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魔法使いと吸血少女

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 どこからどう見ても少女であったその人物は、口元を血で汚し、静かに佇んでいた。まるで食事を終えた後のような、満足感と疲労感を同時に表現したような表情を浮かべ、後片付けをすべきそれらを見下ろしながら面倒くさそうに目を細める。

 その人物は、自分とは違う。血で汚れた口元が歪み、けれど、上品に笑うその顔には、殺人鬼としての風格が乗っている。きっと彼女は人を殺した。口元の血は彼女のものではなく、今は何かと呼ばれてしまっている誰かのものだ。

 噛み砕いて咀嚼したのか、あるいは、血だけを吸ったのか。ともかく、彼女は誰かを殺し、その血で汚れた。


「お前には。興味がない」


 その人物が言う。殺人鬼が人間に興味を持つとは思えないが、ともかく、私は殺されずに済むらしい。

 いや、そんなことを喜んではいけない。私は彼女を殺しにきたのだ。なにしろ、私が彼女に奪われたものは、もう戻らないのだから。

 返してもらえないのなら、彼女から同じものを奪うしかない。私は懐に忍ばせたナイフを手に、彼女を見据える。


「お前には。興味がある」


 私が放つ言葉に反応し、彼女がこちらに目をやった。そして、その目を見たとき、私は自分の意思とは関係なく動く体に違和感を感じ、気付いたときには自分の体から血しぶきが上がる瞬間を目に映していた。



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 図書館に引きこもる魔法使い様は、多くの人類が家に引きこもる場合と同じように、ソファに倒れこんで寝言を呟いている。普段から運動もしないで本ばかり読んでいるせいで、見る人が見れば十代後半くらいの女性の形をしたクッションのようだ。

 やわらかそうなその肌と少女のようなあどけない、一点だけインクが付いている寝顔を見ていると、女性である自分でさえ間違いを犯しそうになる。そんな雰囲気が彼女の姿に絡み付いていて、まるで甘い匂いを放っているような錯覚に陥る。

 彼女の呼吸がだんだん遅くなっていくように感じた。むしろこれは、私の感覚が早くなっているのかもしれない。

 動悸がする。心音が強い。なぜだか分からないが、切り裂きジャックとしての『僕』が女性に対してよくない感情を抱いたのと似ている。

 元ロンドンの殺人鬼であった『僕』は、母親以外の女性に対して嫌悪感を抱いていた。それが原因か、『私』になった途端、女性に対しての好意が強く押し出されているようだ。

 自分の心音がものすごく強く感じる。元々、この体は自分の体ではない。私が自分の体として振舞うこのたんぱく質の塊に慣れていないのかもしれない。こういった違和感は特に精神に響くのだろう。

 彼女の寝顔を見ていただけで、時間の進む速度が低下して行く。やがて時が止まってしまうのではないかと、私は軽く背筋が冷えていくのを感じた。


「で、起こさないようにと思ってやった行為が、この結果になったのね……」

 パチュリーは私の現在の状況を見てため息をついた。客観的に見れば、確かに私はとても理解不能な行動に出たのだろう。

 まず、彼女の体にかけた毛布。これについては、一般的な解釈をする頭を持った人物であるならば、彼女が風邪を引かないようにとの配慮によるものだと分かる。問題はそこではない。

 現状を簡単に説明すると、本棚が一列、ドミノ倒しのような格好で倒れていて、その道中には元々本棚に収まっていた何百という本が散らばっている。補足として、その一列の本棚の一番手前、ドミノ倒しの最初の一枚の手前側に存在するテーブルの上にも本が散乱し、パチュリーが眠っていたソファがテーブルのすぐ横に存在する。ソファとテーブル、倒れた本棚とテーブルをそれぞれ直線で結ぶと、ちょうどテーブルの地点で直角に混じるような配置になっている。

 いや、こんな配置の説明などより、現在の状況に至るまでにどういう経緯を辿ったのかが問題だろう。

 私はパチュリーが風邪を引かないよう、毛布をかけてやることにした。だが、彼女が起きてしまっては意味が無いため、余計な刺激を与えないように注意をしながらそれを行ったのだ。

 問題は、すぐ近くに存在したテーブルと、そこに山のように積み上げられた本に気付きながらも、注意を払うのを忘れてしまったということだ。

 毛布を彼女にかける動作のどこかの時点で、そのテーブルおよび積み上げられた本棚に腰が接触してしまったらしく、その本が崩れ出した。それでは大きな音が鳴ってしまうと思った私は、急いでその本を支えるために倒れそうな本に手を伸ばす。すると、テーブルの足に自分の足が引っかかり、バランスを崩した私は本棚に倒れこみ、以降、説明は控えるが、ともかく本棚が倒れてドミノ倒しになってしまったのだ。

「好意による結果ってやつね。まあ、仕方ないか。あんたに未来幻視能力があるとは思えないから」

 パチュリーはため息と共に言う。好意によるものかはともかく、悪気があったわけではないのは事実だ。それよりも、気になる単語が耳に残る。

 未来幻視、つまり、危険予測や未来分析を理屈ではなく感覚で行える力のことを言うらしい。それも、幻視という名称である以上は、やはり目から未来の情報を得ることを言うのだろう。

 パチュリーは私が無言のままであることを疑問と受け取り、言葉を返す。

「未来幻視とは、目で未来の情報を見ること。知り合いに一人、そんなことができるやつがいるわ。あいつの未来幻視が本当なのかは分からないけど、実際にそんな能力を持っているらしいことは確かよ」

 パチュリーは近くに落ちていたペンを手に取った。そして、ペン先を地面に向けたまま反対側の先を指でつまんで、私の前に差し出した。

「手を離すわ。何が起きるか分かる?」

 私はそのペンを見て、当たり前のように答える。

「ペンが地面に落ちる」

 パチュリーはにやりと笑い、つまんでいたペンから手を離した。私の回答通り、ペンは重力にしたがって落下する。だが、ペンが落ちた先は地面ではなかった。

 私は左足の親指に鋭い痛みを感じた。

「あんたは途中までの未来、つまりペンが落下するところまでを想像することができたけど、その結果は見えなかった。想像は未来予測の基礎よ。現在の情報を分析し、それに対する結果を予想する。でも、ペンが静止していた位置があんたの足の上なら、そういう結果だってあったはず。それが見えたか、見えないか。そういうものなのよ」

 得意げに話す彼女の顔を見ていると、単純に私の足を目掛けてダーツのようにペンを放ったようにも感じた。それも含めて、彼女はペンの落下地点がどこになり得るかを可能性として予測することが未来幻視につながると言いたいらしい。つまり、パチュリーが私に攻撃する意思があったかどうかも、現在の情報に含まれるということだ。

 おそらく、パチュリーは何らかの方法で私の左足にペンを誘導したのだろう。そうでもなければ、狙ったように私の足先にペンが命中するとは思えない。だが、確かにそういう結果があるということを考慮しなかったのは事実だ。ペンがどこから落下しようが、彼女の意思を考えればこの結果は当然とも思える。

 未来幻視に含まれるかどうかはともかく、私は彼女が望んだ結果の通りに棒立ちになった。避けるという行為に至るまでの思考が遮断され、微動だにすることも無くペンが命中した。

「最初に説明したはずよ。理解不能な場面に立たされた場合、言い訳するよりも身構えるのが正解。あなたは私の話を、ペンが足に当たるまで理解できなかったのよ。それと、その痛みでこのことは無しにしてあげるから、小悪魔と協力して本棚を直してちょうだい。終わったら、いつも通り研究を始めるわ」

 パチュリーは言いながらソファーに座り込み、テーブルの上から落ちたらしい新聞に目を通す。未来幻視の話はおおよそ理解できた。私がこれからしなければならない行動は未来だ。だとすれば、彼女の言葉と行動が現在の情報となる。

 ひとまず、私は彼女の周りに散らばっている本の片づけから始めることにして、その後で紅茶でも淹れてこよう。新聞に合う雰囲気の紅茶がどんな味なのかは想像できないが、基準は後で聞けばいい。


「あんた、たぶんこの後こいつの話を気にするだろうから、先に言っておくわ」

 本棚を元に戻し終え、散らばった本を片付けようとした矢先、パチュリーは新聞に掲載されたある記事を指差し、私に告げる。そこには、夜中に現れて無差別に人を殺す殺人鬼の記事が掲載されていた。

「夜道で変な雰囲気のヤツに声をかけられたら、という話だけれどね。そいつが運命なんていうふざけたことを口にしたら、耳を傾けて口を閉じなさい。もし最初の一言が挨拶でもなんでもない妄言だったら、何があっても私の話をしちゃダメよ。面倒だから。こちらから情報を与えてやることはないわ。それをきっかけに、あんたの性格や仕草の一つでも分析されたら、未来ごとねじ切られてしまうわよ」

 と、パチュリー。話の流れを考えるに、おそらくそいつは未来を幻視できるのだろう。未来ごとねじ切られる、とは、そういった能力の比喩だろうか。ともかく、そういった人物とは関わらないほうが身のためらしい。

「もう一つ。そいつの最初の一言がよく知れた挨拶だったなら……」

 パチュリーの表情に陰りが差した。

「……残念だけれど、生きることを諦めなさい」


 どうしても、気になって仕方が無い。私はそればかり考えていた。新聞に掲載されていた殺人鬼の話だ。自分が元殺人鬼だからという理由もあるだろうが、なぜかこの殺人鬼に興味を引かれる。

 起こした本棚に散らばった本を差し込んで行く作業の間、その殺人鬼が何者なのかを考えていた。興味を引かれる理由を探るには、その殺人鬼の本質を見ることが一番の近道となるだろう。

 そもそも、殺人鬼という存在を理解している必要がある。殺人鬼とは、ただ人を殺すのとは違う意味で活動をしている存在であり、人がただ人を殺すだけならば、ただの『人殺し』だ。

 殺人鬼は人を殺すという行為を目的にしない。何か理由があって、その手段として人を殺す。例えば戦争。勝利するという目的、あるいは生き残るという願望を実現するため、自分を殺そうとしている相手を殺す。それは、敵が誰であるかに関わらず、自分を守るための攻撃となる。仮に相手が未知の生物であっても、人間同士の戦争と同じように相手を排除しようとするだろう。これがたまたま人間相手に行われているだけというだけなのだ。

 もっとも、これは戦争という異常な空間だからこそ正当化できる思考であって、日常の中で目的を達成する場合、その手段に人を殺すという行為が含まれることは稀である。正常な判断をする人間であるなら、なんでもない日常の中では、手段で人を殺すという行為を無意識に避けるはずだからだ。

 殺人鬼はこの感覚が麻痺した障害者とも言われている。避けるはずの手段を躊躇無く選択してしまい、結果、自らの手を血に染めるのだ。

 殺すというのが手段ではなく目的であるなら、まだ人間らしい感情の範囲から外れていない。だが、それが目的ではなく手段であるなら、殺す対象を人間と思っていないのと同じだ。まるで食事をするのと同じように、目の前の食材の一生を考えず、それらを口に運ぶようなものである。

