死者を争う事なかれ
日は昇ったというのに、アヴェリンの部屋はまだ夜のように暗かった。厚手のカーテンが光を拒み、空気は冷たく淀んでいる。昨日、エルリックを“選んだ”その決断が、胸の奥を鈍く締めつけ続けていた。
「……今日は……何も、したくない……」
誰に向けるでもなく、唇からこぼれたかすかな声。けれどそのかすれた呟きさえ、彼の名を汚すようで罪悪感に襲われた。
侍女たちは何度も心配して扉の外から声をかけたが、アヴェリンは返事をする気になれなかった。差し入れられた食事も、手つかずのまま冷え切っていく。
喉が痛い。胸も、頭も、まぶたの奥も、全部が痛い。
けれど次の日──
「……外に出ろって……そう言われても……」
重たい足を引きずりながら、アヴェリンは王宮の中庭に出た。
従者の人が「飲まず食わずで塞ぎ込んでいては体に触る。食事をしたら外の空気を吸ってきて下さい」と半ば無理矢理外に出るように言われたのだ。
どこかを歩くでもなく、ただ無作為に足を進めていく。花壇も噴水も、何もかもが灰色に見える。
王宮の中庭に面した大理石の回廊。不意にその静寂を破るように、声がぶつかり合った。
「お前には理解できまい、ジュリアン。選ばれるとはどういうことか。選ばれなければ死ぬという意味が」
レオポルドの声には嘲るような棘が含まれていた。
「ですが、兄上。その口調――エルリックの死を、まるで喜んでいるように聞こえます」
「奴の死を喜んでいるわけではない。この状況にだ。一人死んだ。つまり、忌々しい選定が、一回分減った。俺たちは一歩、生き延びる確率を上げた。それだけだ」
「………今の言葉は聞き捨てなりません。兄上といえど……怒りの刃を向けかねない」
ジュリアンはまるで獲物を狙う獣のようにギロリと目を細める。
「綺麗事を並べるな。お前も内心では安堵したはずだ。あいつが勝手に死んでくれて、選ばれずに済んだと」
「黙れ!!!」
ジュリアンの声が初めて、怒りで震えた。
「……エルリックがなぜ自ら死んだのか! どれほど苦しかったのか、兄上は考えたことすらないのか!」
「考える必要があるのか? 弱い奴が勝手に折れただけだ。そんなものに情けをかけてどうする」
その瞬間、アヴェリンの中で何かが弾けた。
「やめてください!!!」
回廊に怒声が響いた。二人の王子が振り向いた先に、アヴェリンがいた。泣きはらした目が怒りに燃え、細い肩を震わせていた。
「……あの方を、エルリック殿下を、儀式の駒のように語らないで」
レオポルドが鼻を鳴らした。
「駒? そんな高尚なもんじゃないさ。最初から捨て石だった」
その言葉に、アヴェリンはゆっくりと歩を進めた。まるで処刑人のように冷たい足取りで。
「レオポルド殿下。私はあなたに、どれだけ傷つけられても、決して声を荒げませんでした。侮辱されても、蔑まれても、仕方がないと思ってきました。けれど――」
彼女の声は怒りに震え、ひと際強くなった。
「けれど、死者を、あの人を、そんな風に侮辱することだけは、絶対に許せません!」
彼女の目に、初めて女神の炎のような光が宿った。
「あなたがそのような人間なら――どうか、二度と私の前で“兄”の名を語らないでください。あなたは、王族どころか、人としても最低です」
レオポルドが一歩後ずさる。その瞳に、ほんの一瞬、恐れが宿った。
レオポルドが驚いたように口を開ける。
「は……? な、何だお前、——」
「彼は弱くない……震えながらも、勇気を出して私に声をかけてくれた…………」
アヴェリンはまたエルリックとの記憶を思い出しその場で泣き出してしまった。
ジュリアンが目を見開く。そして、アヴェリンの背中にそっと寄り添うように一歩前へ出た。
「兄上……あなたの言葉は、死人への冒涜です。例えそれが本心でも、口にする資格など、例え家族にもありません」
「ふん……女神の前だからと格好をつけおって」
レオポルドは舌打ちすると、マントを翻して立ち去った。だがその背は、どこか乱れていた。
ジュリアンは、しばらく黙ったままアヴェリンを見つめていた。彼女がその視線に気づき、少しだけ俯く。
「……ごめんなさい、取り乱して……」
「……いや。……ありがとう、弟の為に怒ってくれて」
静かにそう言ったジュリアンの目は、どこまでも優しかった。
その後、アヴェリンはそっと空を見上げる。いつの間にか雲が晴れ、柔らかな陽が王宮に差していた。
でもその光は、彼女の心を温めはしなかった。
あの白い棺の面影が、また、胸を締めつけていたから。