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赦しの門は閉じたまま


 夜も更け、窓辺にかかる薄いカーテンが風に揺れていた。

 アヴェリンは机に向かい、一枚の羊皮紙に視線を落としていた。記された文字は読み終わって久しい。だが彼女の思考は、いまだ揺れている。


 ジュリアンを救った夜から数日。静寂と重責が、心に鈍く残っていた。


 そのとき、控えめなノック音が部屋に響いた。

 ふと顔を上げる。時刻はもう夜半を過ぎている。侍女であれば用事があれば声をかける。なのに、沈黙のままもう一度、コツ、コツと音がした。


 「……どなた?」


 扉の向こうからの返答はない。警戒を胸に扉へと向かうと、すでに施錠していたはずの鍵が、わずかに緩んでいた。

 誰かが、手ずから開けた形跡。


 ゆっくりと扉を開くと、そこに立っていたのは――


 第一王子、レオポルド・ヴァレリアンドだった。


 「……あなたでしたか」


 アヴェリンの声は冷たく、氷のように硬い。レオポルドはいつものようにふんぞり返ることもせず、視線を落とし、ただ立ち尽くしていた。身じたくも乱れておらず、香水の香りもなく、今日の彼にあるのは**“取り繕う意志の欠片”すらない不安の匂い**だった。


 「……入ってもいいか?」


 その声は、あまりにも小さかった。

 アヴェリンは目を細める。


 「断る理由はありません。けれど、あなたの言葉によっては、お引き取り願うことになるかと」


 静かに扉を開け放ち、彼を迎え入れる。その仕草の丁寧さの裏には、皮肉と怒りが潜んでいた。


 レオポルドは数歩、部屋に踏み入れると、まるで牢に足を踏み入れた囚人のように立ち止まり、ややうつむいて言った。


 「……謝りに来た。アヴェリン」


 その名を彼の口から呼ばれるのは、記憶にある限り初めてだった。

 いつもは「役立たず」だの「愚物の娘」だのと呼ばれていたのに。


 「謝罪、ですか」


 アヴェリンは微笑みながらも、その目は笑っていなかった。

 背筋を伸ばし、机の脇に立ったまま、冷ややかに彼を見下ろす。


 「さて、どの件についてでしょう。投げつけられたトマトの件? 書斎の階段から突き落とされた件? それとも……貴方の取り巻きに“宰相の恵みを受け損ねた出来損ない”と吹聴されたことかしら?」


 レオポルドは、顔をこわばらせた。だがアヴェリンは容赦しなかった。


 「思い出せないほど、たくさん心当たりがあるんでしょう? ……私、意外と執念深いんです」


 その笑みは、痛みを知っている者の復讐に似ていた。


 レオポルドは唇を引き結び、数歩前へ出た。


 「……俺は……あのときは、まだ子どもだった。言い訳にならないのは、分かってる。でも……お前が“代行者”に選ばれてから、ずっと思っていた。俺は、選ばれない。いや――“選ばれないどころか、裁かれる”んじゃないかって」


 ついに、彼の声が震えた。


 「怖いんだ。アヴェリン。俺は……お前に何をされても文句は言えない。だが……それでも……」


 アヴェリンはゆっくりと近づき、目の前まで歩み寄ると、仰ぐように彼を見上げた。

 まるで、昔の自分と立場が逆になったようだった。


 「――“死にたくない”のですね?」


 その一言が、レオポルドの胸を貫いた。

 彼は顔をしかめて、情けないほど小さくうなずいた。


 「俺は王になりたかった。ただ……威厳を、矜持を、高位を見せつけ周りを支配すればと強く振る舞っていただけなんだ。なのに、気づけば引き返せなくなっていて……」


 アヴェリンは、しばし彼の言葉を黙って聞いていた。

 だがやがて、静かに言った。


 「それでも、貴方は選べた。私を踏みつけにすることも、庇うことも」


 レオポルドは目を伏せた。


 「そして私は、選ばれた。貴方を“(ゆる)す”ことも、“裁く”ことも、私の一言で決まる。ええ、何て皮肉な神の采配でしょうね」


 その言葉の重みを、レオポルドは理解していた。彼の背が少しだけ縮んだように見えた。


 「どうしたら……許してもらえる……?」


 その声は、かつてアヴェリンが泣きながら投げかけた問いに似ていた。


 「“どうすれば許してもらえるの?”って、私も昔、そう訊いたことがありました」


 アヴェリンは視線を彼から外し、窓辺に目をやる。月が静かに笑っている。


 「けれど、誰も教えてくれなかった。あなたも、他の誰も。だから私、自分で決めることにしたんです。“赦すに値する者”と“そうでない者”を、選び取る力が今の私にはあるので」


 沈黙が落ちる。


 レオポルドは、何も言い返せなかった。

 もはや立場が、権力が、血筋が彼を守ってはくれない。


 やがてアヴェリンは、ふっと笑った。


 「安心してください。まだ貴方を“裁く”と決めたわけではありません。でも、最後に選ばれることもないでしょうけど」


 「……っ」


 その一言は、王子としての誇りを、断崖から突き落とすに等しかった。


 「それでも……謝りに来てくれたことだけは、記憶に留めておきます。貴方のためではなく、私の判断のために」


 アヴェリンはもう、彼を見ていなかった。

 レオポルドは、唇を噛み、深く頭を下げると、何も言わずに踵を返した。


 静かに扉が閉まり、また夜が戻ってくる。

 アヴェリンは、心の奥に燃える怒りが、少しだけ鎮まったことに気づいていた。


 それでも――


 許したわけではない。忘れたわけでもない。


 次に選ぶのは誰か。

 その問いが、彼女の胸に再び重くのしかかる。


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