 なぜ食事をするのか。生きるため、もっと詳細に言うなら体を維持するために他ならない。体を維持し、生き続ける。この目的のための手段の一つが食事なのだ。

 だが、中には食事をすることが目的という、いわゆる美食家と呼ばれる者達がいる。食事をしたいから、食事をする。生きるという目的ではなく食事そのものが目的となる。

 これは人間特有のものだ。食事は多くの生物にとって、ただ生命活動に必要なエネルギーとたんぱく質の摂取でしかない。だからこそ、生きるために食事をするのは、生物の本能としての行動と言える。

 人間は理性が強い。だからこそ、そんな本能が起こす行動でさえ趣向となり得る。

 これが殺人に切り替われば、なぜ人殺しが人間の思考を持っていると思えるのか分かるだろう。人殺しは人を殺すという目的を持って、それを達成するのだ。目的の為に他者の否定を行動にするのが生物としての本能なら、その行為自体を目的にすり返るのは、殺人が嗜好となっているようなものだ。殺人という他者の否定を行いながらも、相手を人間として扱っている。これが人間的でないはずが無い。

 殺人鬼はその人間的な思考とは別の考え方で人を殺す。何か目的があって、その手段が殺人なのだ。元殺人鬼の『僕』で言うなら、女性が周りに居ることが我慢できないという感情を抑えるための手段として、それらを殺したということだ。これでは殺す相手を人間と思っていないのと変わらない。

 こいつの殺人衝動は、いったい何なのか。それが私か、あるいは『僕』がこいつに対する一番強い興味だろう。


 本棚を直し、散らばった数百冊の本を棚に戻す頃には、外はすっかり真っ暗になってしまっていた。店はまだ開いている時間だろうが、急がなければ間に合わない。

 あろうことか、こんな時間まで紅茶の茶葉が切れていることに気がつかなかったらしい。パチュリーがこのことを知る前に、何とかして茶葉を揃えておかなければ。

 くだらないプライドではあったが、私は自分ができると思ったことを失敗するのが許せなかった。紅茶くらい、要求されたものを入れられるのは当然だと考えていたのだ。

 だからこそ、茶葉が切れているなどという状況は放っておけない。短時間でそれが解決できるというのなら、迷わずその方法を実行する。

 暗い夜道を走りつつ、目的の店へ向かう。おそらく、見慣れた道だったからこそ油断していたのだろうが、結果から言えば、この行為が原因で自身が危険に晒されることになった。

 私の視界に、明らかに私に視線を向ける少女がいる。私は立ち止まり、その少女と対峙する。何の根拠も無かったが、私はそいつを危険なものとして認識した。

 見慣れた道に出現した、見慣れない少女。その風貌があまりにも不気味であったことと、その風貌にまとわり付く嫌な雰囲気を感じ取り、私の中に居た『僕』が疼くのが分かる。

 紅いリボンがついた帽子、紅い影が落ちたドレス……。何もかもが紅い。異様な雰囲気だ。けれど、その雰囲気が彼女を装飾しているのは、彼女自身が紅いからなのだろう。血の臭いを通り越して、血の色が混じる空気を纏っているように見える。

 あいつは、ロンドンの元殺人鬼としての『僕』が警戒に値するヤツだ。もしかすると、同類なのかもしれない。いや、同類というには大きすぎる存在感だ。これほど分かりやすい血の雰囲気を感じるなんて、明らかに異常だろう。

 とっさに、私は彼女が新聞の殺人鬼なのではないかと疑った。ならば、私は自分の興味を満足させるために、彼女と話をしてみたい。違うなら違うで、私の興味が削がれるだけのことだ。

 勝手な想像だが、おそらく、最初の一言は挨拶ではない。

「質問は知っている。すでに運命は見た。私はお前に会うためにここに居たんだ。だから、お前がこれからやろうと考えているその行動、できれば私の目的を果たすまで待って欲しい」

 予感が的中したが、あまり嬉しくない。

 彼女の言葉に挨拶はない。そして、運命という言葉が入っているのなら、パチュリーが言っていた通り、耳を傾けて口を閉じる必要がありそうだ。

 私はゆっくりと背中に手を伸ばし、背中に感じたナイフの形を手で確認する。それを引き抜き、彼女に向けた。

「いいわ。質問は殺してからでは意味を持たないけれど―――」

 彼女は言いつつ、一瞬、纏った雰囲気を弱める。私はその行動の意味を知っている。獅子も猟犬も、あるいは無力な鳥や人間でさえも、狩りの前には息を潜めるのだ。

 それならば、彼女は『僕』が殺せるカテゴリーに入る。彼女もまた、生物なのだ。

 私は手の中のナイフを構え、体内に巣食う悪魔を呼び起こす。

「―――質問には、お前の未来に答えてもらう」


 その言葉を皮切りに、目の前にいる人型の生物の周囲が紅に染まる。濃い血の雰囲気が拡大したような錯覚を覚え、一瞬、私はひるんでしまう。

 その一瞬、紅に侵食された空間の全てが、私と彼女の運命を装飾した。



   ◇◇◇


 ともかく、あらゆる面で修復が必要なのは間違いない。この付近一帯が紅に染まったのは数分前の話だったが、その紅の領域に存在した全ての未来が彼女に従ったのは疑いようが無い。

 なにしろ、その付近一帯の紅の領域は、彼女が行動するのに都合のいいように配置されていたのだから。



   ◇◇◇


「―――質問には、お前の未来に答えてもらう」

 彼女が言葉を発する。その音圧はとても強く、私の中の『僕』ですら怯えていた。そちら側の領域に足を踏み入れたものにしか分からない感覚を刺激されているような錯覚すら感じる。人を殺したことが無いモノに人を殺すヤツの意識なんて感じられないが、『僕』が刺激されている感覚は、間違いなくその意識の部分だ。

 殺人鬼が怯えているというのは相当ひどい状況だ。彼女が放った言葉の圧力は、人間という生物を路肩に転がる小石と同じ程度にしか感じていないように思える。

 彼女が人間とは違う、もっと上の存在であることを誇示するように、放たれる言葉は圧力を増していく。

「まず、手始めにお前の中に居る悪魔を呼び起こさなければならない。私が興味を持っているのはそっちだ。お前は、邪魔モノ」

 私の中の悪魔と、彼女は言う。それは『僕』のことだろうか。

 どちらにしても、このまま私がここにいたら、間違いなく彼女の意思に殺される。体の話でも、物理的な話でもない。私は彼女と相対するだけで、私自身の意識が殺されることだろう。仮に彼女に『跪け』と命令されたら、私の意志とは無関係に彼女に跪いてしまいそうだ。

 無理やりにでも悪魔を起こさなければ、私はもうここには居られない。ならば、やることは一つだ。

 人を、殺す。人を殺して、悪魔である『僕』を起こす。

 こんな状況で手っ取り早く殺せる人物なんて一人しか見当たらない。私は、手に持ったナイフの形を自分の胸に刺し、私自身を殺す。もちろん、このナイフは形だけを取り繕った偽者であるため、私は本当に死んだわけではない。

 重要なのは、その過程を演じることにある。『僕』がナイフの形を刺し、『僕』がそれを引き抜く。吹き出る血は幻想で補うとして、ともかく、私は私の中の悪魔に殺された。アゾットという都合のいいナイフの形があったために出来た、私だけの儀式だ。

「なるほど、それがスイッチね。お前の中の悪魔を引きずり出そうと思ったが、手間が省けた」

 彼女の言葉はさらに音圧を増す。だが、既に私は『僕』だ。もう自分でも止める必要がないほど、殺人鬼を殺したい衝動に焦がれている。

「殺し合いなら歓迎できそうにないが、お前とならやり合える」

 こちらも彼女の音圧に抵抗するほどの言葉を放った。大丈夫、『僕』は健在だ。

 『僕』の怯えは止まっていた。理由は単純だ。

 彼女は『僕』の標的にカテゴライズされる女性という種族だ。なら、この手合いは殺し合いじゃない。お互いの意味を確かめ合う存在証明の儀式と呼ぶにふさわしい。

 『僕』の存在は、女性を拒絶しているという意識が感じられるからこそ、証明できる。女性を拒絶するからこそ、私ではなく『僕』なのだ。彼女を殺そうとする『僕』は、ここに確実に存在している。言い換えるならば、彼女を殺すことで『僕』という存在を証明できるのだ。

「いいわ。なら、まずはその儀式とやらを完成させよう。ちょうど私も、その手の知り合いの世界に招待して欲しいと思っていたところよ」

 彼女の言葉は、もはや私への質問を無視していた。つまり、彼女も目的のために『僕』を殺そうとするのだ。殺人鬼が自分という存在を証明しようとして、その手段として人を殺すのだ。

 彼女が殺人鬼としての証明を行う前に、一瞬、濃くなった血の雰囲気が遠のく。まだ何か、殺人鬼になりきれない理由があるのだろうか。

「このままお前を殺してしまうと、質問が出来なくなるな。私は未来が見える。ここでお前に会うことも知っていた。だが、同時にお前が私の未来に影響を与えることも知っている」

 と、彼女は言う。そのときに気付いたが、こいつはパチュリーを知っている。未来幻視の話をパチュリーに聞いていたからこそ、こいつの『未来が見える』という発現をそのまま受け取ることが出来、なおかつ、初めに『運命』という言葉を聞いていたからこそ、こいつがパチュリーと繋がりがあることに気付けた。

 未来幻視は私には出来ないが、現在の情報とやらを集めておくことは損ではなさそうだ。

 私は彼女に、言葉の続きを促した。

「お前はここで灰になるが、どうやら私が生涯をかけて関わりあう最初の人間がお前だということらしい。その意味がよく分からない。だから、お前の意味を確認したい。お前をここで殺したとして、お前は再び私の前に現れるか否か。質問とは、そういうことだ」

 彼女はそこで言葉を区切る。得られた情報は、私が彼女と関わり続けることになるということと、彼女が人間と関わったことがないということ。これが比喩なのか真実なのか、実際にはわからない。

 ともかく、ここで『僕』と私は灰になるそうだ。その言葉を正しく解釈するなら、ここで死ぬということになる。

 死んだ人間が復活でもしない限り、彼女と生涯をかけて関わりあうことは無いだろう。ならば、ここで厄介な『僕』をねじ伏せ、私ごと殺した後、未来がどう変化するかを確認することでその答えを知ることができる。

 質問の答えは、未来に聞く。彼女が言った言葉の意味はそれか。だが、殺されるとわかったのだ。それまで呆けて突っ立っているわけにはいかない。

 いよいよ、『僕』は行動を起こす。まずはナイフに物理的な力を込めて、しっかりと獲物を確認する。あのガキを殺してしまえば、『僕』の目的は達成される。

 彼女も抵抗するだろう。それに対する抑止をしなければならない。素早く、且つ、確実に。最小限の動作で抑えるならば、直線での動きがいい。曲線や円では勢いはあれど、余計な動作が含まれる。

