魔法使いと見習い悪魔
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眠ってから何時間が経過したのか、それを体感で知るのは難しい。なにしろ、眠っているということは、そのときの外部からの情報を遮断しているということと同義であるからだ。
もちろん、眠った時間と起きた時間さえ覚えていれば、何時間の睡眠であったのかは分かる。
だが、そのとき見た時計が、眠っている最中に狂ってしまったとしたらどうだろう。
何時に寝て何時に起きたのか、それを知るための情報は、自分では得られない絶対的な基準のみである。だとすれば、この状況の説明をするのはたやすい。
僕は眠ってしまっていた。それが何時間であるのかは分からないが、少なくとも、夜中に眠り始めたことは覚えている。
ならば、目の前の風景に太陽ではなく月が存在するのは、極端に寝ていない場合か、極端に寝すぎた場合かのいずれかである。
ところが、先程の条件を踏まえて話をすすめるのなら、僕が寝始めた時間こそが狂っていたのだ。ベッドにもぐりこんだとき、その時計は深夜二時をさしていたように思う。
だが、違った。僕は現在の情報ではなく、過去の情報を疑うことにした。過去、つまり寝始めた時間こそが間違いであるのだ。
「ある意味、正解だわね」
と、声が聞こえた。まるで少女のような声であり、ずいぶんと色々な経験を踏まえたような落ち着きを含んだ発音だ。
振り返る間もなく、後頭部に強い衝撃を感じる。
「避けるわけでも、防ぐわけでもない。ひょっとして、ただの人間なのかしら」
同じ声で、今度は疑問文の形で音が発せられる。おそらく、何かを試し、反応を見たというところだろう。
そこでようやく、僕は振り向くことができた。声を発したその人物は、顔全体を覆うような形で本を掲げ、書かれた文字を喰らうような格好をしていた。
その異様な光景に、ほんの少し、思考が停止する。
「人間というのなら、会話は可能だわ。あなた、私の言葉は分かる?」
彼女が顔を覆っていた本をどける。その顔には、ほほにうっすらと黒いインクが擦れていることを除けば、美少女と呼んでも差し支えのない魅力があった。
「……それほど知能は高くないか。意思疎通ができるまで大変だわ」
と、彼女が言った。
「ま、待って……。あまりにも突然すぎて、ちょっと混乱しているだけで……」
僕の口をつついて出てきた言葉は、彼女の問いに対する答えよりも、自分の知能が低く見られることへの反論が大部分を占める。
彼女は、僕が発した言葉の意味を理解したのか、こう切り替えした。
「適応力が無いからそうなるのよ。やっぱり知能は高くないわ」
その言葉を聞いた直後、僕の目の前の景色の中には、明らかに僕が知る量子力学の世界を超越した存在が顔を覗かせていた。
まず、炎は生き物の形にはならない。ゆらゆらと揺らめくだけであり、その形や位置は、ろうそくなどの燃えやすい媒介によって決定される。
水は、空中には浮遊しない。重力にしたがって地へと落ち、その形も、器によって決定される。
だから、僕が見ている景色の中に存在する、鳥の形をした光る物体と、半透明でやわらかそうな球体は、それぞれ、炎でも水でもないはずである。
「驚いている間に、あなたはこの子達に殺されるわ。普通、得体の知れない場所に来てしまったら、言い訳するよりも身構えるのが正解。よく覚えておきなさい」
彼女は言って、炎でも水でもないはずの物体を消失させた。
眠る時間が狂ったか、起きた時間が狂ったか、その間が狂ったか。
とにかく、現実というものは、簡単に捻じ曲がるのだ。炎は鳥の形になるのが当たり前で、水は空中に浮遊するのが当たり前。
そんな現実が僕の目の前にあり、それが今まで僕が知っていた現実と違うというのなら、どちらか、あるいはその間のどこかが狂っている。
現実が狂うとは、到底思えない。なにしろ、それが体験であり、経験であり、自分の五感を通して語られるリアルという存在なのだ。
だとするなら、僕が疑うべきは目の前の超常現象だらけの現在の光景ではなく、その超常現象が一つも発生しないという偶然が続いた過去の光景のほうだ。
