記憶の毒を抱いて
夜になり、天窓に月明かり差し込む謁見の間。広々とした石床に敷かれた赤い絨毯と無数に揺れる蝋の火。その先に立つ一人の男が、彼女の訪れを待っていた。
レオポルド・ヴァレリアンド。ヴァレリアンド王家の第一王子にして、最も王位に近い男。
アヴェリンが扉をくぐったその瞬間、彼は笑った。
「これは……女神の代行者殿。我が謁見の間へよくぞ来てくれた」
その笑顔を見た刹那、アヴェリンの胸に何かが込み上げ、喉の奥で吐き気がせり上がる。
——その顔を、知っている。
あの笑みを。あの目を。あの声を。
「おい、無能の娘」「こんなこともできないのか?」
「父親の威を借るしか能のない女だな」
机に顔を押し付けられ傷ついた頬。背後から掛けられた冷たい水。階段を踏み外した時の、あの笑い声。
記憶の奥底に沈んでいた黒が、今、澄んだ現実として目の前に蘇る。
「……」
吐き気を堪え、顔色が変わらぬよう努めて唇を噛む。足元が震える。だが、下を向いてはいけない。
「第一王子、レオポルド・ヴァレリアンド殿下」
彼女は深く頭を下げ、呼吸を整えて、顔を上げた。今はもう、いじめられていた子供ではない。彼女は今、選ぶ者であり、女神の代行者である。
レオポルドは、にこやかに微笑んだまま、彼女の反応を観察するように視線を細めた。
「随分と立派になったじゃないか。昔とは別人のようだ」
その声は柔らかく、丁寧ですらあった。だが、どこか探るような、距離を測っているような響きがあった。
アヴェリンは答えずに、ただ静かに彼を見返した。
「そんなに睨まれると、怖いな。はは……いや、本当に。もう少し歓迎されるかと思っていたんだが」
まるで冗談のように笑うその顔は、心から楽しんでいるのか、それとも仮面なのか。アヴェリンにはまだ見極められない。
だがその時、レオポルドの背後で控えていた侍女の一人が銀盆を少し落とした。
——カラン。
「……不注意だな。指がついていたぞ」
その瞬間、レオポルドの声が鋭く変わる。笑顔はそのままだったが、目が冷たい刃に変わっていた。
「やり直せ」
侍女は震えながら頭を下げ、言われたとおり銀盆を拭い始める。だが、その手も彼女の背筋も怯えでこわばっていた。
「……あなたは、昔から変わらないのですね」
気づけばアヴェリンの口から、言葉が漏れていた。
レオポルドが眉をほんの僅かに動かした。だがそれも一瞬。
「そうかな。変わったところもあるつもりだったが。……たとえば君に、こうして敬意を払っているところとか」
「……敬意、ですか」
「もちろん、今の君は国王にも等しい立場だからな。払わなければ、我々は……」
レオポルドは言葉を濁し、薄く笑う。
「怖くて震えているとでも? いや、違う。単純に、興味があるんだよ。女神の代行者になった“君”が、何を思ってここに来てくれたのか」
彼は優雅に椅子に腰掛け、片肘をついてアヴェリンを見つめた。
「さあ。君に俺は、どう見えている?」
レオポルドの問いかけは、まるで遊戯の一手を打つような気軽さだった。真意を探ろうとするまなざし。その笑顔の下に、どんな本音が隠れているのか、アヴェリンには測りかねた。
だが――わかるのはただ一つ。
怒りが、煮えたぎっている。
声をかけられた瞬間から、ずっとだ。丁寧な言葉、作られた微笑、己を飾る装飾のような敬意。だが、それらの一つ一つが、アヴェリンには偽善にしか見えなかった。
——この男に、私の何がわかる。
小鳥の骸を教科書に挟まれた日。背中を押された階段の一段目。逃げようとすれば、次に待つは孤立と嘲笑と、父の立場を侮辱する言葉。そういう男だった。レオポルド・ヴァレリアンドは。
アヴェリンの胸に、黒く染み込んだ記憶が怒りと共に蘇り、内側から骨を焼くような熱に変わる。
けれど、それを口にしてはならない。顔に出しても、負けだ。
——私は女神の代行者。選定の権を預かる者。
彼にとって、私の表情一つが判断材料となるのならば、怒りすらも、武器にしなければならない。
アヴェリンは、長いまつげを伏せる。感情を押し殺し、無機質な面持ちで言葉を紡いだ。
「殿下をどう見るかは……今、見定めているところです」
レオポルドの唇が、わずかに笑みの形を深める。
「慎重だな。ずいぶんと」
「当然です。私の判断ひとつが、王国の命運を左右するのですから」
アヴェリンは視線を上げ、まっすぐに彼の双眸を射抜いた。そこには、過去に虐げられた少女の影はなかった。ただ、選定者としての冷ややかな意志があった。
「……そして、殿下もまた。私を試しているのでしょう?」
「はは……流石だ。君の目には、全てが透けて見えてしまうようだ」
笑いながら、レオポルドは椅子から立ち上がった。その動きは優雅で、堂々としていて、まるで自分こそが選定者であるかのようだった。
「さて。ならば私からも一つ、聞こうか。……君にとって、私の命は、価値があると思うかい?」
その問いは、罠のように甘く、棘のように鋭かった。
アヴェリンは答えなかった。ただ、その問いを飲み込み、微笑すら浮かべてこう言った。
「それを決めるのは、私ではなく、女神です」
それは、冷徹な逃げではなかった。断言でもなかった。
ただ、レオポルドという男に対し、自分の感情を利用されまいとするアヴェリンの、強さだった。
レオポルドの笑顔が、ほんの僅かに揺れる。だがすぐに持ち直し、口元だけで言った。
「ふむ……では、楽しみにしているよ。君が、誰を選ぶのか」
その瞬間、控えていた召使が指を滑らせ、グラスを落とした。——カラン。
「……くだらない。ガラスひとつ持てぬ者が、王宮にいるとはな。交代させろ」
怒鳴り声はなかった。だが、冷たい声には有無を言わせぬ威圧が込められていた。召使は蒼白になり、何度も頭を下げながら後ずさる。
アヴェリンはその光景を見ながら、改めて心に刻む。
この男は、変わってなどいない。
変わったふりをしているだけだ。
そして、その仮面が剥がれ落ちる日が来た時、真に裁かれるべき者を、私は選ぶのだ。