「それも見えたわ。だから、先手を打った」

 彼女がそう呟くと、『僕』の視界が揺らぐ。まるで血に染まったような、真っ赤な景色が視界を覆ったのだ。

 瞬間的に体の自由が利かないことに気がついた。視界がふさがれたことで、行動と停止を同時に行おうとしたのが原因らしい。僕は進もうとして、同時に止まろうとした。こんな命令を体が受け取れば、一瞬、自由が利かなくなることもあるのだろう。

 だが、問題はその視界を塞いだ方法だ。

 一時的な視界の封鎖は、瞬きを繰り返せば元に戻る。『僕』はそれを実行し、彼女の姿を再び視界に捉える。その姿を見て、おおよそ方法が理解できた。

 彼女が自分の左腕を切り取り、そこから吹き出る血を『僕』の進行方向に散らしたのだ。一直線に地を駆けたら、目の前に突然出現した血しぶきに目をやられた。そういうわけだろう。

「もはや終わりだ。お前の未来は見えたのだから、その通りに踊ってもらうわよ」

 紅い運命がその言葉を放った瞬間、やはり周囲の紅い雰囲気が彼女に味方した。

 彼女の次の一手が『僕』を捕らえる。それは攻撃という動作ではなかったが、確実に『僕』を縛り付けたのなら、攻撃したのと同義だろう。

 気がついたときには、彼女の左腕は遥か上空に浮遊していた。体そのものは未だ地面にあるのに、左腕だけが飛行を愉しんでいる。その光景があまりにも現実離れしていて、『僕』が私に戻りかけていた。

 その一瞬を、やはり彼女は見ていた。だからこそ、私を殺せたのに黙って突っ立っていたのだ。体に危険信号が走り、『僕』が再び目を覚ますまでの間、彼女は最初の位置から微動だにしなかったのだ。

 だが、『僕』が目を覚ましたとき、彼女は切り離された彼女の左腕の隣で幽雅に空中を浮遊していた。空が飛べるなどとは聞いていなかったが、彼女はパチュリーのような、人ではない何かだったのだ。

「さて、ここから私が最後の一手を放つと、お前は灰になる。先に答えを聞かせてもらえるなら、そのほうが助かる。どうする?」

 誰に向かって放ったのかわからない、彼女の声が響く。『僕』に向けたとするなら、その意味の理解は、『二度と目の前に現れるな』が正しいのか。あるいは、『どうせ一生関わり続けるなら、私に忠誠を誓え』、か。

 彼女の左腕だった物体が、紅い光を放っている。あれが槍のような形だと感じただけ、まだ現状を把握する能力は衰えていないようだ。

 対して、いつの間にか、先ほど切り取ったはずの吸血鬼の腕が治っている。こいつ、自己治癒能力まであるらしい。腕が光に変わり、無くなった腕の切り口から新たに生えてきたのか。

 もはや『僕』に残された手段は一つしかない。今度は『僕』ではなく、私が自分の背中から自らの心臓目掛けてナイフを刺す。残された最後の手段として、『僕』を止めた。こうなってしまっては仕方ない。ロンドンの殺人鬼程度では話にならない。

 この動作が彼女への、『二度と目の前に現れない』を意味する行動だ。こんなヤツと一生も関わってたまるか。

「逃げたか。まあいいわ。未来ではなく現在が答えを持ってきてくれたのは驚いたけれど、お前はやはり、ここで灰になる。それじゃあ―――」

 答えを受け取った彼女は笑い、右手に掴んだ紅い塊を『僕』に投げつける。

 私は確かに最後の、こいつとの関わりを拒絶したのだ。だというのに、その後の彼女の言葉が矛盾した。その最後の一言が信じられなくて、私も『僕』も微動だにできなかった。


「それじゃあ、またね」


 私の視界は暗転し、体が灰になるのを感じた。



   2


 体が灰になっても、意識があれば生きているということになるのか。ならば、私はまだ生きている。

 あのナイフは人を殺すためのものではない。悪魔を閉じ込める鳥かごだ。アゾットという名前を持つ、精神のかご。つまり、私はその中に自ら足を踏み入れることで、体を犠牲に意識を守った。

 体がどうでも良かったのか、あるいは意識が体より重かったのか、ともかく、私という人間が考える私は、体のほうではなかっただけのこと。だからこそ、私は意識を助けるために体を犠牲にした。形が変わっても意識さえあれば私。そんな風に考えた結果があれだった。

 アゾットの中に自身を閉じ込め、身動きが取れなくなるのが分かっていて意識を守る。なんて、先を考えない無謀なワガママ。

 だけど、どうやら私がこんな風に考えて行動することを、パチュリーは気付いていたらしい。でなければ、小悪魔が望んで人前に姿を現して、私が入ったアゾットを抱えて彼女の元へ戻るなんて事はしなかったはずだ。

 聞いた話によれば、小悪魔に私を尾行させ、万が一のことがあったら連れて帰るように言ったらしい。そこまでして私を自分の下に繋ぎ止める理由が分からなかったが、ともかく、私が思っていたよりも悪い結末にならないのは確かだ。

 彼女が私を助けたわけではない、ということは想像ができる。おそらく、私が借りたアゾットを取り返しに来たというのが正しいのだろう。だが、それでも私を探しにきたのなら、やはり彼女は私がアゾットを持っていることを知っていた。


 パチュリーは、アゾットをその辺に転がされた人型の塊に差し込んで、私に出るように命じた。おそらく、新しい体はこれを使えということなのだろう。

「いいえ。あんたの体は別に用意するわ。それよりも、もっと他に疑問を持べき事があるのでは?」

 と、パチュリー。確かに私を殺した少女との会話で浮かんだ疑問は、いまだに解決していない。だが、それ以外にももう一つ、もっと前から抱いている疑問がある。

 とりあえず、殺人鬼の正体について。実は、彼女との手合わせの際、私は新聞の殺人鬼が彼女ではないことを理解した。なぜなら、彼女は私を探していたのだ。ならば、標的になりうるのは私一人であるべきだ。その彼女が、殺人鬼として振舞うとは思えない。

 それに、私を探すための一番効率的な方法を、彼女は持っていた。ご丁寧に私にそれを宣言したのだ。ならば、他の誰かを犠牲にする意味はない。

『質問は知っている。お前に会うためにここに居たんだ』

 もし、これを正しく理解しているのなら、殺人鬼は彼女ではない。彼女以外の誰かということになるのだ。

 殺人鬼の正体が彼女でないなら、私が彼女に興味を持つ理由がわからない。彼女いわく、彼女と私は生涯をかけて関わりあうことになるらしい。私にとっては既に興味を失くした存在だ。これ以上ヤツと関わる理由がわからない。

 だが、私は二度と会いたくないと思っているが、あちらが私に興味を持ちでもしたら、それは叶わないだろう。そのためには、そんな理由を作り出した殺人鬼を見つけ出し、関係があるかどうかを確認するのがいい。ヤツと関係がありそうなら、早めに潰してしまえばいいのだ。

 二つ目の疑問は、アゾットを作成した意味だ。彼女は私が『僕』を封じ込める瞬間に、アゾットの意味を話していた。言葉の端を捉えただけではあるが、その中身は単純そうで難しい。

 抑えきれない悪魔を封じるために、彼女はアゾットを作ったのだ。その悪魔というのが何なのか、私は知らない。問題は、パチュリーが私がアゾットを勝手に持ち出したと確信できた理由。悪魔が何かは知らなくても、私が悪魔を封じる鳥かごに入り込める理由だ。

 私の中の何かが悪魔と呼ばれ、もしかすると、私はその悪魔にも依存しかねない存在になるということらしい。その悪魔と呼ばれる存在が自分の中に居る『僕』ではないのは明白だ。彼は悪魔としての条件を満たしているだけの、私の裏側の人格だ。それでは、私そのものがアゾットに入り込める理由にはならない。

 その二つの疑問を簡単にまとめるなら、一番の問題点が明るみに出る。

『私は、先ほど私を灰にしたあの少女に出会うために呼び出された悪魔という可能性がある』

 誰がそれを仕組んだのかはわからないが、私の役割はあの紅い運命と出会うことだったのだ。それならば、彼女が生涯をかけて関わる最初の人間という未来に私の姿が重なったのも頷ける。だが、それ自体が疑問となるのだ。

「悪魔を呼び出す研究で、私は……。いいえ、『僕』は呼び出された。初めは間違いで呼び出された、切り裂きジャックという殺人鬼だと思っていたけれど、あなたがわざと『僕』を呼び出したのなら、『僕』という存在は、ロンドンの元殺人鬼なんていうものじゃないはずだ。なら、『僕』は……」

 正体不明で、意味不明。無害な人間でもなく、殺人鬼という悪魔でもない。ならば、本当の悪魔か、あるいはそれすらも間違いだ。

 きっと、それが内包された私は、歪な形をした何かなのだ。その形が示す意味こそが、私が本当に知るべき答えなのだろう。



   ◇◇◇


「たどり着いたな。ようやく邪魔モノが消えた。私が不安だった不確定要素も、これで確定した」

 図書館の中に声が響く。どこかで聞いた声だと感じたが、その強い音圧によって、誰が発したかに気付いた。

 あのガキが、あろう事かここにいるのだ。

「けど、それだけじゃまだ足りない。お前がパチェに召喚されてここに来たのは間違いないんだろうけど、最初に連れて来られたときのことが思い出せないんでは、お前の中の悪魔を追ってきた意味がないな。お前に悪魔である自覚がないのなら、こちらの思惑が外れてしまう」

 その声の主が、図書館のソファに腰掛けた。このガキ、我が家に帰ってきたような感覚で行動している。

 パチュリーは冷静に近くの本を手に取ると、私が最初にここに連れてこられてきた時と同じように、容赦なくそのガキの後頭部に衝撃を与える。

 なんだ。あの時は近づくことさえ難しいと感じたが、案外、簡単に触れられるのか。

「大人しくトランシルヴァニアに引き篭もってればいいのに。何しにきたのよ」

 パチュリーが言う。問答無用で攻撃して追い出すのかと思いきや、私の予想とは違う反応。もしかすると、パチュリーはこのガキを知っているのか。

 殴られた頭をさすりながら、小さな不法侵入者はあきれた顔を見せる。きっと、彼女にとってはそれが日常なのだろう。

 二度と会いたくなかったが、再び出会ってしまったのなら仕方がない。先ほど至った疑問の答えを探るには、彼女を探るのが一番早いのかもしれない。ならば、まずはここに居る理由を探ることから始めるほうがいい。