「自己紹介がまだだったわね。私はパチュリー・ノーレッジ。あなたは?」
彼女―――パチュリー・ノーレッジは淡々と告げる。自分の名前を特別でもなんでもないように扱うことができるのは、彼女が自身と他人の区別をしないからだろうか。
ジェラードのようにかき混ぜられた頭の中から、ようやく求められた回答を探し当て、僕は静かに、自分の名前を告げた。
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そもそも、この事態の一番の原因は彼女にあった。
パチュリー・ノーレッジという名前の女性は自身の妄想を具現化することに御執心なようで、僕がここに呼び出されるまでにも何度か似たようなことをしていたらしい。その際、必ずと言っていいほど体調を崩し、理想とは若干かけ離れた結果を目の当たりにしては憤慨するという。
その結果が、抜け殻や人形のように見える人間型の物体の集団だ。乱雑に転がされた人の形が辺り一面を惨状のように装飾し、どこの戦場かと見間違うほどである。
おそらく彼女は研究することが楽しくて仕方ないのだろう。理想が行動の基盤となっているのとは真逆、行動の指針として理想を取り繕っているだけなのだ。欲望ではなく欲を満たそうとする行動のほうが目的となり、欲望がその手段となっているだけなのだ。
だからこそ、彼女の欲望は現実から大きくズレていることが多い。今回もそのズレが、僕をここに呼び出すという矛盾を現実にしてしまったのだ。
なんと、彼女が僕を呼び出したかったのではなく、彼女が呼び出そうとした非現実的な生物に適合したのが僕ということらしい。しかも、その生物の俗称はいわゆる人間と同義の架空生物とのこと。
「あなたが選定された理由は不明だけれど、きっと私が条件を絞り損ねたのね。なにしろ、私があなたを呼び出したときの条件は、確かに満たされているのだから」
嘆かわしい。僕はこの女性が指定した条件であるところの、『不思議な力を発揮して生活に利用している』『自分勝手でいい加減な』『それでいて周囲の環境を自分に都合のいいように改ざんする能力を持つ』『悪魔』という条件に適合する生物と判断されていたのだ。
いや、まてよ。確かに僕はこの条件に適合してしまう。なにしろ、木や石をこすったりぶつけたりするまでも無く一瞬で火を起こし、自分が手の届く範囲にしか慈悲の精神を向けたことが無く、意味不明な家具や衣装を買ってきては部屋に野放しにするのだ。そして多くの生物から見れば、これほど傲慢に自分の生活を環境に押し付ける生物など悪魔でしかないだろう。
ああ、なんということだ。これでも周りに迷惑を掛けないようにと頑張ってきたというのに、悪魔と言われて納得せざるを得ないとは。
「ところで、これからあなたのことをどう呼べばいいのかしら」
僕が自身のカテゴライズに憤慨している間に、偉大なる召喚術士パチュリー様がそんなことを気にしていたようだった。よし、これを利用して汚名を返上することにしよう。
「天使で」
「却下」
あっさり撃沈。せめて呼び名くらいそれっぽくしてほしかったが、そんなワガママは許されないらしい。
仕方が無いので彼女の好きに呼ばせようと考えたが、しっかり決めないと不名誉な呼び名を強制されかねない。せめて名前で呼んでもらえるとありがたかったが、あいにく彼女にとって僕の名前は非常に発音しづらいものらしく、日常的に発する単語としてはふさわしくないようだ。
ならばその名前を発音しやすいように改変すればどうかと考えたが、どうもうまい具合に改変できず、どうしても彼女が気に入りそうな名前にはならなかったのだ。
「既存のものを改変してもダメなら、新しく生み出す以外に解決手段は無いわ」
そのように結論付けられたらしい。そういうわけで、僕は何の関連もなく語感だけの自分の呼び名を考えるという不毛な時間を要求されたのだが、要求した彼女があっさりとそれを解決したようで、
「これからあなたを呼ぶときは、この鈴の音を鳴らすことにするわ」
言語ですらないのか。
ことあるごとに彼女が鈴を鳴らす姿は、思っていたより様になっていた。だからこそ異様に腹が立つのも理解できたが、出会い頭に頭をぶん殴った挙句に火炙りと水責めを同時に行えるような人物に逆らうこともできず、僕はその場所にいる間は始終鈴の音に耳を傾けなければならなくなった。
