君の涙になりたくない
夜会を翌日に控えた静かな夜。アヴェリンは薄暗い寝室で、机に頬杖をつきながら、窓の外の月を見上げていた。
エルリックの死──。
その理由を何度も考えた。答えの出ない問いを、まるで永遠のパズルのように、心の中で繰り返し並べ替える。
「気が弱い彼には……この儀式が、あまりにも重すぎたのかもしれない」
選ばれなければ死ぬ。拒む事もできない。
自分の命と引き換えに、誰かを選ぶ儀式。
確かに、そんな極限に置かれれば、誰だって心を壊すだろう。
けれど……それだけでは説明がつかない。彼はそんな意気地なしじゃない……と自分の的外れな考えを取り消す。
――では、なぜあんなにも冷たく接したのか?
あの日、投げられたトマト。怒鳴られた声。目も合わせようとしなかった彼。
それらすべてが――今になって、ようやく意味を持ちはじめる。
「……彼は、私に嫌われようとしていたんだ」
アヴェリンの声が、静かな部屋に落ちる。胸が締めつけられる。
彼は知っていたのだ、この儀式がどう終わるかを。最後に自分が選ばれなかった時、どれほど私が苦しむかを。
「私が彼を選ばなかったとき、少しでも……罪悪感が軽くなるように」
冷たく突き放せば、嫌われれば、私が選ばなかった時、少しでも気持ちが楽になる。
自らの選択を正当化できるように、彼はあえて悪者を演じた。
アヴェリンは唇を震わせ、膝に指をぎゅっと押し当てた。
「……どうして、そんなことを……」
涙は出なかった。ただ、深く、静かに心が沈んでいく。
――知りたい。彼の真意を、きちんと、言葉で確かめたい。
その思いが胸に芽生えたとき、アヴェリンは決意を固めて立ち上がる。
「父上に……なら……その真意が……」
そうして彼女は、父である宰相のもとへと歩み出す。
宰相の書斎には、夜会を明日に控えた重苦しい空気が漂っていた。重厚な書棚の間から漏れる蝋燭の灯の下、アヴェリンは父――宰相ヴァレリアンド卿の机の前に跪いていた。
「父上……お願いがございます」
アヴェリンの声は震えていた。だがその瞳には、決意の色が宿っている。
宰相は書類から視線を上げ、ゆったりといすから立ち上がった。学問と謀略を極めた男の佇まいは、まるで氷山のように冷たく、しかしどこか慈愛を含んでいる。
「何かね、アヴェリン。君の事だ……儀式の事ではないね……エルリックの件を詳しく知りたいといったところか」
宰相は長い指先で姫の顎を示しつつ、問いかける。
アヴェリンは深く息を吸い、静かに口を開いた。
「エルリック殿下が──なぜあんな最期を選んだのか、父上の読心と推論で察せられたなら、お聞かせ願いたいのです」
宰相はひと息ついてから、遠くを見るように視線を泳がせた。
「エルリックは……優秀だった。勉学も参謀としてもまるで完璧に思えた。私は彼に、自らの全てを授けようと考えていたほどだ」
言葉は穏やかだが、その背後には国一番の知性と、深い父性愛がにじんでいる。
「だが、彼の心は常に苦悶していた。君が“女神の代行者”として選ばれた日から、彼は胸の奥で懊悩を募らせていた。君に対して冷たくしたのは──罪悪感を与えまいとする最期の優しさだったのだろう」
宰相はそっと手を止め、声を落とした。
「真に言いたいことは山ほどある。しかし……儀式が終わるまでは、君の心に更なる動揺を与えられぬ」
アヴェリンは抑えきれず、詰め寄る。
「――でも、私は知る必要があります! 父上の知恵と読心で得た真実を、いま聞かせてくださいませ!」
そのとき、アヴェリンの手が自然と組まれ、指先が震えながらもはっきりと呪文を紡いだ。
言霊の律――
強く命じる声とともに、父の眉間に微かな光が走る。宰相は息を呑み、アヴェリンと視線を合わせたまま頷くしかなかった。
「……分かった。エルリックが選んだのは、君の苦悩を少しでも無くす為の最終手段だよ。悔恨を刻ませまいという、最後の愛情だ」
それを聞きアヴェリンは分かりやすく動揺する。
「彼は、自分の存在が君にとって重荷になることを考えた。いくら嫌われようとも君の選択で命を落とせば少なからず心の呪縛になるだろう。自ら命を落とせば君はエルリックを思い心を痛めずに済む」
アヴェリンはその言葉を震える声で反芻する。
「──いいえ、そんなことは……」
宰相は静かに続けた。
「彼は王子として期待される重圧の中で、君を幸せにできない自分を責めていた。私はそれを知りながら、何もしてあげる事はできなかった。彼の苦悩は深く、誰にも打ち明けることなく、最期の決断を下したのだ」
アヴェリンの瞳から大粒の涙が零れ落ちる。止めようとも止まらない。
体中の水分がなくなるまで泣き続けてしまう……それほどまでの後悔と悲しみが押し寄せる。
父はそっとティンパニのように優しく背をさすり、続けた。
(ああ、エルリック……あなたの残酷なまでに深い優しさに……私は何度救われるのでしょう……)
「だが、君はもう自分を責めてはならない。彼の願いはただ一つ――君が笑顔であることだったのだから」
深い静寂の中で、アヴェリンは涙を拭い、自らに誓った。
――私は、彼が願った通り、これから笑顔を忘れない。涙はもう流さない――
――女神の代行者として真に次期国王を選び抜く事に臨み――
――そして、この想いを胸に――選択の先へ進むのだと――