「見えない部分を確かめに来たのさ。パチェの研究成果がどうなってるのか、とか。あと、その結果の子が私とどう関係するのか、とかね」

 彼女は私を指差していた。パチュリーの研究成果の結果が私である、ということなのだろう。おそらく、召喚術によって呼び出されたことを言っている。

「名前は思い出せるかい? お前は特別な存在だ。最初の名前は特別なもののはずだよ。それが私の探しているお前の中の悪魔の正体でもあるんだ」

 私は自分の名前を覚えていたが、現在の私とは無関係だ。切り裂きジャックも、最初にパチュリーに名乗った名前も、現在の私ではない。

 変化が進化だとするなら、私は確かに特別なのだろう。なにしろ、召喚技法によって呼び出された私が姿も形も、精神ですら変化してしまったのなら、生まれた直後に進化した最初の人間ということになるのだから。

「いいや、そんなことは関係ないね。パチェが呼び出したときは、お前の中の悪魔は最初からお前の中にいたんだ。切り裂きジャックなんてもので偽装されてるからややこしいが、お前の中にいる本当の悪魔はもっと幼い、ただの少女だよ」

 そんなばかな、と、口に出そうとして辞めた。思い返せば、小悪魔が私の精神に侵入したとき、最初に言った言葉がそれだ。

―――可愛いお嬢さんだこと。心の姿は案外幼いのね。

 幼い少女の姿が私であるなら、私という人間はあの姿とも無関係な人物だ。切り裂きジャックが幼い少女だとは考えられない。ならば、『僕』とは違う別の人格と仮定するなら、あの瞬間『僕』と『私』は人間と悪魔の二つの人格を融合して生まれたことになる。

 やはり、私は『僕』である切り裂きジャックとは別物の何か、パチュリーが呼び出した悪魔という存在の中の誰かなのだろうか。

「いいわ。面倒だから手っ取り早く質問する。私はレミリア・スカーレット。未来幻視と運命操作の能力を持つ吸血鬼で、そこにいる引きこもり魔法使いの友人だ。お前の名前は?」

 こいつ、吸血鬼だったのか。

 端的に名前を告げるにしても、私は現在『人間』という名前で生きている。あるいは、彼女が望む答えは『切り裂きジャック』だろうか。

「どっちも違う。お前はパチェに最初に名乗った名前があったはずだ。それを教えて欲しいんだよ」

 自称吸血鬼が言う。ああ、そうか。そういえば、召喚された直後に私は自分の名前を告げていた。

 あの時と同じく、私は『僕』が記憶を失う前に使っていた名前を言葉にする。パチュリーが発音しにくいと文句をつけ、以降、鈴の音にされてしまった名前だ。

 瞬間、レミリアと名乗った吸血鬼のガキがニヤリと口元を歪ませた。

「ククク……傑作だ。確かにパチェらしい名付け方だな。ネズミが『ネズミ』で、人間が『人間』で、小悪魔が『小悪魔』と来て、こいつのこの名前か。全くもって、パチェらしい名前だ」

 ケラケラと笑い声が響き、その直後に私とパチュリーの二発分の衝撃がレミリアの後頭部を直撃した。


 とはいえ、やはり気になるものは気になる。私が始めに名乗ったあの名前は、そこまで不思議なものには聞こえない。

 確かに捉えようによってはいかがわしい単語を口にすることになるらしいが、私には関係の無い単語だ。それは大した問題にはならないはずである。

 もしかして、私が錬金術や魔術に関する知識を全く持っていないせいで、この名前がどれだけ不自然なのかを理解していないのだろうか。

「まあ、アゾットと聞いて何のことかわからないようでは、自分の名前がどういう意味を持っているかなんてわかるわけがないな。こればかりは想定外だ」

 と、未来幻視が出来るという吸血鬼が言った。未来が見えるはずではなかったのか、という疑問を素直に口にせざるを得ない。当の本人は意外そうにそれを受け止める。

「未来幻視が予言や直感だと思っているのか。なるほど。パチェの助手としては不向きなくらい知識不足だな」

 と、吸血鬼。

 見てくれだけならば生意気なガキとしか言いようが無いこの吸血鬼様は、アゾットをパチュリーから強引に奪うと、真っ直ぐに私に向かってきた。

 待て。まさかとは思うが。

「大丈夫。痛いのは一瞬だからさ」

 そんな言葉と共に、私にアゾットを刺すレミリア。全く痛みを感じないナイフの切っ先が私の体に入り込む感覚を味わう。現在の体はあらかじめ図書館の中に転がっていた人形のような人型であるため、実際の私の体ではない。だが、それとは無関係に、このアゾットというナイフは痛みを感じないまま体に突き刺さるように出来ている。

 ただ刺さるだけでは全く無意味だが、悪魔と呼ぶにふさわしい存在を封じ込める力があるらしい。しかし、中に悪魔が既に入り込んでいる場合は、差し込んだ体の中にその悪魔が寄生する仕組みだ。

 その体の持ち主に意識が存在する必要があるかどうかは、現在の私の体を見れば一目瞭然。これは憶測だが、精巧に作られた人形であれば、擬似的に体として使えるのではないかと思われる。

 ともかく、そんなアゾットに刺されたということは、簡単な話、私にここに入れということである。一体何を企んでいるのやら。

 アゾットに入り込んだ私は元々入っていた体からナイフが引き抜かれる感覚と、あろうことかレミリアの体にナイフが刺さる感覚を味わった。まさか自分に寄生させるとは。

「見たほうが早いのさ。ところで、パチェ。今から本気で私に攻撃して欲しいんだが」

 吸血鬼が言う。精神がコイツに入り込んでしまっているため、私もパチュリーの方を向くかたちになり、パチュリーの反応がとても不思議なことになっていることに気がつく。

 何、今、コイツなんて言った? と、聞こえた気がした。

 パチュリーはしっかりと首をかしげ、壊れた人形のような表情でこちら、つまりレミリアを凝視している。白い肌と長い髪が災いして、幽霊のような形相という言葉がしっかり当てはまってしまうビジュアルだ。

 追い討ちをかけるように、吸血鬼は両手を広げて言う。

「本気でやらないと見えないんだよ。協力してくれない?」

 まるで『今からそこの本棚を動かすから、手伝ってくれ』という感覚で、とんでもないことを口にするやつだ。

 唐突に物騒な単語を聞かされたパチュリーは、さらに完成度を高めた無表情のまま、持っていた本を床に転がした。本当に幽霊になってしまったようなその反応に、私は若干の恐怖を感じる。

「……三途の川でも見に行くつもりかしら。それとも、そういう趣味に目覚めてしまったとか?」

 われに返ったパチュリーがようやく搾り出した言葉を口にして、転がした本を拾う。

「そういうことじゃないけど、ほら、こいつにも私が見てるモノを見せてやりたくてさ。頼むから攻撃してくれよ」

 レミリアのその言葉が止めを刺したらしく、パチュリーは青ざめた顔のまま汚いものを見る目でレミリアを見る。これ以上近付かれたくないという意思表示のおまけ付きで、体を震わせながら本をめくる姿は、間違いなく拒絶を表しているのだろう。

「……わかったわ」

 しばらく動揺していたらしい。ようやく肯定の表現を口にした後、パチュリーは持っていた本のページを音読しながら手に何かを集中させる。そして、

「覚悟しなさい、マゾヒスト」

 という言葉と共に、それをこちらに向けて放った。


 目の前に迫ってくる『何か』は、空中をゆっくりと浮遊しつつ、こちら目掛けて放物線を描く。こちら、とは、もちろんレミリアが立っている場所で間違いない。そのレミリアの中から、私が外で起きている光景を見ているようだ。

 おかしなことに、その『何か』が目の前に迫ってくるという感覚が全く無く、むしろ、リアリティを欠如したスクリーン上の産物にしか感じられず、これがレミリアの体を通してみた結果なのか、先ほど彼女が言っていた『私が見ているモノ』というヤツなのかを測り損ねてしまう。

 先に回答を出してしまうが、これがレミリアの持つ未来幻視の中の一つらしく、どうやらこれはまだ放たれていない『何か』が、仮に放たれたという前提でどういう結果をもたらすのかを、あらかじめ見ているようなものらしい。

 その『何か』だが、具体的には見えない。炎の映像と、水の映像が入り混じった、どちらとも取れる不可解な映像だ。

 納得は出来ないが、なんとなく理解する。要は、未だ放たれていない物体の正体は、『何である可能性が高いか』という不確定要素なのだ。つまり、パチュリーが放った攻撃が炎であるか水であるか、その正体は『可能性』であって、確定していないのだ。

 炎である理由は、これがスタンダードな『現象喚起魔法』の一つだからである。簡単な現象を呼び起こすことによって、それに付加するさまざまな要素を追加し、手軽に強力な魔法へと昇華させることが出来る。

 一方、水である理由は、レミリアが吸血鬼という存在だからこそ導き出された結果の一つだ。本で知った知識だが、吸血鬼は流水を苦手としているため、本気で吸血鬼を攻撃する際は水を浴びせるのが有効手段であるらしい。

 この場合はどちらなのか、目前に迫る『何か』の姿が光る物質であることを確認できるまではっきりとしなかった。パチュリーは流水よりも、彼女が得意とする魔法を強化して放つことを選ぶ確率が高いと判断されたらしい。

 炎に姿を確定したそれは、私たちの視界を容易に覆う。このまま棒立ちになっていては、間違いなく身を焼かれることだろう。右、左、後ろ、上、いずれかに移動して離脱しなければならない。

 まず左は、本棚が占領している。パチュリーのすぐ近くで攻撃を受けたわけではないが、本棚に向かって飛び込んでいっても、容易に破壊できるわけでもなく、押し倒す程度の力が加わる頃には、目の前に広がった炎が追いつくことだろう。

 同様に、後ろも壁を破壊する前に炎に追いつかれてしまう危険が高い。

 右はどうか。右ならば広い空間であるために行動を切り替えやすい。ならば、右に避けるのが正解か。

 思考の中でそれらを模索して行く間、精神的にはそれがリアルの体験として視界に取り込まれていく。左に避けるレミリア、後ろに避けるレミリア、右に避けるレミリア。これらを行った場合の映像が、自分の目を通してリアルに語られているのだ。

 なるほど、こういった選択肢を決定するとどうなるのか、それを幻視する能力を未来幻視というのか。おそらく選択肢が発生するごとに分岐する全ての未来を読み込めば、あらかじめ結果を知った上で未来を選択できる。

 その未来幻視は、右に避けた場合を正解とはしなかった。右に避け、開けた空間で反撃に出るレミリアが、無残にもあらかじめ張られていた罠のような魔法に取り込まれる姿を幻視する。

 レミリアの未来幻視は、現在の情報を全て読み取り、その中にある全ての結果への過程を見出すだけでは収まらないらしい。相手の性格や心理状態、あるいは自身が持つ膨大な経験によって、起こり得る全ての過程と結果を幻視する。