鈴自体は特殊なものではない。何種類かを一度に鳴らすため、カシャンだとかチリンだとかいう音が混ざって聞こえる程度で特に妙な機能を備えているわけではなさそうだった。
「そもそも、私は思うのよ。人に名前をつけるのは愛着を込める以外に意味があるのだろうかってね。何しろ、目の前の人物に『あなた』って言えば分かるはずの行為に固有名詞を持ち出す必要性が感じられない。だから、それが名前なんてものじゃなくても、例えばある音を聞いたらそれが誰を指しているのかが分かれば十分だわ」
ああ、それで僕は鈴の音なんですか。そうですか。
「だから、ネズミを指差して『ネズミ』と呼ぶのと同じように、人間を指すときは『人間』でいいはずよ。『悪魔』も同じく。本来ならね」
ウンザリした様子もなく、むしろ楽しそうに彼女はそんなことを言った。やはり彼女は研究が楽しくて仕方ないのだろう。
人間は人間と呼ぶほうが合理的。それならば、これから彼女を『人間』と呼ぶことに……。
「ちなみに、私は人間じゃなくて『魔法使い』という種族だから、そのあたりを間違えないでね。あと、『魔法使い』には種族と役職の二つの意味があるから、私を『魔法使い』と呼ぶのは禁止よ。ややこしいから」
この女、いい性格してる。
と、本来僕が持っていた感情表現やその他諸々の特徴などが、ようやく体のほうに戻ってきたことを感じる。何しろ、僕はここに連れてこられてから、状況を追うばかりで余裕が無かったのだ。
ついでに判明した事実だったが、僕はこの場所に連れてこられる以前の記憶を、一部を除いて失っているらしいことが分かった。その一部の記憶があるからこそ、最低限のパーソナリティは把握していたわけで、それを失ってしまったらもはや僕は僕ではなくなるだろう。
その唯一の基準と呼べるものを失くさずに持っていたことは大きい。自身が把握できていれば、その他の現象や現実はそれとの対比でどうにでもなる。事態の把握は難しいかもしれないが、それでも自身さえ無事なら問題は無かった。
また、一度事態を把握してしまえば後はそれを現実として扱うだけで良く、そういうものとして捉えていけば、案外単純な仕組みでできていることがわかる。例えばこの場所は本がたくさんある上に彼女の専用のテーブルが用意されている。その奥に鎮座する良く分からないオブジェクトはただの飾りと判断してしまえば、ここが図書館の一部なのだということは容易に結論付けられるのだ。
問題は図書館の一部となっているはずのこの場所で、悪魔を召喚するなどという意味不明な研究をする理由と痕跡だ。そのせいで、とても図書館の一部に見えなくなっているのも事実である。
あるいは、ここに連れてこられた時点で僕の常識が通用しないというのなら、図書館で悪魔を召喚するのは自然なことなのかもしれない。だとすれば、僕が今まで思い描いていた静かで変哲のない書籍貯蔵用倉庫こそが図書館であると勘違いしていたことが間違いなのだろう。
間違っているのは目の前の現実ではなく、自分の認識なのだ。そうでも思わなければ、頭の中がソフトクリームみたいな状態になってしまう。
とりあえず、不本意ではあるが呼び名も決定し、無くて困ることが解決したとなれば、次は無くてもいいがあったほうがいいものを探すべきだろう。
ここでの僕の役割についてだ。客人として招かれたわけではないのなら、やはり何かをしなければならない。具体的に何をすべきか、彼女は語ってくれない。ならば、自分で判断するしかなさそうだ。
判断材料は、やはり彼女が僕を呼び出したという事実だろう。彼女が悪魔を召喚しようとして、間違って僕を召喚してしまったのは事実だ。だとすれば、僕がすべきことは一つしかない。
彼女の望みを叶えてあげればいい。実は僕が悪魔でしたなどというオチは想像したくないが、そういう結末も考慮しつつ、とりあえず彼女が悪魔を召喚して、何をさせようとしていたのかを聞き出すことにした。
正直、返答は期待していなかったのだが、彼女は研究の後でどうやって悪魔を『処理』するのかを話してくれるようだ。
