風は静かに、剣は鈍く
扉が開いたその先、アヴェリンの視線は自然と彼の姿を探していた。
ジュリアン・ヴァレリアンド。
第三王子――彼女が幼い頃、初めて「王子様」というものに憧れを抱いた相手。
遠くの晩餐会、広い宮廷の影。直接話すこともなく、ただ彼の振る舞いを見て、心の奥でこっそりと胸を焦がした。
けれど、それはほんの夢物語。現実の彼が、今日どう向き合ってくるのか、アヴェリンには分からなかった。
「来てくれて、ありがとう。疲れてはいないか?」
優しい声が、すっと胸に落ちた。
彼は、昔と変わらない――いや、より落ち着きと気遣いを帯びた爽やかな青年になっていた。
「少しだけ。でも、大丈夫です」
「なら良かった。無理だけはしないでくれ。きっと……私達より酷な立場にいるのは君だろうから」
ジュリアンは椅子を引いてアヴェリンを座らせ、自ら紅茶を注いで差し出した。仕草は自然で、飾り気はないが、そこに偽りはなかった。
「本当は、こんなふうに話せる日が来るとは思ってなかったよ。昔から君のことは知っていたけど……」
「私も、王子のこと……いえ、ジュリアン殿下のことは……遠くから見ていました」
「殿下なんて呼ばなくていい。今の君は、僕よりもよほど重いものを背負っている」
彼のまなざしがまっすぐに射抜くようで、それでも柔らかかった。
「……ジュリアン様って、意外でいらっしゃいますね」
ぽつりとアヴェリンがこぼすと、ジュリアンは少しだけ眉を上げた。
「意外?」
「もっと……王子らしく、格式ばった方かと思っておりました。高貴で、近寄りがたくて……」
「はは、昔からそういうのは苦手なんだ。剣を持ってる方が性に合ってる」
冗談めかした口調。緑に囲まれた草原に吹く爽やかな風を思わせる彼の言葉と表情にアヴェリンの心の重さがほんの少し和らいでいく。
「……ジュリアン様は、ご自身が国王になるべきだと思っていらっしゃいますか?」
静かに問うたアヴェリンの声には、揺れる影があった。
ジュリアンは、それに気づいたように、ゆっくりと首を横に振る。
「いや。今はそんな事は考えていないな」
「……なぜ、ですか?」
「私達の誰が選ばれるべきか……そんな事より君に、それだけの決断を背負わせたくないんだ」
どこか寂しげであるが答えに迷いはなく、まっすぐだった。
その言葉の意味が、すぐには呑み込めず、アヴェリンは言葉を失った。
「誰かが生き残ることで、誰かが死ぬ。選ばなかった四人の死は、君の選択になるんだ。そんな役目、君ひとりに押しつけるなんて、本当は間違ってる……と思う」
「……それでも、私は……選ばなければなりません」
「分かってる。でも……僕は、その選択の重さを、少しでも支えたい」
彼の目が、そっとアヴェリンを見つめた。
「たとえ、僕が選ばれなくてもいい。君が最後まで壊れずに、終わりまで立っていられるなら、それでいいんだ」
一瞬、アヴェリンの喉が震えた。
――あなたは、自分の命を欲していない。
――私が誰を選ぶかよりも、私がこの苦しみの中で壊れないことを願っている。
それは、誰よりも優しく、誰よりも残酷な覚悟だった。
「……ジュリアン様は、本当にやさしい方なのですね」
「……これは優しさなのだろうか。ただの卑怯者かもしれない。誰も傷つけずに済ませたいなんて、本当は一番ずるい考えだ」
「いいえ、私は……そのやさしさに、救われました」
そう言って、アヴェリンは初めて小さく笑った。
ジュリアンもまた、柔らかな微笑を浮かべる。
部屋の空気が、ほんの少しだけ、あたたかくなったような気がした。
やがて時間が来て、アヴェリンが席を立つ。
「今日は、ありがとうございました。お話できて……本当に、よかったです」
「こちらこそ。アヴェリン。――どうか、自分の心を忘れないで」
扉が閉まったあとも、アヴェリンの胸には、彼の言葉が静かに残り続けていた。