 パチュリーが本気で攻撃を行えば、必ず二重、三重と罠を張るだろうという、友人ならではの経験によって、右へ避けても罠が待ち構えているという結果を見ることが出来た。

 そういえば、コイツは吸血鬼だと言っていたな。正確な年齢はわからないが、おそらく人間などでは到底考えられないほどの年月を過ごしてきたのだろう。それらが全て経験となり、この未来幻視を作り上げる一つの要素になっているとしたら……。

 選択と結果の経験が人間では到底考え付かないほど多いだろう。そんな経験値が全て詰め込まれた情報分析能力など、確かに異能に分類されてもおかしくはない。

 その一端に触れている私は、ある疑問を抱いている。これだけリアルに時間の経過を感じる映像を見せられているのなら、現実の時間はどうなっているのか。まさか時間が止まるなどとは考えられないが、もしかしたら、高速での思考を行う間、時間が止まったように錯覚するのだろうか。

 ともかく、このリアルな未来の映像を再生し終え、結果が分かったとき、現実の時間が動き出すのだろう。見えた未来の中から、パチュリーに勝つための選択肢を覚えておかなければ。

 そんな風に考えていた矢先、意外な結末が映像に表示され、その瞬間、私の精神は未来幻視能力から現実へ復帰した。



   3


「事情を話さずいきなり結論に達するのは、いつものことだわね。うっかりしてたわ」

 パチュリーは落ち着いた口調で、目の前の吸血鬼にそんなことを話す。

 あれから数分程度しか経過していないにもかかわらず、パチュリーが汚らわしい物を見る目を引っ込めるに至った背景には、レミリアの能力と性格が絡んでいる。

 まず未来幻視の説明であるが、要するに『ものすごく注意深い観察眼と洞察力』および『尋常ではない速度で思考する頭』と『尋常ではない年月が凝縮した経験や体験』の副産物であるらしい。

 つまり、『一瞬で』『状況を把握し』『起こり得る全ての現象を思考する』ことが出来るというものであり、能力というには現実的すぎるのだ。

 例えば、ナイフで刺されるという状況が発生する場合、あらかじめ怪我をしたときの痛みを知っておかなければ、刺される前から『痛い』という感覚を理解するのは不可能だ。

 こういった体験や知識が無ければ、これから起こり得る現象の理解は難しい。炎が『ゆれる』『空気の』『活動』というキーワードを持っていることを知らなければ、パチュリーが行ったような召喚技法を再現できないのと同じく、ナイフで刺されることによる『痛み』の度合いは正確には理解できないのだ。

 本来それは経験でしかわからないが、憶測でもわかることはある。例えば、ナイフで刺されたことが無くとも、うっかり紙で指を切ってしまったことがあるとする。その際、血が出るという現象が発生することが多い。

 つまり、人体を傷つければ血液という物質が流れ出すという結果が得られるのだ。これを理解していれば、少なくとも紙で指先を切った痛みが大したことなくとも、ナイフで刺されれば自分の体から『何か赤いもの』が流れ出すことは想像できる。

 そこに痛みという別の概念が混ざれば、ナイフで刺された結末が容易に想像できる。正確に言うなら、放っておけばどうなるかという知識が無ければ『死ぬ』という結論にまでは達しないが、何らかの理由でそれを擬似的に体験、あるいは目撃したのならば理解できることだろう。例えそれが演劇のようなものであってもだ。

 余談だが、役者の演技や創作物の心理描写を理解できるためには、観客や読者がそれを体験している必要がある。知識や経験が無ければ、どんなに優れた脚本や演技も理解が出来ないだろう。だからこそ、優れた役者や脚本家は、見た瞬間に理解できるようなものを生み出す技術が必要とされるらしい。

 ともかく、つまりはそういった経験の蓄積によって、多くの生物は予防という行為を確立させることが出来る。あらかじめ悪いことが起きるとわかれば、それを防ぐための手段を検索し実行するのだ。

 これは痛みだけではない。例えば、机の上に積み上げられた本を無視して机を動かせば、当然本は崩れ出す。その現象を知らない子供は、上にモノが乗っている状態で下の土台を動かしてはいけないという意味を理解していないことが多い。大人から注意されて言葉だけではわかったつもりでいられるだろうが、これらは経験によって初めて理解へとつながるのだ。

 であるならば、レミリアが魔法という攻撃手段をあらゆる角度から経験していなければ、あのような未来幻視は行えない。飛んでくる正体不明の魔法が何であるかを理解するため、自身の弱点を相手が知っているかどうか、あるいは、相手がどんな魔法を使うかを予想できる立場に居なければならないのだ。

 そして、パチュリーの攻撃手段や性格を知っているからこそ、広い空間に罠を仕掛けているという可能性を理解した。

 おそらく、何百年も人間という存在を研究し続ければ、プロファイリングという作業によって、どんな人間でも必ず行うであろう反射運動を見出せる。そこに、個性という振り子を結ぶことで、相手がどのような行動を行うのかを理解できるようになる。

 さらに言えば、木造の本棚を破壊するだけの時間がどれだけ必要か、それを経験で知っているからこそ、本棚を破壊してまで逆方向に避けるという行為をしなかった。

 単純な話、彼女は現実的にあらゆる可能性を考えて、一番効率のいい方法を実行しただけなのだ。その可能性というのがあまりにも現実的過ぎて、あるいはあまりにも鮮明すぎるために、未来幻視などという呼ばれ方をしている。

 これが未来幻視の正体なのだ。まるでラプラスの悪魔と呼ばれる空想科学理論を体現したような、人類"既"到な超能力。それを可能にした尋常ではない経験と思考速度によって導き出される結果に、今度は運命が従うようになる。

 レミリアの性格は、この未来幻視によって形成されたようなものらしく、よく言えば『天才的と感じる頭脳』悪く言えば『先走りすぎて周りが着いて来ない』というものだ。

 つまり、レミリアは理解して結論を出すのだが、それがあまりにも早すぎる上、その結論に至った経緯がごっそりと抜けてしまっているように見えるため、いきなり結論に達してしまったように見えるということだ。

 そのせいで、今回はパチュリーにいらない誤解を受けてしまったらしい。何十年と付き合いのある友人にさえこんな誤解を受けるほど、レミリアのその性格は説明不足という熟語に集約されてしまっている。

 とはいえ、その傾向があるということをパチュリーが理解していたおかげで、説明されていない結論までの過程を理解するに至った、というわけだ。

「もう見えた、これでおしまい。なんて、いきなり言われても戸惑うだけよ。わかった?」

 と、パチュリーは黒コゲになった吸血鬼に言う。

 吸血鬼は焼かれた傷を再生させているらしい。思考速度にしても、寿命にしても、とにかく規格外な生物だ。焼かれた皮膚が元通りになっていっても、私はもはや、今さら驚きはしない。

 私は彼女が焼かれたとき中にいたが、ショックで死ぬかと思うほどに『痛かった』のを覚えている。度を越した炎に焼かれると『熱い』のではなく『痛い』のだ。元の人形の体に戻った後、ロウソクの炎を怖がる私を見て小悪魔が笑いをこらえていたのを覚えている。

 ちなみに、あの場でパチュリーの本気の攻撃を受けた場合、上に逃げて反撃を仕掛けなければ勝てないことはわかったのだが、レミリアはパチュリーを攻撃するつもりは毛頭無く、声をかけて止めればいいという結論に達した。

 その結論だけを実行したところ、想定外の発言にパチュリーが動揺してしまったために炎の魔法が直撃したという次第だ。

 案外、この吸血鬼を倒すのは簡単だと思えるようになってきた。

「ともかく、未来幻視ってのがどういうものか、これで理解できただろう?」

 と、治りかけの黒コゲ吸血鬼が言う。確かに、未来幻視が予言や直感ではないということは理解できた。おまけに、この未来幻視の弱点までおおよそ理解できる。つまりは、情報が無ければ未来も見えない、という点だ。正体不明の生物に対して、あるいは、知っている情報が通用しない相手に対しては、コイツはかなり弱い。

 とはいえ、気になったのはコイツがそれを私に教えてもいいと判断した理由だ。こんな致命的な欠陥を、一度だけとはいえ戦闘を行った相手にばらしてしまっても良いのだろうか。

「まあ、未来幻視についてはどうでもいいさ。確かに便利だが、もっと便利な能力を持ってる。それについては教えてやらないよ。お前が私に永遠の忠誠を誓うというなら、話は別だけどね」

 治りかけの黒コゲがえらそうに踏ん反り返っているが、その姿では威厳は全く感じられない。

 ともかく、確かに種がばれても破られる危険が無ければ問題ない。私が到達した未来幻視破りの理論だって、現実的には不可能とされているのだ。物理法則が捻じ曲げられるような、例えば世界をまるごとひっくり返すような力でもなければ、コイツにとって予想不可能な事態など起こせるものじゃないだろう。


「ところで、レミィがここまで出てきた理由って何? 私の研究物が見たいだけなら、こっちに屋敷への招待状を寄越すわよね」

 と、パチュリー。

「わざわざあんたがここに現れるたのは、ここで起きてる何かしらを解決するためじゃないかしら?」

 さらに突っ込む。

 レミリアの様子を伺うと、あらかじめ質問されることがわかっていたような顔で、手近な新聞を広げた。そして、そこに掲載されている例の殺人鬼を指差して、またもや意味不明な単語を口にする。

「妹を捕らえに来たのよ」


 殺人鬼の想像画を指差して、それが妹だと仰る。さすがは吸血鬼。面白い冗談だ。

 さらに、探しに来たのではなく捕らえに来た、と。連れ戻しにきたのではなく、連れて行く、というらしい。

 要約すると、こういうことだ。

 殺人鬼はレミリアの妹で、その妹が自宅から消失していたために捜索を開始すると、この近辺で殺人鬼として有名になっていたらしいので、強引にでも家に連れて行く為にここに来た、と。

「少し違うわ。妹が自宅から出て行ったのがわかったけど、この近辺に迷い込んだという情報がわかって追って来たら、似たような活動をする殺人鬼のうわさを耳にしたのよ。で、その妹が本当に殺人鬼として活動しているのなら、さっさとぶっ飛ばして縛り上げないといけない。そういうことよ」

 と、吸血鬼。殺人鬼が妹なのかどうか、ではなく、妹を探しに来たら殺人鬼が妹みたいなことをやっていた、と。

 パチュリーは面倒くさそうな顔をしつつ、その言葉に返す。

「けど、そのくらいなら手紙で十分でしょう。妹が家出したとわかったのなら、なおさらこちらにも伝えてもらえると助かるわ」

 お互いを愛称で呼び合うほどに仲のいい者に、家族の失踪を伝えないのはおかしい。パチュリーの言葉にも一理あるが、レミリアは本心ではどう思っているのだろう。

 仮にも吸血鬼だ。家族だろうが何だろうが、数字でしか判断していないようにも思える。

「いや……それは……」

 狼狽するレミリア。

 しばらく、沈黙が続いた。お互いに何も言わずに黙っているのだから、何を考えての沈黙なのかがわからない。けれど、見ようによっては、他人に言えない事情を抱えた相談者と、それを引き出そうとする相談員という構図にも見えなくはない。

 何か、隠している?