「当面は『使役する』わね。だから、悪魔じゃないけどあなたでも十分できそうだわ」
ああ、なるほど。文字通り使い魔が欲しいわけですか。それも、とびきり上等なモノを使役したいわけですね。決して、悪魔で執事とかそういうのがやりたいわけじゃなくて、純粋に魔法使いとしての体裁を整えるのが重要なわけだ。
「あなたに執事は無理そうだわね。使用人くらいなら何とかできそうだけれど」
言いにくいことを直球で話すのは特徴として捉えていいのだろうか。
「そうじゃないわ。だってあなた―――」
と、彼女は口ごもる。言われなくても分かっている。僕はどうやったって執事にはなれないだろう。何しろ、執事であるための最低条件を満たすことができないのだ。
あまりに当たり前すぎるそれは、本人から見れば言われるまで気付かないのが当然だ。というよりも、気付くとか気付かないものじゃなくて、意識することすらあまりない。だからこそ、改めて紹介するまでもない当たり前の事実として扱われるのが普通だったのだろう。
だが、最初に述べたとおり、僕は目の前の事実こそが本物の現実として扱わなければならないと思っている。だから、これからはこの事実も同時に考えることにして、とりあえず、彼女が言ったその言葉が、女性から言われた言葉にしては、別の意味を含められている気がしてならないことに違和感を覚えた。
◇◇◇
彼女の望みはおおよそ達成できそうだ。異常な広さを誇る規模の図書館で本棚の整理をするという仕事をこなしていれば、自然と一日が過ぎていくことだろう。
それに、彼女が僕を呼ぶときは鈴を鳴らすので、それに注意を配っていればいい。幸い、この図書館の端に居ても鈴の音は聞こえるし、どうやら僕がそこに辿り着くまで鳴らし続けるつもりらしいので、見失うことはない。
図書館に関わる仕事としてなら、このまま鈴がなるまで本棚の整理をするだけで十分らしい。問題は彼女に関わる仕事の内容だ。
彼女に関わる仕事のうちで、ほぼ九割が紅茶を淹れることに関係する。ただ淹れるだけではなく、読んでいる本の内容や研究の進み具合によって、飲みたい葉の混合率が変わるそうで、細かく指定されることが多い。おまけに砂糖やミルクの有無まで変化するため、残念ながら彼女の好みを分析する材料は皆無と思ってよさそうだ。
「こういうのは、雰囲気を作るところまで含めて書物なのよ。公園でのんびりと魔術書なんて読むより、研究室に篭って読んだほうが頭に入りやすいわ。だから、紅茶はその要素の一つなのよ」
なるほど、わからん。
少なくとも、小説のような物語としての雰囲気を感じるために場所を変えたりするのは理解できるが、彼女が読んでいるのは大真面目に魔法を解説する魔術書である。
「研究には研究の雰囲気があるのよ。魔法の研究をするときは、周囲に霧が発生しているほうが雰囲気が出るでしょう。けれど、それが科学の研究なら、白い部屋で白衣を着ていたほうがいい」
と、パチュリー。
言っている意味はなんとなくは分かるが、それは個人の趣向ではなかろうか。僕はむしろ、科学の研究こそ真っ暗な部屋の中に小さな電球をつけてやっているイメージがある。
ともかく、彼女の要求は紅茶である。それが達成できてしまえば、僕がどういう意見を持とうが関係ない。なにしろ、それを要求する彼女が満足できていれば、お互いに不必要な論争を行うことなく目的が達成されるのだから。
彼女にとって紅茶は手段の一つであるが、僕にとっては目的である。紅茶を淹れたら、僕の役目はおしまい。つまり紅茶さえ淹れてしまえば、僕の意見はどうでもいいのだ。
これが使役というものであると、彼女は言う。なるほど。自身の目的を達成するための手段を彼らに目的として与えることが使役であるなら、無駄な契約などする必要はない。なにしろ、簡単なお願いをするだけでいいのだ。
楽をしたいという目的のために、身の回りの整理や自身の世話という手段を他人に目的として任せる。これで使役したことになるのだろう。
余談だが、報酬という別の目的が発生することで雇用という呼び名に姿を変えることもあるが、その場合は雇用される側にも拒否権が発生するため、使役とはまた別のものになる。
あれ、てことは僕には拒否権が無いのか。
