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不器用な夜の贈り物


 謁見の間を出たアヴェリンは、自分の足音がやけに遠く感じられるのに気づいていた。


 冷たい石の廊下。月明かりの届かぬ角を曲がり、人気のない壁際へと吸い込まれるように足を止める。


 手袋の下で、指がわなわなと震えている。喉の奥が焼けるように痛い。


 「……だめね、こんなの」


 自分で自分に呟いたその声は、かすれていた。泣いてはいない。けれど、泣き崩れそうだった。


 ——あの人の顔を、あんなに近くで見てしまった。


 あの声、あの目つき。何もかも、過去の傷をえぐり出すようで、息が詰まりそうだった。


 と、背後から足音が聞こえる。


 アヴェリンは反射的に背を向け、顔を隠す。


 「……アヴェリン?」


 柔らかな声が、すぐそこでした。


 息を呑む。振り返ると、月明かりの中に現れたのは、ジュリアン・ヴァレリアンド——第三王子だった。


 彼は立ち止まると、少し眉をひそめてこちらを見つめた。


 「大丈夫か?」


 その声には、迷いも詮索もなかった。ただ一つ、穏やかな調子で、彼女の体調を案じる音だけがあった。


 「……はい、大丈夫です」


 そう答えながらも、声は少し震えてしまっていた。ごまかせたかどうか分からない。


 ジュリアンは一歩、彼女に近づいた。けれどそれ以上、詰め寄ることはなかった。


 「今夜は随分冷える。こんなところでじっとしていたら、風邪をひいてしまう」


 そう言って、彼は自分の外套を脱ぐと、アヴェリンの肩に軽くかけた。


 「あ……」


 驚いて見上げると、彼はふっと微笑んだ。


 「貸すだけだから。返してもらうよ、ちゃんと」


 冗談めかした口調だったけれど、その瞳には彼女の反応を気遣う優しさがあった。


 アヴェリンは胸の奥が、ほのかに温かくなるのを感じた。外套の重みとともに、心まで包まれるような不思議な感覚だった。


 「お気遣い……恐れ入ります」


 「気遣い、というよりは……まあ、私がそうしたいから、だよ」


 その言葉に、アヴェリンはほんの少し目を見開いた。


 「……どうして、ですか?」


 ジュリアンは少し黙った。そして、ゆっくりと答えた。


 「君がつらそうにしているのを見たら、何も言わずにはいられなかった。ただ、それだけさ」


 それだけ。


 飾り気のない、真っ直ぐな言葉。どこまでも自然で、嘘のない声色。


 それを聞いた瞬間——アヴェリンは、不意に胸が跳ねるのを感じた。


 まるで胸の奥に、小さな鈴が鳴ったみたいに。


 自分の様子をじっと見守る彼の眼差しは、やわらかくて、それでいてまっすぐだった。まるで、彼女という人間を、一つの尊厳として扱ってくれているような視線。


 (……きれいな人)


 無意識に、そんなことを思ってしまった。

 この人の隣にいると、緊張するのではなく、胸がすうっと楽になる。


 ジュリアンは目をそらすことなく、そっと言った。


 「一人になりたいなら、無理には勧めないけど……もし君がいいなら……あたたかいものでも飲まないか?」


 拒否する理由はなかった。むしろ、今だけは、誰かといたかった。


 アヴェリンはこくりと小さく頷いた。


 「……ご一緒しても、よろしいですか」


 ジュリアンは嬉しそうな笑顔で頷くと、一歩先を歩きはじめる。彼女に合わせてゆっくりとした足取りで。

 その背に視線を向けながら、アヴェリンは自分の胸の奥で灯った小さな火を、まだ言葉にすることができなかった。

 けれど、それが心のどこかを温めているのを、アヴェリンは確かに感じていた。


 彼と並んで歩く静かな夜の回廊。煌々と灯された燭台が二人の影を長く引き、時折、アヴェリンの胸元にジュリアンの淡い香りが漂ってきた。凛とした香木のようなその匂いに、自然と息が深くなる。