「妹さん、反抗期か何かですか?」

 と、思わず小悪魔が突っ込んだ。こちらに言わせれば、反抗期ではなくて反抗鬼だろうに。そういう時期だからではなく、その妹が本質的にそういう性質を抱えているのだろう。先ほどの反応を考えるに、レミリアに大きな原因がありそうだ。

 ともかく、結局はこの殺人鬼と関わることになるらしい。私もパチュリーも頭を抱え、厄介な問題を解決するための準備に取り掛かることになった。



   ◇◇◇


 一週間ほど経過した頃、ようやくパチュリーは私の体を完成させたらしい。どうせなら動きやすく、ケアが簡単な体がいいという要望を出してはおいたのだが、果たしてどんな体が出来上がっているやら。

 その体にアゾットを差し込んで、私は念願の体を手に入れる。

 同調しやすいように調整したというその体は、一見ただの少女のようで、その実、戦闘時に必要な機能を高められていた。

 まず、女性として申し分ない細身の体には、重量を感じさせないぎりぎりの筋肉が備わる。瞬発力や運動能力を高めてあるらしく、確かに動きやすい。また、柔軟な構造の骨格がそれを支え、いざというときに使い物にならないなどという問題は起こりえない。

 それに、それだけ鍛えられた体ではあるが、筋肉質ではないためか力の弱い女性にも見え、相手が人間ならば油断してくれる可能性もある。そういう意味では、中世的な魅力を持った理想の体型ではあった。

 だが、一点だけ、ものすごく気になる点が残っている。

「あの、パチュリーさん……。胸が、ですね……」

 胸が、無いのだ。

「え、だって、動きやすい体って言われたから……」

 と、パチュリー。

 お互いに言葉が出なくなり、気まずい沈黙が空間に漏れ出す。その横で、とうとう堪えられずに噴出した吸血鬼と小悪魔がその沈黙を破壊した。


 ともかく、殺人鬼だ。レミリアの話ではフランドールという名前の妹であり、やはりそのフランドールも吸血鬼なのだという。となれば、この幼児体型よりさらに幼い少女、いや、幼女が現れたとしても、子供と思って油断すると危ういことになりかねない。

 相手が子供という可能性が出来たことで、私は少しだけこの殺人鬼に同情し始める。まだ周りのことを理解できていない子供であるなら、もしかしたら人間の殺し方に興味を持ってしまったためにこんな事になったのではないだろうか。

 もしかしたら、こいつの殺人衝動は人間への興味なのだろうか。

「まあ、妹が殺人鬼であるなら、そういう結論にもなるかもね……」

 思うところがあったらしく、レミリアは物憂げに目を細める。まさか、こんな事になった原因に心当たりがあるのではないだろうか。

「白状するけど、私は妹に対して過保護になっていたわ。外に出すのが怖くて仕方なかった。だから、家出した一番の理由はそれなのよ。ずっと家に閉じ込めてるようにしか思われてなかったんでしょうね」

 過保護にもほどがある。とはいえ、世間知らずな妹様が殺人鬼であるという理由はどうなのだろう。確かに吸血鬼なのだから、人間の血を吸うために外に出たという見方も出来るのだろうけど。

「いや、実は……。生まれてから一度も外に出してないのよ……」

 なるほど。一度も世間に触れたことが無いのなら、確かに世間の常識が身に付かないのは無理もない。

 相手に一般常識を期待するほうが無理な話、か。いや、しかし……。

「パチュリー様、前に殺人鬼の話で、『一般的な挨拶をされたら生きることを諦めろ』と仰いましたよね」

 疑問を言葉にしてみたら、なぜかこんな言葉遣いになってしまった。あの魔法使い、私の体に何か仕込んだか。

 ともかく、こんな喋り方になっている理由は置いておくとして、私はパチュリーに言われたことを思い返し、それを疑問としてぶつけてみた。

 一般的な常識が身に付いていないのなら、挨拶なんてものはしないはずだろう。なぜ殺人鬼が挨拶をしてくると思ったのだろうか。

「簡単な話よ。これから殺す相手とわざわざ挨拶を交わすようなヤツ、間違いなく気が触れているわ。あんたは『初めまして』と笑顔を向けた後で殺すヤツを正常な生物だと思ってるの?」

 言われてみれば、確かに。

 人を殺すというのは、思った以上に勇気が要る。抵抗されるかもしれないし、失敗する可能性を考えたら平静を保ってはいられない。なにしろ、この場合の失敗とは、相手にばれることだからだ。

 つまり、殺人者は相手を殺そうという意思を見せた時点で失敗する。それが殺す相手であっても、周りの誰かであってもだ。

 それが殺人鬼なら、理由はもっと大きい。顔を見られたら、その場でおしまい。下手をすれば、ほんの小さな特徴でさえも見られたら失敗である。

 子供というのなら、なおさらだ。こんな夜中に出歩く子供が殺人鬼であるという可能性に気付かれてしまう。

 だとすれば、警戒心をむき出しにし、なるべくなら事を大きくしないほうがいい。もっとわかりやすく言えば、相手に見つかる危険すら冒せないのだ。『初めまして』などと声をかけるような事態になるなど、殺人鬼にしてみれば言語道断だろう。

「そう、気が触れているという意味では、その殺人鬼は立派にレミィの妹という証明になるわ。世間の目を知らない子供が世間の中で初めての殺人をし、その魅力に取り付かれたとなれば、間違いなく厄介よ。場合によっては、集団のど真ん中で爆弾を起爆するような事態にもなりかねない」

 パチュリーの言葉に、緊張が走る。

 これは、想像以上にまずい。一刻も早く見つけ出さなければ、被害という規模では収まりきらない事態になる。

 なるほど、妹が殺人鬼として活動しているなら、ぶっ飛ばして縛り付けないといけない。その意味を理解した。

「ちょうど日が落ちるわ。日に当たれば灰になるのが吸血鬼だけれど、そういうものだと学習した妹はこの時間帯から動き始める。どこに隠れているかはわからないし、隠れていないのかもしれないけど、とにかく、見つけるなら今のうちよ」

 レミリアが言って、私たち三人はバラバラに殺人鬼を追うことにした。



   ◇◇◇


 暗くなる前に、という話だったのだが、辺りはすっかり夜の闇に包まれている。ある意味、一番発見しやすい時間帯ではあるが、それでも状況は悪い。

 間違いなく戦闘になるだろう。その場合、フランドールの力を知らない私は勝てないかもしれない。

 パチュリーがお守り代わりだと言って寄越した懐中時計に目をやる。日付が変わるまであと四時間と言ったところか、夜明けまではさらに五時間が必要だろう。

 カチカチと、時計の音が焦燥感を煽る。おそらく、この音は私にしか聞こえていない。時間を意識しているのが、私しか居ないからだ。

「見つけたか?」

 一呼吸置くために立ち止まったところで、レミリアの声が聞こえてきた。彼女は吸血鬼という特性を利用して空から追跡していたのだが、それでも見つけていないらしい。

「いいや、見つかってない。あいにく『僕』は空を飛べないからね。お前より面倒なんだ」

 憎まれ口を叩く。同類を探すのがこんなにも大変だったとは、考えてもみなかった。殺人鬼は殺人鬼に惹かれやすい。一体誰がそんなことを言い出したのやら。

 あるいは、その条件に吸血鬼を加え損ねたから、惹かれずにすれ違っていたのだろうか。まるでレミリアが合流するのを待っていたように、周囲の気配が重くなっていく。

「お前を見つけたみたいだ」

 と、レミリアが言う。その意図を理解し、私は強引に呼吸を整えた。狙いは私じゃないが、私がヤツを探していることに気がついたのか。

 振り返ってみれば、闇が渦巻いている。夜の闇と、それ以外の闇。中心に見えるのは、金髪の少女だ。確かに、見た目だけならばただの少女で通る。

 私を追ってきたのか……?

 それにしても、似てない姉妹だ。私の感想はそれだけだった。

「ごきげんよう。お姉ちゃん」

 そいつは、『ありきたりな挨拶』を交わした。

 疲労を溜め込んだ全身を大げさに震わせ、力をこめる。

「……お前が、殺人鬼か?」

 周りの誰かに見られないように偽装した、スカートの中に忍ばせたナイフを取り出す。吸血鬼を殺すため、パチュリーがこしらえた銀のナイフ。考えてみれば、この場所に来てから初めて使う殺傷能力を持った獲物であった。

 ゆっくりと、その少女の前にそれを掲げた。

「殺人鬼」

 と、金髪の少女が言う。

「お前、人間を殺したんだってな……」

 雰囲気で負けてはいけない。恐怖は恐怖で跳ね返さなければならない。

「人間を殺した」

 端的に言葉を発する彼女は、最初の挨拶ですら、どこかで覚えた意味のない音の羅列だと扱っているように感じられる。

 まさか……。

「レミリア、お前の妹は、人語は話せるのか?」

 肝心な問題だ。挨拶とは言いつつ、それが意味を持った言葉という道具であることを理解していなければ、ただ発した音に過ぎない。それならば、これから殺す相手に多くの人間が使う音を聞かせて、落ち着かせようとしている可能性もあるのだ。気が触れているのではなく、必要だと感じてそうした、という可能性。

「……間違いだわ。あいつ、殺人鬼であることは間違いないけど、間違った。あれは……」

 吸血鬼が狼狽する。レミリアが到達した事実は、私のそれとは違う。その言葉は、ここから先の予定を大きく狂わせた。

「……私の妹じゃない」


 妹ではない。

 なるほど、そもそも前提が間違っていた。私は殺人鬼を探していたのであり、レミリアの妹であるフランドールを探しに来たわけではなかった。ならば、フランドールではない誰かが殺人鬼として活動していることに驚くのは、間違いだ。

 コイツはフランドールではないが、殺人鬼だ。ならば、私が探している相手で間違いない。殺人鬼ではなくフランドールを探していたレミリアにとって、こいつは対象外だろうけれど、私にとっては標的であることに変わりはない。

 単純に、殺人鬼はフランドールではなかっただけのこと。レミリアにとっては予定を狂わされたのだろうが、私の予定は狂わないのだ。

「質問には答えておくわ。妹は人語を話せる。私と意思疎通をするのに必要だもの。ただ、あれのことも知っている。あれは私の城の周りに住み着いたモンスターよ。なんて名前なのかは知らないけど、人間が主な食料であることはわかっている」

 レミリアは焦った様子も無く、諦めに近い口調で話す。こうなった以上、妹探しは中断するしかないと悟ったのだろう。

 しかし、なるほど、それで殺人鬼か。レミリアの話から考えると、こいつの殺人衝動は食事だ。食事がしたくてたまらなく、うっかり街へと足を踏み入れてしまったために、人を殺し始めたのだ。

