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第二章:影と光と成田空港にて

新学期、欠席扱いの少年とその名に誰も記憶がない教室。

一方その頃、彼は空港で「姉」と再会していた――

記憶に埋もれた兄、水無月蒼空と、帰国した才媛の姉・水蓮。

そして黙って出かけた兄に憤る妹・翡翠。

三人の再会が静かに始まる。

 四月某日、水曜日の朝。新学期が始まってまだ間もない学修館学院高等部一年B組の教室では、担任が出席簿を手に、淡々と名前を読み上げていた。

「水無月蒼空……今日は欠席です」

 その一言に、教室の一角で教科書を開いていた男子生徒がふと顔を上げ、眉をひそめた。

(……水無月蒼空? 誰だ、それ)

 担任自身もどこか引っかかるような面持ちで、名簿を見直す。たしかに、出席番号の横にはしっかりと「水無月蒼空」と記載されている。だがその名前に、はっきりした顔が結びつかない。地味で、静かで、存在感の希薄な少年。思い出そうとしても、すぐに記憶の霧の中へと紛れてしまうような、そんな印象しか残っていなかった。

 クラスの中でも、ちらほらと同じような反応が起きていた。

「水無月? あー……ちっこいヤツか?」

「いや、いたっけ? 転校生じゃないよな?」

 出席番号の順に並んだ机。そこに彼の席は確かにあるが、空席であることに強い違和感を覚える者は、ひとりとしていなかった。

 一方そのころ、当の水無月蒼空は、成田空港の国際線到着ロビーにいた。

 大きなガラス張りのゲートの前で、革靴のつま先を揃え、黒革のトートバッグを手に立つその姿は、周囲に埋もれてしまうほど小柄で目立たない。しかし、彼なりに選んだきちんとした装い――ジャケットにスラックス、ワイシャツの第一ボタンまで留められたその姿からは、慎ましやかな緊張と誠実さがにじみ出ていた。

 猫背気味の背中を少しだけ伸ばし、ロビーの時計に視線を送る。

「……遅れてないよな」

 自分に言い聞かせるように、ぽつりと呟いたその瞬間――

 ロビーの自動ドアが音もなく開き、長身の女性が一人、姿を現した。

 黒のスーツに身を包み、髪はすっきりとまとめられている。すらりとした体躯、まっすぐな足取り。周囲の喧騒を物ともせず、どこか冷ややかな空気を纏って歩くその女性――それが、蒼空の姉、水無月水蓮だった。

「……姉さん!」

 蒼空の声に、水蓮の瞳がふと揺れる。その瞬間だけ、冷たい仮面の奥に柔らかな光が射した。そして迷うことなく歩み寄り、弟の肩を強く、しかし丁寧に抱き寄せる。

「……久しぶりね、蒼空。顔、ちゃんと見せて」

 彼女は蒼空の肩に手を置いたまま、じっとその顔を見つめた。細くなった前髪を指先で払い、額にそっと触れる。その仕草には、観察者としての冷静さと、姉としての情愛が同居している。

「少し……大きくなった?」

「姉さんこそ、相変わらず綺麗だよ」

 ふっと微笑む水蓮の顔は、冷静沈着に見えて、どこか安心したような気配を帯びていた。

「ありがとう。あなたにそう言われると……なんだか照れるわね」

 二人の間に流れる空気は、淡く、そして濃密だった。まるで恋人の再会を思わせるような熱を孕んで、行き交う人々の中にあっても、彼らだけが別の時間を生きているかのようだった。

「荷物は?」

「預けてないわ。リムジンバスは嫌い。タクシーで行きましょう。ホテルは空港近くに予約済みよ」

「うん。……ホテルに着いたら、すぐ展示会の資料確認かな?」

「もちろん。今回のメイン展示、『太陽の船』の模型は、構造に少し不自然な点があるの。写真で確認はしてるけど、実物を見ないと確証が持てない」

「パンフレットは目を通した。主要展示リストも確認済み」

「さすが。我が弟にしては上出来ね」

 水蓮は満足げに頷き、ロビーの床にヒールの音を響かせて歩き出す。蒼空は、その隣にぴたりと寄り添うように歩いた。頭一つ分以上の身長差――けれど不思議と、釣り合いが取れていた。

 そのころ、学修館学院中等部では、蒼空の妹――水無月翡翠が、教室の窓際でスマートフォンを睨みつけていた。

《蒼空が泊まりで出かけたって? 一人で家にいても寂しいでしょう。うちでご飯食べる?》

 それは、叔母・涼子からのLINEだった。授業が始まる直前の通知に、翡翠は眉をひそめ、すぐさま返信を打つ。

《泊まり? どこへ行ったの?》

《知らない。泊まりで出かけますってだけ連絡があった》

 眉間に深いしわが寄る。スマホの画面に映る返信を凝視したまま、指が止まる。

《あのバカ……翡翠ちゃんに、何も言ってないのか?》

 歯を食いしばる。そして、怒りとも寂しさともつかない感情が、胸の奥で渦を巻く。

《帰ってきたら〆ます》

《協力するぞ》

 叔母の返答。ふだんは毅然とした大人の代表のような涼子が、翡翠や蒼空に対してだけは妙に甘い。その甘さが、今の翡翠には火に油だった。

 スマホを握る手に力がこもり、プラスチック製のスマホケースがぎし、と音を立てて歪む。

「お兄様が、黙って出かける理由なんて……一つしかない!」

 目を伏せたまま、唇を噛む。

「……帰国してきたのね、姉さま」

 その声はかすかに震え、瞳の奥には抑えきれない感情の色が浮かんでいた。怒り、寂しさ、嫉妬。自分でも整理がつかないそれらの想いが、胸の内で複雑に絡まり合っていく。

 チャイムが鳴る。翡翠は深く息を吐き、立ち上がった。握りしめた拳が、机の下で小さく震えていた。

(……帰ってきたら、絶対に〆てやる。絶対に――)


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