水無月水蓮と蒼空。エジプト文明展を訪れた二人の“学問デート”は、まさかの形で注目を集めることになる。

 春の風が街に柔らかな匂いを運んでいた。

 ゴールデンウィーク直前、平日の午前。

 東京・国立美術館前には、すでに入場を待つ人々の列が伸びていたが、その中で一組だけ、明らかに“浮いている”兄妹がいた。

 「姉さん、それは誤解だよ。ラムセス2世がカデシュの戦いで勝利したっていうのは、あくまで碑文に書かれてる自己申告で――」

 「でも、あの規模の戦車戦を展開できたのは彼の軍事力の証でもあるわ。ヒッタイトの記録では講和とされてるけれど、バランスを見るなら、象徴的勝利と言って差し支えないんじゃない?」

 そう真顔で言い合うのは、水無月水蓮と水無月蒼空。

 二人ともジーンズにシンプルなパーカーというごくカジュアルな服装。だがその口から飛び出すのは、高校世界史の教科書すら軽々飛び越えるような高度な古代史議論だった。しかも、これが朝9時台の会話とは思えぬ熱量で。

 「それより、姉さん。今回の目玉展示はあれでしょ。太陽の船の復元レプリカ。クフ王の墓の隣に埋められていたやつ」

 「そう。あれの保存状態が奇跡的なのよ。熱と湿度と、酸素を含まない密閉状態で数千年。まるで時を超えてきたかのようで……」

 「“船”という概念を神聖化する文化的背景が、やっぱり興味深いよね」

 飲み物を一本だけ買って、仲良く回し飲みしながらそんな会話をしている二人の姿は、傍から見ればとても「姉弟」には見えなかった。

 密着する距離感、自然すぎる呼び合い方、そしてやたら専門的な会話。

 周囲のカップルや家族連れの視線が刺さる中、二人だけが異世界にいるかのような濃密な時間を過ごしていた。

 やがて開館時間になり、列が動き出す。

 水蓮と蒼空は揃ってパンフレットを受け取ると、すぐさま開いて中身を確認――することなく、展示室へ直行した。

 「見て、これ。第18王朝時代のアメン神像。黄金の装飾が残ってる」

 「たぶん、カルナック神殿系列で使われてたやつだよ。背面の装飾、見覚えある」

 展示室に入るやいなや、二人は案内パネルも読まず、パンフレットも開かず、即座に議論を始めた。まるで展示品に語りかけるかのようなやり取り。聖銅像の前では宗教と政治の関係性を掘り下げ、装飾品の展示ケースの前では金属加工技術の変遷を語る。

 極め付きは石棺の前だった。

 「これ……ロゼッタ・ストーンで判読された碑文体系と同じ構造だ。上下にヒエログリフとデモティック、真ん中にギリシャ語が――」

 「副葬品の位置も完璧。しかもこの保存状態。きっと発掘時の土壌がアルカリ性だったのね」

 解説員が説明を始めようと近づいたが、目の前で繰り広げられる議論に目を白黒させ、やがて半泣き状態で引き下がっていった。

 「ねぇ蒼空……あそこ見て」

 太陽の船の展示前で、水蓮が小さく指差した先には、ボードの説明文を見ながら首をかしげている老夫婦の姿があった。

 水蓮はふと表情をやわらげ、そっと歩み寄る。

 「もしよければ、ご説明しましょうか?」

 「ああ……助かります。昔から好きなんですが、難しくて……」

 水蓮が微笑み、蒼空に視線を向ける。

 「蒼空、お願いしてもいいかしら?」

 「うん。これは紀元前2500年頃、クフ王のピラミッドに副葬された実物の復元模型で、王が死後、太陽神ラーとともに天空を航行するための“聖なる舟”なんです。分解された状態で埋められていて、実際に発掘後に再構築されたんですよ」

 静かに語られる言葉に、老夫婦は目を丸くする。

 その説明は専門用語を極力避け、しかし的確に核心を捉えており、隣にいた数人の観覧者たちまでが聞き耳を立てていた。

 「すごいわ……学生さん?」

 「ええ、弟です。でも、古代エジプトに関しては私も舌を巻くくらいで」

 「素晴らしいわ。本当にありがとう」

 老夫婦は感激の面持ちで深く頭を下げた。

 蒼空は、そんな空気を感じつつも、静かに太陽の船を見上げていた。

 巨大な復元船体。その木材一つひとつに、人の手と祈りが刻まれている。

 「どうかした?」

 「……何でもないよ」

 水蓮の問いかけにそう答えた蒼空は、どこか遠くを見るようなまなざしで、ただ船の前に立ち尽くしていた。

 その様子を、誰かがスマホで撮っていたとも知らずに。

 SNSでの拡散は、すでに始まっていた――

 “国立美術館で、博識すぎる美男美女カップルが解説員泣かせの討論してた件”

 “太陽の船の前で説明してくれた学生さん、やばいほど分かりやすかった……惚れる”

 “あれ、兄妹って聞いたけど本当?”

 空気を読まない、でも誰よりも濃密な時間を共有していた二人の一日は、こうして静かに、しかし確かに歴史の一片になりつつあった。

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