その扉の向こうに君はいなかった
陽が高く昇る昼下がり、アヴェリンは自室の窓を細く開け、外の光をぼんやりと見つめていた。淡い金色が敷地の木々を照らし、小鳥たちが囀る平穏な光景。しかし、その心は重く沈んでいた。
明日、ひとりの王子を脱落させなければならない――その事実が、胸の奥を冷たく締めつける。
彼女は椅子に腰掛け、手元の書類に目を通していたが、心ここにあらずといった様子だった。
それに加えて昨日のエルリックの件。
洗ったはずなのに、トマトの酸っぱい匂いがまだ残っている気がする。
(……なぜ、あんなことを)
思い出すたびに胸がぎゅっと締めつけられる。エルリックの怒鳴り声、無言の横顔、そして投げられたトマト。
「…………」
その時扉が静かにノックされた。
「やあ、お邪魔しても構わないかな?」
不意にドアの外から声がした。柔らかく、どこか親しげな男の声。
「……ケイラン殿下?」
扉を開けると、第二王子ケイラン・ヴァレリアンドが、微笑を湛えて立っていた。片手には包みがあり、もう一方の手は気軽に腰へと添えられている。
「昼食、持ってきたんだけど……よかったら一緒にどう?」
「えっ……そ、そんな……殿下がわざわざ……」
「ケイランでいいよ。そろそろ、他人行儀はやめてくれるかな?」
その言葉にアヴェリンは頬を赤らめ、わずかにうつむいた。
彼は部屋に入り、手際よく小さな卓上に食事を広げていく。焼きたてのパンと野菜のスープ、白身魚のムニエル。どれも厨房の一流の腕がうかがえる香りだった。
「……おいしそう」
「だろう? 実はちょっとだけ、選ぶの手伝ったんだ」
「殿下が……?」
「気になる人のことは、少しでも知っておきたいからね」
その言葉に、アヴェリンの手がぴたりと止まった。思わずケイランを見つめると、彼は穏やかな目で彼女を見つめ返していた。
「ふふ、そんな顔もするんだね……」
そう言って目を細めた彼の笑みは、どこか切なげでもあり、やさしくもあった。
(ケイラン殿下は……私に、好意を?)
けれど、今はその余韻に浸っている場合ではない。アヴェリンはそっと視線を落とし、重い声で口を開いた。
「……明日のことで、少し……気持ちが沈んでいて」
「やっぱり。無理もないよね。君に比べたら俺達の方が随分楽な立場にあるよ
「ええ……それに……一番気がかりなのは、エルリック殿下で……明日1人を決めなければいけないのに彼とはまともに話せてないんです……」
ケイランの表情が少しだけ険しくなる。そして、目を細めたままゆっくりと口を開いた。
「……エルリックを選ぼうとは思わないの?」
「彼の考えがわかるまでは……」
「俺は話さないあいつが悪いと思うけどなあ……アヴェリンからは話しかけたんでしょ?」
「はい。今朝も話しかけたんですけど……怒鳴られてしまって」
「……怒鳴った、って? エルリックが?」
ケイランは信じられないというように眉をひそめた。
「あいつは兄弟の中で、1番剣の才がなくて5人の中で唯一気が弱い……でも……一番優しいやつだと俺は思う。争いを嫌って、すぐに下がってしまう。あいつが感情的に怒鳴るなんて信じられないな」
アヴェリンはその言葉に、小さく頷いた。
「私も……知っています。幼い時もエルリック殿下はいつも優しくて。泣いてる私に彼だけが寄り添ってくれていました」
しばらく沈黙が落ちたあと、ケイランはゆっくりと立ち上がった。
「……そっか。僕もその時に仲良くなりたかったな………違うか……優しいエルリックだから泣いてる君に気づけたんだね」
「私……彼と話したい……彼をもっと知りたい」
アヴェリンは決意を込めて言った。ケイランは少し寂しそうな笑みを浮かべたが、すぐにそれを隠すように微笑んだ。
「行っておいで。君の思いが、エルリックに届くといいね。」
アヴェリンははっとして顔を上げる。
「……はい。ありがとうございます、ケイラン殿下」
「ケイラン、だよ?」
その訂正に、アヴェリンは小さく微笑んで、立ち上がった。そして軽い足取りでエルリックの部屋へと向かう。心には希望が満ちていた。
***
希望に胸を満たされ、アヴェリンは石畳の廊下を軽やかに駆けていた。
(今なら話せる。きっと、誤解だった。エルリック殿下は……優しい人だから)
陽光が窓から差し込み、足元に影を落とす。そのすべてが、彼女の背中を押しているようだった。
優しいエルリック殿下の真意がわかるなら、冷たくされた事も、怒鳴られた事も、トマトを投げつけられた事すらどうでもいい。
顔を見て、お互いの事を話し合いたい。足の歩幅が大きくなる。息が弾む。
(今回は絶対に引かない。何度無視されても、どんなに怒鳴られても、トマトを何個投げつけられてもエルリック殿下が話てくれるまで絶対諦めないんだから)
やがて目的の部屋の前に辿り着く。息を整え、扉に手をかける。
(大丈夫。私は、彼と向き合いたいだけ――)
扉を開けた。
その瞬間、世界が音を失った。
窓辺の天井梁にかけられた細いロープ。
黒髪が風にそよぎ、光の中で輪郭を滲ませていた。
「…………え?」
喉の奥から、かすれた声が漏れた。
アヴェリンの膝が、がくりと折れる。目を疑っても、現実は変わらなかった。
「――……ッ!」
息が詰まる。胸が締めつけられる。体中の毛穴から脂汗が出てくるのがわかる。さっきまで確かに感じていた希望が、音を立てて崩れ去っていく。
「……っ、あ……」
天井から吊るされたロープ。揺れる足先。
その先にいたのは――まぎれもなく――静かに、宙を揺れるエルリックだった。