「無いわ。大体、あなたは自分が居た場所すら思い出せないんだから、私を拒否したら居場所がなくなるわよ」
さらりとそんなことを言うパチュリー。
先ほど判明した事実の延長だが、僕は自分がどこから呼び出されたのかを覚えていなかった。自分の名前や直前の行動などは思い出せたのだが、どうやら住んでいた場所の名前を覚えていないようで、行き先を指定して送り返すこともできないそうだ。
差出人が住所不明では送り返すのは難しい。しかも、その差出人の名前は象形文字で書いてあり、発音が分からない。彼女にとってはこんなところだろう。
「まあ、運が悪かったと思いなさい。それに、そのおかげで別の研究を始められそうだわ。私にとっては幸運ね」
パチュリーは読んでいる本から顔を上げず、適当にあしらうように言う。
やっぱりこの女、いい性格してるわ。
別の研究、とはいえ、やはり彼女は悪魔を召喚するための研究を行っているのは明白だ。なにしろ、彼女の周りからそれっぽい書物がどかされていないのだから。
どうやら彼女は研究に必要な資料だけを選定し、それで自分の世界を埋め尽くしていないと落ち着かないようで、時々間違った資料に手を伸ばしてしまうと、それを乱雑に本棚に突っ返す様を見かける。しかも、決まってそういう場合は眉間のしわが多く、せっかくの綺麗な顔が台無しになる。
そういった資料を元々あった場所に返すのが、今の僕の仕事の大半を占めるわけだ。確かに世話係という意味では正しいかもしれない。もっとも、それは彼女の世話ではなく、乱雑に突っ返される資料たちの世話である。
そう言った資料が元々どこに存在していたかが分からなくなることもあるが、溜めておいて後で聞けばいい。大まかなカテゴリーくらいは僕にも分かるし、幸いこの図書館は初めから全ての棚が乱雑になっているので、僕の好きなように並べ替えても気にされないようだ。
あるいは、彼女も気にしてはいるものの、時間が無くて整理していないだけなのか。一応、彼女に断ってから並べ替えてみようと、僕は彼女に資料の整理について聞いてみた。
パチュリーは少し考える素振りを見せたが、聞かれた内容について考えているふうではなく、おそらく僕にそれを任せてもいいのかを考えているようだ。返答が返ってくるまでの数秒間、僕は自分の印象がそこまで悪いのかと悩む。
「さすがに大幅に変えられると気になるけど、この際だわ。あなたマメそうだし、種類ごとに並べ替えてもらってもいいかしら」
ようやく帰ってきた返答で、僕は自分の印象を嘆く必要がないことに安堵した。
資料をまとめた空間ならば、本来はどこに何があるかを探す手間を省くため、あらかじめ何をどこに置くかを決めておくのが正しいあり方だ。むしろ、今まで乱雑に置かれていた資料の山の中で、スムーズに研究が進んでいること自体が不思議である。
いや。あるいは。こんなにも乱雑な資料の山の中だったからこそ、間違って僕が呼び出されてしまったのか。
「まあ、正しいかどうかはこの際どうでもいいのだけれど、今の研究がちょうど『カテゴライズ』に関するものだったから、ふと思い立ったのよ。私がやるより、あなたがやったほうがいいでしょ」
彼女が言う。ああ、これも雰囲気を作るってことなんですね……。
だが、それが悪魔の召喚に関連する研究というには、あまりにも関連性が希薄ではないか。カテゴライズというのは、文字通り分類するということで、分類することが呼び出すことにつながるとは思えない。
「関係あるわよ。なにしろ、私が呼び出したいのは『悪魔』というより、『私が悪魔と認識しているモノの特徴に合致する物体および生命体』だもの」
と、パチュリーは意味不明なことを言った。
「例えば、『ワインレッドの長髪』『紅いマニキュア』という二つの特徴があなたを指しているように、私にも『薄紫の長髪』『本』というキーワードがある。だから、あなたを呼び出したいときは『ワインレッドの長髪』と指定すれば、少なくとも間違って私が呼び出されることは無いわ。けれど、これは私たちが思っているだけで、別の誰かから見れば違うキーワードになる」
と、彼女は言う。