 食べるために、人を殺す。目的と、手段。

 こいつは、やはり殺人鬼で間違いない。

「気をつけろ。こいつの能力は、目が見えなくなるほどの闇を周囲に撒き散らすことだ。本人は臭いか何かで追跡してくる。どんな小さな怪我でも致命傷だと思え」

 レミリアの忠告が耳に届いた瞬間、文字通り目の前が真っ暗になる。視界を覆う全ての光が閉ざされてしまったらしい。現実的な状況では無いが、魔法という超常現象を先に経験していたおかげで理解が早かったのは僥倖だ。

 声なのか音なのか、よくわからない何かが耳に届いた直後、レミリアが襲われるのがわかった。そういえば彼女は吸血鬼だ。血の臭いがするヤツを追うのなら、あっちが先に狙われてもおかしくはない。

 それを理解していたのか、レミリアは対処していたらしい。おそらく逃げたのだろうが、目標を見失ったらしい殺人鬼が壁に激突する音を聞いた。

 悲鳴なのか憤怒なのかわからない音を発し、今度はそれが近付いてくるのがわかった。とはいえ、こちらは銀製のナイフが一本あるのみ。対処の方法は限られている。レミリアのように見えない敵から確実に逃げられる保証もない。

 タイミングを見計らい、その音が最も大きくなったと思った瞬間にナイフを振った。切っ先には何も当たらず、虚しく空を切る音が響く。そして、そいつの姿を感じたとき、私の左腕はあっけなく痛覚に浸食されていた。

 獣に咬まれる痛みは、鋭いよりも気色悪いという言葉が似合う。ねっとりとした唾液に混じり、自分の血が腕を伝う。

 傷が目で見えないため、どの程度の傷かはわからない。推測だが、痛いと思ったときには、腕の一部の肉が引きちぎられていたらしい。痛みでおかしくなりそうな頭をどうにか正気に戻し、出来る限り冷静に状況を把握する。

 グチャ……クチャ……。

 弾力のあるゴムのような物体を咀嚼する音が耳を障る。その音に向かって、私は奔った。

 ナイフを前に構え、突き刺す格好で走る。見た目は悪いが、幸いこの辺りの視界は根こそぎ奪われているため、効率重視で事を進める。

 グチャ! と、弾力のある何かに突き刺さる感触がした。やつにナイフが刺さったらしい。

 甲高い金切り声と、強烈な腕の痛みによって正気を失いかけ、私は殺人鬼の次の一手をかわしきれなかった。

 結果から言えば、左腕が完全に千切られた。何が起きたのか、自分でもわからない。ともかく、強烈な痛みが鋭さを増したところで、その痛みの先が存在しないことを理解した。本来ならあるはずの重みが感じられないのだ。

 千切れた腕は音を立てて、地面に激突する。それを殺人鬼と勘違いし、一直線に走った。そこまでは、かろうじて理性が勝っていた。

 だが、意識を保っていられたのは、そこまでだ。私は拾い上げたそれが左腕であったことを確認した後、首に同じような痛みを感じ、今度こそ意識を失った。



   ◇◇◇


「作った直後に壊すなんて、ダメなヤツだわね」

 目を覚ますと、パチュリーが目の前にいる。引きこもるのは止めたのかと言おうとして、咄嗟には声が出なかった。

「幸い、食いちぎられてないから、首の傷はすぐに治るわ。左腕はまた新しく作ってあげる」

 優しさをあまり感じない口調で、パチュリーにそんなことを言われる。辺りの様子を伺うと、まだ夜の暗さは消えないが、それでも闇は消失していることがわかった。

 あの殺人鬼を殺したのか。

「いいや、生きてるよ。まあ、殺人鬼という存在は死んだけどね」

 レミリアが言う。だが状況が理解できない。つまり、あの少女は生きているが、殺人鬼としては死んだ、ということか。

「ああ。お前が刺した傷が心臓に届きかけていてね、ほぼ致命傷だ。それで、最後の一咬みでお前を昏倒させた直後に倒れたらしい。だが、アイツは人語を話せないはずなのに、意識だけで死にたくないと訴えてきた。それに、私としても、城の警備は必要だからね。契約を交わして生きながらえさせたのさ」

 ……この吸血鬼、相当お人好しだな。

 いや、もしかしたら殺したくない理由でもあったのかもしれない。私だって、相手が子供とわかったとき、出来れば殺さずに止めたいと思った。この吸血鬼も、どこかにそういう感情があったのだろう。

 あるいは。

「……妹に似ているのか?」

 私は問う。

 レミリアは答えなかった。そういうことか。

 この吸血鬼は、化物であろうが、とにかく生物だ。家族という言葉がどんな生物にとっても重要な存在であるのと等しく、こいつも妹のことを心配していた。

 妹のために自ら動くほど、家族に対して特別な感情を持っているのだろう。

 まるで姉妹のように寄り添う殺人鬼と吸血鬼。殺人鬼のほうには、先ほどは見られなかった赤いリボンが頭についている。

 そういえば、レミリアの帽子のリボンが消えている、と、今さら気付いたところで、それがどういう意味を持っているのかをおおよそ理解した。


 何とか立ち上がれるまでに回復した私は、その場にあふれている紅い雰囲気が一つではないことに気がついた。

 同様に、レミリアやパチュリーも、その雰囲気の発信源を辿る。

「ごきげんよう、お姉様」

 と、丁寧な挨拶を交わす声。発信源は空だった。上から見下ろす視線が重圧を与えているようで、私は気分が悪くなる。

 金髪の子供だ。確かに、よく似ている。レミリアにも、雰囲気だけなら、殺人鬼の方にも。

「勝手に城を飛び出して、一体何をやっていたの?」

 と、吸血鬼。

「殺人鬼という存在に興味があったの。だから、ここまで見に来たのよ」

 と、吸血鬼。

「まったく、しょうがないなお前は……。ほら、さっさと帰るわよ」

 と、吸血鬼。

 これが日常の会話として成立するのだから、恐ろしい生物である。

 もっとも、殺人鬼でないなら戦う必要はない。そういう意味では、私はすっかりその光景をただの映像としか思っていなかった。言葉が多少ズレているだけで、ただの家族の談笑だ。

 その映像は、出来れば長く続いてもらいたいものだ。だが、完全に油断しきった私の眼には、そんな映像の裏側を読み取ることが出来ていなかった。

「殺人鬼、殺しちゃったんだね」

 吸血鬼の妹様が言う。雰囲気がガラリと変わり、その言葉の意味を図り損ねてしまう。このときは、私はフランドールの言葉に殺人の悲しさを感じたように思っていた。だが、それは逆だったのだ。

 殺人鬼という存在が消えただけで、あの少女は生きている。つまり、フランドールが言う『殺人鬼を殺した』とは、興味の対象を奪われたということになるのだ。ならば、子供がそんなことを口にするのなら、それは悲しみというより憤怒が正しい。

 それに気がついたとき、私の胸元が破壊されていた。はじけ飛ぶ、という言葉がふさわしい。とにかく、私は爆弾を抱えたまま破裂してしまったような錯覚を感じつつ、痛みすら感じるのを忘れて、その状況に翻弄された。

「せっかくのオモチャ、あんたが壊したんでしょう?」

 この一言で、この爆発がフランドールによるものだと気付いた。その言葉を最後に、私の耳には何の音も届かなくなってしまう。

 吹き出る血が自分のものであるという実感もない。周りの音が聞こえない。カチカチ、時計の音だけが耳の奥にこびりついて離れない。痛みすら私は感じていない。

 これが、死ぬという状況なのか、あるいは、精神だけの私が体の死に合わせて感覚を閉ざしたのか。ともかく、この吹き出る血が私に何かを訴える。他の誰もが、私に対して驚愕の目を向けている。誰もが悲鳴一つ上げられないほど、私の周りは紅い何かが支配している。

 紅い、紅い、紅い―――

 異常な、空間―――


 吹き出る血が、完全に固定されていた。流れ出るのでもなく、吹き出た形をそのまま保ち、空間に固定されている。ほとんど固形物であると言っても過言ではないそれは、私の周りの異常を一番わかりやすく伝えていたように思う。

 周囲の生物の目だけならば、おそらく驚愕だけしか読み取れない。レミリアの未来幻視ならば、あるいは何か別のものが見えたのかもしれないが、見た目をそのまま受け取る私には、私が致命傷を負ったことに驚いたという結末しかわからない。

 いや、それですらおかしい。なぜなら、他の全ての生物、および全ての現象が停止することはありえない。それは、まるで正常に再生されていた映像を突然停止させたかのような、自然の中の不自然を切り出していた。

 目に見える全ての現象が、私の周囲で固定されている。固定された空間の中に、わずかに見えた動く映像は、自分が持つナイフの落下であった。おそらく、そのナイフは私と同じく、この停止した空間の中で動き続けられる。

 そのナイフを拾い上げ、痛みで支配されたはずの自分の体を見下ろす。不思議と、違和感はない。なぜだか、痛みは感じない。レミリアの体の中にいたときのような、炎で焼かれた痛みを思い返すが、それすら全く感じない。

 その爆発を起こしたと思われるフランドールを見上げてみた。まだそこにいる。左手を前に突き出し、握るような格好で止まっている。明らかに不自然で、明らかに作り物のようなそれを見上げ、しばらく呆然と、現在の状況を考えていた。

 そういえば、時計の音が聞こえない。カチカチと聞こえてきた、パチュリーからもらった懐中時計。その時計を手の中で開き、それを視界に捕らえたとき、私は唐突に理解した。

 これは時間が停止しているのだ。周囲の全ての時間が停止し、私だけがこの中で動いている。あのフランドールの爆発によって死に掛けた私は、周囲の時間の感覚と、自身の感覚がズレ、やがてそのズレが最大まで振り切ることで、まるで周囲の時間が停止したような錯覚へと変化した。

 その錯覚の中を、こうして動いている。

 まさに、未来幻視ならぬ『瞬間幻視』という状態。これが現在の映像を切り取った静止画であるなら、ここに何らかのアクションを仕込むことで、次にこの静止画が映像になった瞬間に、私の思うとおりの結末を作り出すことが出来る。

 試しに、私は銀のナイフを吸血鬼の妹に投げつける。恨みというより、ただの八つ当たりだ。こんな世界に連れてきてくれた礼もあるが、ひとまず、生命を脅かしたことに対する憤怒の感情をぶつけた。

