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月下の微笑は血に濡れて


 殿の窓辺に、夕暮れの風が吹き込んでいた。


 女神の代行者として選ばれてからというもの、アヴェリンの生活は一変した。誰もが彼女にひざまずき、過剰な敬意と、時に恐怖さえ含んだまなざしを向ける。人々の声が「お言葉を」「ご判断を」とひれ伏すたび、そのたびにアヴェリンの心はわずかに冷えていくのだった。


 静かな回廊を歩いていると、胸の奥に沈んでいた古い傷が、ふと疼いた。


 (また、あの夢……)


 昨夜も、例の夢を見た。口を塞がれ、引き倒され、頬を打たれたあの夜。月の光が残酷なほど澄んでいて、地面の砂さえも凍りついているように感じた、恐怖の記憶。


 それでも――最後に聞こえたのは、あの人の声だった。


 ――「おやおや。王都の庭園は、こんな夜更けに獣まで飼うようになったのですね?」――



 あのとき彼が来なければ、自分は、もうこの世にいなかったかもしれない。いや、きっと、いなかった。


 アヴェリンは足を止め、神殿の柱にもたれた。


 (あの夜、私を助けてくれたのは――)


 手のひらを見つめる。震えていた小さな指。震えていた心。


 そして、確かにそこにあった、ひとつの温もり。


 彼の声、彼の腕、彼の――冗談めいた、けれど不思議と安心する口ぶり。


 彼の名を心の中で呼んだ瞬間、記憶が鮮やかに色づき、アヴェリンの視界をすべて過去へと塗り替えていった。


 風が吹いた。春先の風ではない。あの夜、あの庭で――

 すべてが変わった、三ヶ月前の夜の風だ。



***



夜の宮廷は、絹の帳のように静まり返っていた。


 宰相の娘であるアヴェリンは、神殿での勉学を終えて帰る途中だった。侍女の姿は見当たらない。ほんの少し、一人になりたくて遠回りを選んだのだ。季節は春だというのに、夜風が妙に冷たく、首元を撫でるたびに嫌な予感が背筋を這い上がっていった。


 そしてそれは、すぐに現実となった。


 中庭を横切ろうとしたその時、木陰から黒い影が躍り出た。アヴェリンは叫びかけたが、その前に腕を掴まれ、口を塞がれる。悲鳴は霧のように喉で溶け、声にならなかった。


 「……ッ、はな……して……っ!」


 抵抗した。だが相手の腕は異様に太く、男だとすぐにわかる力だった。顔を覆面で隠していたが、軍の訓練を受けている者であることは動きで察せられた。彼女の体は軽々と抱え上げられ、暗がりの茂みに連れて行かれた。


 「このまま静かにしていろ。命までは取らねぇ。だが、言うことを聞かなきゃ……」


 ざらついた声が耳元で囁く。アヴェリンは身を捩り、相手の顔をひっかこうとした。だが、それが逆鱗に触れたのか、男は彼女の頬を荒々しく殴りつけた。


 「ッ――!」


 視界が白く染まる。顔が火照り、涙が滲む。耳がじんじんと痛む中、男の指が首元にかかるのがわかった。服を引き裂かれそうになったが恐怖で声がでない。アヴェリンは心の中で叫ぶ事しかできなかった。


 「誰か……! 助けて……っ!」


 その瞬間だった。


 「おやおや。王都の庭園は、こんな夜更けに獣まで飼うようになったのですね?」


 どこか気の抜けた、落ち着いた青年の声がした。男がはっと顔を上げた次の瞬間――乾いた音が響いた。


 何かが風を切る音と共に、男の手から力が抜けた。アヴェリンが地面に崩れ落ちると同時に、男は呻き声を上げて数歩、後退した。


 「て、てめぇ……何者だッ!」


 「僕に自己紹介を求めるなんて、この国の者じゃないようですね。第五王子、マウロ・ヴァレリアンドですよ」


 涼やかな声音の主が、月明かりの中から現れた。手に持つのは、王族の儀礼剣。それがすでに鞘から半分抜かれていた。


 「可憐な乙女に手をあげるなんて……僕が司法なら残念ながら百回は死刑です。が僕の法ではあなたを裁けない………降伏されるか、あるいは」


 そこで言葉を切り、マウロは小さく剣を振った。軽やかな動作だったが、その動きに男は本能的な恐怖を覚えたのだろう、背を向けて走り出そうとした。


 「逃がしませんよ」


 次の瞬間、剣が地を滑るように男の足をかすめた。絶妙な力加減で腱を外され、男は膝をついた。痛みに悲鳴を上げた彼にマウロは近づき、無言で後頭部を鞘で叩きつけた。男の体ががくりと崩れ落ちる。


 「……お見苦しい者をお見せしてしまい申し訳ございません。お怪我は?」


 マウロが静かに膝をつき、アヴェリンに顔を向けた。


 アヴェリンは、震えていた。顔には痣ができ、服は乱れ、唇は血で濡れている。全身がまだ恐怖の余韻に囚われていて、声が出せなかった。


 「……私……っ」


 「無理に話さなくて結構です。僕は聞くより話してる方が好きな、お喋り王子なので」


 彼の声は不思議なほどに穏やかだった。それがかえって、アヴェリンの涙腺を刺激する。


 「……こ、わかった……こわかった……っ……!」


 マウロはそっと彼女の肩を抱き、立ち上がらせた。乱れた髪を風から庇うようにして歩き出す。


 「こんな形であなたに触れるとは……賊の罰を99回の死刑に減刑してあげないと」


 身も凍るような恐怖で、押しつぶされそうだったアヴェリンの心が、その冗談でわずかに軽くなった。


 衛兵に通報し、犯人はすぐに拘束された。外部の刺客だったという噂が立ったが、真相は今も不明のままだ。


 アヴェリンはまだ混乱の中にいた。マウロの行動は、自分に対する「興味」なのか、それとも「責務」なのか。わからないまま、時だけが過ぎていった。


 そして三ヶ月後――彼女は女神の代行者に選ばれた。


 神殿の鐘の音を聞いたとき、アヴェリンの脳裏に浮かんだのは、あの夜、月の下でそっと彼女を抱き起こした青年の声だった。

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