そのキーワードを絞り込むことによって、目的の物体を指すことになるのだそうだ。一口に『悪魔』と言っても彼女と僕では想像するものが違い、同じ魔法の数式であっても回答が違うという事態になる。そうなれば、もはや数式は無意味であり秩序が乱れるため、一定の法則を決めておく。その中でも、直接その物体の名称を思い浮かべるのではなく、キーワードによって絞り込む形がもっとも効率がいいとされているようだ。
だが、そんな話を聞かされていても、自分には良く分からない。なにしろ、カテゴライズがうまくいかないのは悪魔の特徴を捉え損ねているからであって、分類する行為そのものは正しく行われているのだ。
強いて言えば、『ワインレッド』という色がどんな色かを分かっていないだけで、分類の仕方や分類する行為そのものは正しく実践されたようなもの。それ自体に間違いが無ければ研究する必要性を感じられない。
「まあ、このあたりはやって見せたほうがいいわね。簡単な召喚技法を見せてあげる」
パチュリーはそう言って、カップに残る紅茶を無理やり喉に流し込むと、手近な紙をつかみ、二種類の模様を描いた。一枚は円形の模様に文字や図形で装飾を加えた、いわば魔法陣と呼ばれているものでいいだろう。もう一枚の方は、文字に見えない文字が重なってできたトライバル模様に見えた。
「片方は召喚、もう片方は喚起。これら二つの模様には意味があるし、それらの分類法に従って結果を生む。ここに、私が呼び出す『炎』という現象のキーワードを込めるわ。例えば、炎は『ゆれる』『空気の』『活動』。そして、『周囲との温度差』と『幻惑を生み出すもの』かしら。この五つのキーワードが示すのは、さっき言った『炎』以外にも『冷気』があるわ。だけど、私はこの五つのキーワードだけで炎を召喚する」
と、彼女は言いながら、祈りを込めるように二枚の紙を掲げた。その瞬間、僕の視界には超常現象と呼ぶにふさわしい光景が広がった。
まず、パチュリー本体の周囲に現れたのは、まばゆい光とは裏腹のどす黒い塊だ。ただし、明確な形を持っていないためか、それはゆらゆらと蠢いている。よく見れば光を放っているのだろうが、残念ながら黒い塊から何かが立ち込めているというのが正しい表現に見えた。もちろん、軽く二メートルを超える大きさを誇るという点を考慮しての話である。
一方、パチュリー本体の方は、それとは逆に白い光を放つ物質となっている。蝋燭のような紅い炎ではなく、それに空気を混ぜたような青白い炎だ。その青白い炎がパチュリーの形を保ち、服装や装飾までも見事に再現していた。いや、これはおそらくパチュリーが炎そのものになったということだろう。
その光景は数分で収まり、強い光を放った直後に消失した。
「見てのとおり、二つの召喚技法の違いがこれよ」
と、いつも通りの姿で話す彼女は、焼かれた痕跡など全くない。
「召喚というのは、本来は自身の体にその物質や意思を宿す行為を指すわ。だから、私が炎を『召喚』したのであれば、私の体に炎が宿る。その結果、ああいう姿になるの。一方、喚起は外に物質そのものを再現すること。つまり、炎を空中に存在させることを指すわ」
要するに、自身の内側に宿すのが召喚であり、外に呼び出すのは喚起というらしい。ということは、僕は召喚されたのではなく、喚起されたということなのだろうか。
「それだけなら、私の研究はとっくに終わってるわ。でも、物質や現象を呼び出すのと、生命を呼び出すのでは意味が違うの。だって、『中』に入れたら外には現れないし、『外』に出したら中身がないんだもの」
ここで、僕はようやく話を理解した。つまり、中と外の両方が呼び出されなければ、彼女の召喚技法は失敗するのだ。
仮に僕を呼び出すとすれば、僕の体をこの場所に『喚起』するだけでは僕の体を再現した蛋白質の塊でしかない。動きもしないし、喋りもしない。いや、実際には内臓の活動や呼吸などのシステムは動いているのだが、そこにソフトウェアは存在しない。再現されたその体に僕の意思を『召喚』することで、ようやく僕という生命がここに現れる。
問題点は、その二つの召喚技法のキーワードの解釈が違っているという部分だ。