 厨房の扉を開けると、そこはすでに片付けが終わっており、薄暗いランプの光だけがぽつんと灯っていた。

 ジュリアンは棚を開けたり、陶器の壺を覗いたりして何か温かいものはないか探している。その後ろ姿を、アヴェリンは少し離れた椅子に腰掛けながら静かに見ていた。


 「お腹は空いていないかい?」


 「……昨日からあまり、食べていないんです。緊張で何も喉を通らなくて」


 その言葉に、ジュリアンは振り返った。やわらかな眉が、ほんの少しだけ曇る。


 「そうか。……ごめん、もっと早く聞いておくべきだった」


 「いえ。わたし自身、気づかないくらいで……」


 「何か、食べられるものがあればいいんだけどな」


 そう言ってさらに探し回った彼は、やがて一枚の小麦のビスケットと、端が欠けたチーズを見つけた。


 「……これじゃ足りないな。うん。よし、何か作ってみるよ」


 「えっ」


 驚いたアヴェリンが立ち上がると、ジュリアンは少し照れたように笑った。


 「ただ期待はしないでほしい。料理は、あまり……得意じゃないんだ」


 そう言いながら、彼は袖をまくって、火をおこし始めた。


 鉄鍋に水を張り、少しばかりの乾燥ハーブを入れる。何かを考え込んでから、パンの端を切って、スープのようなものを作ろうとしているのはわかったが——アヴェリンには、その動きがとてもぎこちなく、けれど一生懸命で。


 手元がおぼつかないくせに、舌を出しながら真面目に匙加減を測ろうとするその姿が、滑稽で可愛らしくて、思わず笑ってしまいそうになる。


 「……ああ、やっぱり変かも」


 ジュリアンがスプーンをかき混ぜながら苦笑すると、アヴェリンは小さく首を振った。


 「いえ……ありがとうございます」


 その横顔を、彼女はそっと見つめた。


 髪に映る炎のゆらめき。まじめで、どこか不器用で、けれど彼女のために何かしようとするその真摯な姿勢。


 ——なんでだろう。たったそれだけのことが、こんなにも心に響くなんて。


 ときめきは、確かにあった。


 声に出せない。触れることもできない。でも、胸の奥で何度も、何度も、小さな鐘の音のように鳴り響いていた。


 やがて、鍋の中のスープがふつふつと音を立てはじめた。


 「……味見、してみる?」


 ジュリアンが木の匙を鍋の中に沈め、そっとすくってアヴェリンの方を向く。器に移す前に、温度を確かめるように息をふきかけるその姿は、どこか子どものように慎重で、思わずくすりと笑ってしまいそうになる。


 「ありがとう、いただきます」


 アヴェリンは両手で受け取り、そっと口をつけた。


 ……塩気が少し強く、ハーブの香りも混ざりすぎていて、正直に言えば決して上手とはいえない味だった。けれど。


 「あたたかくて……おいしいです」


 それは心からの言葉だった。


 ジュリアンは安心したように小さく息をつき、少しだけ表情を和らげる。


 「よかった……材料も技術も時間もないから……ひどいものになってないかって……」


 「そのわりには、丁寧でした」


 「性分だよ。何をやっても、ゆっくりになってしまうんだ」


 彼は照れくさそうに笑い、火を少し弱めた。


 厨房の中には二人きり。夜の静けさの中で、鍋がくつくつと音を立てる。木の机と石の壁の質感。天井の梁にかかる乾燥させた薬草。そのどれもが、アヴェリンにとっては初めて心から落ち着ける空間に思えた。


 ジュリアンが器にスープをよそい、自分の分も用意して椅子に腰掛けた。彼は食器の扱いにも慣れておらず、スプーンがカチンと器にぶつかる音がするたびに、なんとなく肩をすくめている。


 そんな様子に、またひとつアヴェリンの心が温かくなる。


 「王子は……こういうこと、よくなさるんですか?」


 「いや、全然。そもそも厨房に入ることも、ほとんどないからね」


 「なのに、わたしのために?」


 問いかけた自分の声が、少し震えているのに気づいた。ジュリアンは返事をせず、ただ静かにアヴェリンを見つめた。


 目が合った。


 光の少ない厨房の中で、その瞳には確かな温度があった。まっすぐで、曇りのない、彼だけが持つまなざし。


 その視線に、アヴェリンは胸の奥がきゅっと締めつけられるような感覚を覚えた。


 「……気がついたら、動いてた。誰かにそうしてほしかったんじゃないかと思ったんだ。今日の君を見て」


 優しい言葉。強くないのに、なぜか心を打つ。肩にかけられる毛布のような、包まれるような心地。


 「ありがとうございます。……ほんとうに、助かりました」


 そう言った自分の声が、なぜか少しだけ甘くなっていたのを、アヴェリン自身が誰よりも驚いていた。


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