溢れたのは果汁か涙か
エルリックを探して、もうどれくらい経っただろうか。
控えの間にも中庭にも、書庫にもいなかった。神殿の裏廊にも厨房にも姿はなく、使用人たちも「今日は見かけていません」と首を横に振るばかりだった。
(いったい、どこに……?)
アヴェリンはそっとため息をつき、廊下の窓辺に手をかけた。すでに日は傾き、空は紫色に染まりつつある。
あきらめかけて踵を返したそのとき、視界の端に、柱の陰からぬるりと出てくる細い人影が見えた。
(あれは――!)
咄嗟に身を隠して様子を伺う。黒髪に控えめな銀飾り、深緑の上衣。間違いない。第四王子、エルリック・ヴァレリアンドだった。
だが、その姿はどこか様子がおかしかった。周囲をきょろきょろとうかがい、背中を丸めて廊下の端をこそこそと歩いている。まるで衛兵に追われる悪戯小僧のようだった。
(……なにをしてるの?)
思わず声をかけようとして、アヴェリンはそっと足を踏み出した。
「エルリック殿下?」
ピクリと肩が跳ねる。だが振り返ることなく、エルリックは足早に歩き出した。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
アヴェリンは慌てて追いすがる。狭い廊下に靴音が響いた。
「あなたに少し、お話が……! 今朝からずっと探していて――」
無視だった。
「どうしてそんなに急いで……? 私、なにか……」
それでもエルリックは立ち止まらず、彼女の言葉をすべてかき消すように、黙々と足を進める。後ろ姿には普段の陰のある静けさではなく、なにか――焦りのような、拒絶のような気配が滲んでいた。
「……どうして、そんなに……避けるんですか……」
そう問いかけた瞬間だった。
「……付きまとうな!」
突き刺すような怒声が、廊下に響いた。
アヴェリンは足を止めた。
エルリックが振り返っていた。目は伏せられたままだったが、表情には確かな苛立ちと、怒りがあった。どこか――怯えにも似た色が混ざっていた。
「……っ」
エルリックに怒鳴られたのは初めてだった。そもそも、彼が感情をあらわにしたところなど一度も見たことがない。
それでも、アヴェリンは引き下がらなかった。
「待ってください……!」
彼の背中へ再び歩を進める。エルリックは顔を背け、何も言わずに足を速めた。アヴェリンもその背を追った。
(どうして……どうしてこんなに拒絶されなければならないの?)
呼吸が少しずつ荒くなる。けれど止まれなかった。彼の本当の気持ちが知りたかった。こんなにも突然、冷たくなる理由を知りたかった。
やがて彼は、痺れを切らしたように扉を開け放ち、中へと入った。
そこは厨房だった。
アヴェリンは立ち止まる。冷たい空気の中に、ほんのりと残る香草の匂い。
厨房内は今、大忙しだろう、あんなところでエルリックと談笑するわけにはいかないと、厨房の外で彼が出てくるのを待つ事にした。
(……空腹で機嫌が悪かったのかな?)
ふと、そんな馬鹿げた想像が浮かんだ。追い詰められているのは自分なのに、なぜか彼の方が追い詰められているように思えた。お腹が膨れれば少しは話を聞いてもらえるだろうか、などと考えている…………そのときだった。
「おい」
低い声が背後から投げかけられた。思わず振り返る。
その瞬間、何かが飛んできた。
ぐしゃっ――
柔らかく、冷たい感触が顔面を打つ。頬を濡らし、髪を汚し、鼻に甘酸っぱい香りが届く。
――投げられたのはトマトだった。
呆然としたまま、アヴェリンは固まった。
まるで昔と同じだった。幼い日のあの午後、レオポルドにトマトを投げつけられたあの日。
そして、赤い汁の混じる頬に、ひんやりとした布が触れたのを思い出す。小さな手が差し出した、白いハンカチ。
それを差し出してくれた人は今、目の前で床に落ちた赤い塊と自分を無言で見つめている。
彼の表情には怒りとも、悲しみともつかない歪みがあった。
アヴェリンはただ、ぽたぽたと頬を伝う液体を指で拭う。涙が混じったその赤は、どこか血のようにさえ見えた。
トマトの果汁に混じった赤い涙。
それが何を意味していたのか、その場ではまだわからなかった。
だが、確かにあの瞬間――アヴェリンの胸の奥で何かが、静かに、軋んだ。