「そう。『ワインレッド』という色の解釈が私とあなたで違うのなら、呼び出される色は違ってしまう。片方は深みのある赤で、もう片方は血のような紅。これを一致させるためには、お互いにどういう基準で分類しているかを知る必要がある。でなければ、さっきの炎みたいに色が違うし、形の維持についても差異が出てしまうわ。これが生命なら、同じキーワードで行った『喚起』と『召喚』で、違う人物が現れてしまう。それでは、意味を成さないのよ」
これがカテゴライズだ、と、彼女は締めくくった。
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きっかけは単純だったのだろうが、唐突であることには変わりない。何しろ、まさかさっきの召喚技法演習がパチュリーの体を苛むなどとは、誰が予想できただろう。
もちろん、彼女はただできることを行ったに過ぎない。だが、彼女には日頃の疲労が溜まっていたのだろう。あの炎の召喚とその説明の後、程なくして彼女は床に倒れた。
体が弱いなら、先に言ってくれればいいのに。
「それは言わないで。私だって、まさかあんなに弱ってたとは思わなかったのよ」
と、彼女は言う。
「昔からそう。弱ってるはずがない状態でも病気は侵攻してくる。病気の正体は知らないわ。ただ、いつも必ず息苦しくなって、詠唱が途絶えることもある。さっきのも良く分からない。私、そんなに弱ってなかったはずよ」
まるで泣き言だ。こんなにも弱りきって、倒れるまで気付かないとは。
「もしかして、パチュリーさん……」
たまたまだが、僕はその症状を知っている。なぜかは分からないが、生命ならば当たり前のようにそこに存在しうる現象であるのに誰も気付かない。その気付かない領域を、僕はなぜか生まれたときから知っていたように思う。
「延命しすぎで体が死んでる、とか……」
体は、物体であり物質だ。つまり、彼女がいくら魔法を使えたところで、体のほうには限界が訪れる。体に限界が訪れるということは、物体としての存在が崩壊することと同義である。
物体として崩壊するのは、物質であることを否定されるのと同じ。物質でなくなるならば、それは形を保てない。
体が寿命を迎えたとなれば、当然精神も死ぬ。だが、彼女は魔法使いであるゆえに、精神だけは生き続けることができる。おそらく、それが原因だったのだろう。
パチュリーは何も答えず、近くにあるテーブルを指差した。そこの引き出しを開けろということか。
引き出しを開けると、中身は雑多に入れてあり、目的のものが何であるかはすぐには分からなかった。何しろ、ナイフや羊皮紙、蝋燭まで入っていたのだから、そこから求められるものを探すのは難しい。
だが、それを見つけた瞬間に、探し物が何であるかを理解した。そこにあったのは瓶に詰まった薬だった。延命用にしては軽い薬に見える。
「水もちょうだい。その薬で何とかなるわ」
ようやく喋った彼女の声は、かなり弱っているように聞こえた。
薬は即効性ではないだろうから、効き目が出るまでしばらくかかるだろうし、その間に、僕は僕でやることがある。
しばらく安静にしている必要がある彼女は、ソファで眠っているうちは大丈夫だ。定期的に様子を見に来て、無理をしそうになったら止めればいい。僕は散らかった本を片付けることにしよう。
悪魔の姿、悪魔の伝承、悪魔の世界……。どれもこれも悪魔ばかりだ。
それもそうだろう。今やっているのは悪魔の研究なのだから、そういう資料が多いのは当然のこと。それに対して不自然に思うのはおかしい。
僕はその資料が存在することではなく、その資料の中身に違和感を覚えた。そこに描かれる悪魔の情報に対し、軽く嫌悪感を抱いたのだ。
僕が悪魔を嫌っているだけとは意味が違う。吐き気がするような嫌悪感ではなく、なんとなく噛み合わないような歯痒さを覚えたのだ。自分がイメージした悪魔とかけ離れているような、間違った認識を持つ者達に抱く感情と同じ気分を味わっている。
仮説の域だが、もしかしたら僕は、悪魔を知っているのかもしれない。僕が悪魔を知った過程は不明だが、その悪魔の正体を知っているからこそ、資料のイメージとの差異が気になるのだろうか。
彼女が直前まで見ていた部分は、ブラド・ツェペシュという吸血鬼と呼ばれた男のページだ。よもや、悪魔に飽き足らず吸血鬼まで研究し出したとは。いいや、これもまた悪魔の形の一つかもしれない。なにしろ、吸血鬼だろうが殺人鬼だろうが、無力な人間から見ればどちらも悪魔に違いない。
