最初のキス最後のキス
「誰かっ……! 誰か早く来て……っ!」
喉が裂けるほど叫ぶ。肺が痛い。胸が潰れそうに苦しい。
それでも、吊るされた少年はびくともせず、ゆらりと空中に揺れていた。
「エルリック、だめ……だめ……!」
駆け寄り、足元を抱え込むように手をかける。けれど、アヴェリンの細腕ではその体を支えることすらできなかった。
「起きて……目を開けて、お願い……!」
腕を組む。言葉に、神の力を乗せる。
「命じます。起きて。目を開けて。目を……開けなさい!」
涙がぽろぽろと零れ落ちる。
命令は、何度でも繰り返された。祈りのように、呪いのように。
「命じます……お願い……!」
それでも、彼は動かない。
返事はない。目も、開かない。
アヴェリンの足元がぐらついた。頭の中が白く染まっていく。
そのときだった。
「な、何事ですかっ!」
剣を下げた近衛兵が駆け込んでくる。騒ぎを聞きつけ、偶然通りがかったのだろう。
状況を察するより早く、彼は剣を抜き、エルリックの首を絞めるロープを一閃した。
どさり。
体が絨毯の上に落ちる。アヴェリンは飛びかかるように駆け寄り、その身を抱きしめると、なりふり構わずキスをした。
「エルリック……っ!」
血の気を失った顔。動かない胸。冷たくなりかけた手。
「だめ、だめよ、そんなの……!」
力なく抱え込み、彼の唇に口づける。
震える唇を重ね、再び――そして、また。
「お願い……『聖女の吻』……発動して……お願い、神様……!」
アヴェリンの涙がエルリックの頬に落ちる。
けれど、女神の力は何も起こさない。息の気配も、心臓の鼓動も、感じられない。
「お願い……エルリック……エルリック……っ!」
何度も、何度も口づける。
初めてのキスだった。そんな事どうでもよかった。むしろ考えてもいなかった。エルリックが目を開けてくれるならキスでも処女でも何でも捧げる。
こんな形で使いたかった力じゃない。
こんな……別れの道具みたいに、使いたかったわけじゃないのに。
「やめろ、アヴェリン!」
声がした。振り返ったその先に、ケイランがいた。
焦った顔。一筋の汗と噛み締めている奥歯。いつも飄々として、とぼけた風な彼には似つかわしくない、必死の表情だった。
「……ケイラン殿下………エ……エルリック殿下が……」
顔を上げたアヴェリンの頬を、涙が伝う。
「医者を呼べ! 父上達にも知らせるんだ、急げ!」
ケイランの怒声が広間に響いた。普段はどこか掴みどころのない、彼の声が、こんなにも鋭く、怒気を含んで響くのをアヴェリンは初めて聞いた。
近衛兵が慌てて駆け出していく。残されたのは、アヴェリンと、腕の中に倒れるエルリック、そして床に落ちた涙の跡だけだった。
「くそっ……どうして、こんなことに……!」
ケイランは唇を噛み、悔しげに拳を握りしめながら医者を呼びに廊下を走る。
アヴェリンは何も言えなかった。ただ、目の前の少年の頬に指を添え、何度も名前を呼ぶ。
「エルリック……お願い……まだ、行かないで……っ」
小さく震えるその声は、誰にも届かないようで、それでも諦められずに祈るように続けられる。
アヴェリンは何度もその名を呼んだ。
けれど、奇跡は起こらなかった。
唇に触れる冷たさは増していくばかりで、胸に耳を当てても、もはや何の音も届かない。
震える指先が、彼の頬をなぞる。優しい、けれどもう温もりの戻らないその輪郭を。
「どうして、……こんな……」
答えはない。これからも、永遠に。
医者を連れてきたケイランが背後でゆっくりと膝をついた。その目に浮かぶものを、アヴェリンは見なかった。ただ、腕の中の少年から目を離せずにいた。
あんなに臆病で、あんなに優しい彼が――
どうして、こんなに静かに、簡単にいなくなってしまうの?
アヴェリンの頬を伝う涙が、エルリックの胸元へ落ちる。
「……ごめんなさい。私、あなたのこと……」
言葉はそこで、途切れた。
やがて足音が複数、扉の向こうに迫ってくる。
それでも、アヴェリンはその場から動かなかった。
ただ、少年を抱いたまま、まるで時が止まったように、静かに嗚咽を漏らし続けた。