 ナイフはある瞬間に停止し、私から離れるとどんなものでも停止すると理解した。その停止した時間を解除すれば、あのナイフはフランドール目掛けて飛んでいくことだろう。

 ここでの問題は、どうやって解除すればいいか。それは、パチュリーの時計が解決してくれた。

 私は時間停止を念じたわけではなく、この規則正しい周期の音が遅くなるのを感じたのだ。ならば、今度はこの音を早めようとすればいい。

 無音の時計を耳に当て、音を思い出す。それが聞こえているという幻想を頭の中で繰り返す。

 次第に、胸に痛みを感じるようになってきた。痛覚が私を支配する。それが段階を経て、私の精神にまで到達する。

 カチッ……。

 音がした。それに連なる爆発音が大きく響く。私の胸をえぐったあの爆発の余韻だ。その瞬間、私は耐えられないほどの痛みを胸に取り戻し、その場に倒れた。


 痛覚によって意識は保っているものの、そのせいで体が言うことを利かない。

 視界の隅で、先ほど投げたナイフの行き先を確認する。おおよその思惑通り、生意気な吸血鬼の妹の額に深々と刺さったらしい。

 それで死ぬようなら、運が悪かったと思ってもらいたい。だが、やはり思ったとおり、それだけでは死ぬことはなかったようだ。

「この……クソアマァァァァ!」

 かろうじて耳に届いた声は、先ほどお姉さまに向かって『ごきげんよう』と発していたのと同じ場所から発せられた。

 その言葉を発した少女が、左腕を私に向けていっぱいに伸ばす。目で追うよりも、感覚が警鐘を鳴らす。これが、先ほど私の体を爆破したときの動作なのだろう。

 ならば、その前に何とかしなければ。しかし、痛みで体が動かない。意識が飛びそうになるのをどうにか抑えるのが精一杯だ。

 ふと、パチュリーがペンを差し出したのが見えた。一体何をするかと思いきや、そのペンに関する私自身の体験を想起させただけで、特に他の意味はなかったように思う。

 しかし、それが重要だったようだ。私の感覚は、再び現実の時間からずれ始める。


 爆発は一瞬だ。つまり、相手が爆破するという意思をこめたら、もう逃げられない。だとすれば、この瞬間に結末が決定したのだ。

 それは、パチュリーがペンから手を離した瞬間、私の左足に刺さるという結末を迎えたあの時のようなものだ。未来幻視の説明に使用された文句を並べられ、そのペンが刺さるまで気付かなかったのと同じ。強制的に結末を決定されたようなものなのだ。

 現在の情報を分析し、未来に起こる事象をあらかじめ予想する。これが未来幻視である。だとするなら、そこから抜け出すための結論は一つしかない。決定した結末を覆すためには、現在の情報を改変する必要がある。

 眠り始めた時間と、起きる時間。このうち、眠り始めた時間を狂わせれば、起きる時間という結末は変化する。だが、眠り始めた時間は過去である。それは変化を起こしようがない。劣化や勘違いはあるだろうが、変化はしない。

 変化を起こせるのは、常に現在だ。ならば、現在とはどこにあるのか。眠り始めた時間は過去で、起きる時間が未来ならば、その間だろう。狂わせるのは、その瞬間だ。

 すなわち……。


 未来幻視が行われ、その結末が確定してから行動に移される間。

 そこで時間を止めて、情報を改ざんする。


 フランドールは目の前の光景を疑ったことだろう。爆破したはずの私が目の前から消失し、あろうことか、彼女の背中に張り付いていたのだ。

 痛みによって意識は飛びかけていたが、止まった世界では痛覚が麻痺しているらしい。どういう理屈かはわからないが、胸の辺りが抉られているというのに、平気で跳躍が可能であった。

 その場にいた全ての生物は、私という存在が瞬間的に移動したようにしか見えないだろう。その間に起きた全ての事象を説明する必要はないが、私はフランドールの真後ろへと、建物の窓や壁を伝って移動しただけである。

 任意のタイミングで行えるかが不安ではあったが、パチュリーのペンがそれを解決した。瞬間的に過去を思い返したために、私の感覚は時間と切り離されたのだ。時計の音を聴いた瞬間と同じ、私の精神が現実の時間とは違う感覚に支配されたおかげで、時間停止の力を発動することができた。

 あるいは、これはパチュリーが思い描いた姿だったのだろうか。私に何らかの理由で時間を止める魔法を使わせることが目的で、あのペンを差し出したのだろうか。

 しかし、今は詮索する時間ではない。まずは、目の前のこいつを何とかしなければ。

「どうやったんだ……詐欺師め」

 フランドールが恨んだような声を出す。人聞きの悪いことを言うガキだ。私は詐欺など行っているつもりはない。

 私は右手一本で握ったナイフを、フランドールの心臓に思い切り刺すために振りかぶる。

 フランドールは三度目の正直と言わんばかりに、左手を私の心臓目掛けて伸ばしてきた。

「死んでしまえぇぇぇ!」

 彼女の叫び声と共に、左手が握られる。未来の映像が目に浮かぶ。この左手の中に起きた小規模な爆発は、そっくりそのまま、私の体を破壊するだろう。

 未来幻視ではないが、私にもそれは理解できた。これで三度目だ。私はとうとう、自分の目に映る世界が現実ではないことを確認する。これは、あの吸血鬼のガキの中で見た映像と同じものなのだ。

 瞬間幻視。つまり、一瞬の間に起こるさまざまな出来事を、その目に静止画として切り出し、その中を自由に移動をしているだけに過ぎない。

 言うなれば、切り出した立体の静止画の中を移動するようなものだ。そしてその静止画を元に、次の瞬間にどういう動きが起きるのか、それを推測する。私の目と頭は、ここで私が死ぬという結末を容易に想像させるだけの証拠を確認し、導き出した。映像が再生されれば、私は確実に死を迎えることだろう。

 だが、その映像は再生されることは無かった。

 一瞬早く到達した私の右手が、彼女の心臓にナイフを突き立てていたのだ。その姿を目で捉えた彼女は、その心臓に刺さったナイフが自分を閉じ込める鳥かごであることに気がついた。これはナイフではない。アゾットという名の精神の鳥かごなのだ。

 私も一度体験したからわかる。これに刺されると、精神がそこに閉じ込められた気分になるのだ。そして、そんな錯覚が現実を支配し、やがて鳥かごの中にいる自分を幻視する。

 フランドールは力なく腕を落とし、意識を失ったように建物から落ちた。胸に刺さった、宝石の装飾があるナイフを無意識に握るが、結局、彼女の姉が受け止めるまでナイフは抜けることは無かった。



   4


 目を開けると、大図書館の真ん中にいる。修復が完了した体に私の精神が戻り、ようやく私は人間と同じ形に戻った。

「研究の成果という意味では上出来よ。能力の発動は可能だわね。ただ、問題はあんたが使いこなせるかという点」

 開口一番、パチュリーから告げられた言葉はそんな風だった。相変わらず研究が大好きな彼女は、とうとう私を実験台にして何かの研究を行っていたらしい。

 詳しく語り出した彼女の小難しい話は、そのままでは理解しがたい。かいつまんで言えば単純に聞こえるそれは、どうやら私が魔法のような力を使えるかどうかということらしい。

「クリック音、この場合は時計の音ね。とにかく、その規則正しいクリック音を聞き続けると、人間は時間の経過が遅くなったように感じるそうよ。それを利用して、あんたの感覚が時間が止まったように感じるかどうか。それをクリアしたら、今度はその感覚に体を従わせる。そうすると、時間が止まったような錯覚に陥って、実際に時間が止まっているという前提で行動ができるようになる」

 訳『あんたに時間を止める力をあげるから、使いこなせたら報告しなさい』

 回りくどいというか、説明するのも好きなのだろう。ともかく、要約すればそんなところだ。私に能力を授けたと言えば聞こえはいいのだろうが、残念ながら実験を行ったというほうが正しい。もちろん、正しい意味での人体実験である。

「あんたは精神と体が別人だからね。しかも、体は誰かのものではなく、ただの人形。術式を仕込むには最適だわ。だから、精神が感じたものをそのまま体に伝えるようにしておいた。その気になれば、時間どころか物理法則すら捻じ曲げられるかもね」

 訳『そのうちまた改造するわよ』

 嬉しそうになんてことを考えているんだ。

 ともかく、パチュリーの研究は私の体を改造することではないのだろう。私の体を媒介にした魔法の発動がテーマなのだろうか。このままでは、フランドールに破壊された胸に何かを埋め込まれていそうだ。

「パチュリー」

 と、舌足らずな子供の声がした。あの殺人鬼はレミリアが飼うことにしたらしく、ご丁寧に毎日同じリボンを頭に巻いている。

「正解。こいつは私の親友のパチュリーだ。よく覚えたね。えらいよ」

 レミリアはまるで我が子を可愛がる親のような顔と口調で頭を撫でた。仮にも殺人鬼で食人種の子供に、そこまでの愛情を見出せるとは。

 詳細は後から聞いたが、私が刺したナイフの傷が深く、放っておけば死ぬところだったのを、レミリアが自分の血を与えることで助けたらしい。

「私は血しか興味が無いからな。飲んだ後の人間の肉の処理に困っていたのさ」

 と、吸血鬼は答える。なるほど。身も蓋もない言い方をすれば、ちょうどいい『ゴミ箱』がそこにあったわけだ。全くもって酷い話ではあるが、こうして言葉を教えている姿を見ると、そういう気分は引っ込んだ。

 この吸血鬼は、建前と本音を使い分けるような性格をしているのだろう。表にこそ出さないが、心底、この殺人鬼を気に入ったらしい。

「ちなみに、ルーミアって名前をつけてあげたわ。使役するためには、吸血鬼である私の血と、名前を与えることが条件なのよ」

 と、レミリア。自分の名前をもじって、そう付けたらしい。

 名前を呼ばれたと勘違いした殺人鬼改めルーミアが、こちらを振り返った。

「レミリア」

 と、レミリアを指差す。主人の名前さえ呼び捨てにするのか、こいつは。

 しかし、当の本人は偉く気に入っているようで、自分が飼っているペットに呼び捨てにされても気にしないようである。傍から見ると威厳の欠片もない。

「ちなみに、お前にも名前をつけてあげるわ」

 と、吸血鬼。私はお前の犬になんてなりたくない、とは言ってみたのだが、私はそいつに、強引に名前を押し付けられる。


「お前はこれから、十六夜咲夜と名乗りなさい」


 いざよい、さくや。

 私はその名前をすぐに忘れたかったのだが、パチュリーが言うには、レミリアは運命を操るという。拒絶は無意味という意味か、私が自らその名前にすがるようになるのか。

 おそらく、その十六夜咲夜という名前は生涯使い続けることになるのだろう。強いて言えば、レミリアが今手に持っている本から適当に付けられたというのが気に食わないが、男名であるジャックよりは現実的な名前である。

 しかし、私に名前を与えた理由について、レミリアは不思議なことを言っていた。パチュリーも仕方ないからと納得したその理由は、私の耳にこびりついて離れず、しかし、意味のわからない呪文のような言葉として記憶された。

「お前の瞬間幻視、いや、時間停止か。それが私の未来幻視を殺せるきっかけになるらしいからな。パチェの悪巧みの芽は早めに摘んでおきたいのさ。それに―――」


―――『ホムンクルス』って、名乗るわけにはいかないでしょ?




   ―――魔法使いと吸血少女・終


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