ならば、悪魔というのは存在しない生物なのではないか。それは生物の名称ではなく、生物の中に存在する何らかの意思の総称なのではないか。
例えば、竜巻で家や家族を失った者は、その後に竜巻を見るたび悪魔だと思うだろう。その意思こそが悪魔を生み出す原理であり、その意思によって認識されたさまざまな要素を悪魔と呼ぶ。
それは非常に単純な意思であり、非常に複雑な問題である。
悪魔は、『恐怖』なのだ。
だからこそ、この資料に掲載された悪魔達を見て、非常に滑稽に思えたのだろう。悪魔は意思であり、その意思を反映した何かを生物として扱っているに過ぎない。ブラド・ツェペシュのような、元々人間という生物である場合もある。だが、人物そのものを指して悪魔と呼ぶことはなく、問題なのは彼が行ったさまざまな凶行のほうだ。
悪魔の所業。この言葉が全てを物語る。
なるほど、道理でパチュリーの召喚技法が失敗したわけだ。意思を『喚起』することはできない。形が無ければ形を呼び出すことができないのだ。だからこそ、喚起の対象に別の生物が選ばれた。僕がそれであった理由は不明だが、とにかく、僕は資料が物語る『悪魔』の意思を投影したのだろう。
僕はここに来る以前、一体何をしていた。一体僕は何者なのだ。
資料を読み解けば、僕は自分の存在を知ることができるのだろうか、あるいは、資料を読み進めるごとに僕自身を見失うことになるのか。
◇◇◇
ほどなくして、パチュリーは復活した。どうやら延命措置による副作用は、呼吸器官の不具合という小さな結末だけで済んだようだ。
薬を飲んでから約八時間後、パチュリーが散乱した羊皮紙のメモ書きを拾い、そこに書かれている記述について、自分なりの解釈を広げることにした。
そして、その記述をその瞬間から五時間前に書いた人物と同じ結論に至り、その人物の意味を考えた。もしかしたら……。
パチュリーは自分が呼び出したある人物こそ悪魔と呼ばれるにふさわしいのではないか、自分が思い描いていた悪魔を体現した存在ではないかと疑った。
自身が悪魔を呼び出そうとして、間違って喚起し召喚したと思い込んだ『少女』こそ、悪魔だったのだ。
◇◇◇
だが、僕はまだ疑問を感じている。自身が悪魔であると仮定すれば、その理由が必要だ。なにしろ悪魔とは、まさに天災のような存在であるべきだからである。
つまり僕は、この世界にやってくる前に悪魔と呼ばれるにふさわしい何かを行ったはずだ。もしかしたら戦争以外で人を殺し続けたのか。悪魔と呼ばれるために必要な所業は、おそらく同族からの畏怖である。それを可能にするとしたら、やはり同族狩りしか考えられない。
僕は、人を殺したのか?
記憶さえ取り戻せれば、それを頼りに探ることはできる。自分が何者で、自分を悪魔に仕立て上げた所業の正体も。
幸いここには資料が多い。本棚を埋め尽くすこの資料たちならば、自分が欲しい答えに辿り着く道を描いてくれる。
記憶を取り戻すのは容易ではないだろうが、とにかく、自分の正体さえ分かればいいのだ。だとすれば、僕がすべきことは悪魔の正体を探ることではなく、悪魔の所業を行った人物を手当たり次第に当てはめていくことだろう。
仮に、僕がブラド・ツェペシュであるとするなら、ツェペシュが行ったトランシルヴァニアでの攻防、ドラキュラ伯爵や串刺し公と呼ばれるようになった経緯などを僕に無理やり当てはめ、それに違和感を感じるかどうかを確かめる。
そのためには、ツェペシュの詳細を調べる必要がある。
もちろん、僕はツェペシュではない。初めにその記述を見かけたとき、何の共感も得られなかったのがその証拠だ。
ならば、別の凶悪犯や悪魔を調べたほうがいいだろう。そのほうが効率がいい。
例えばリジー・ボーデン。実父と継母を斧で惨殺し、無罪放免となった女性である。もっとも、彼女が犯人かは分からないが、召喚技法の条件と合致するという意味では、彼女を『悪魔』だと勘違いすることも頷ける。
そして、それが事実であるのなら、自分を殺人犯に仕立て上げた世間こそが悪魔であると知っているため、資料の悪魔に違和感を感じることだろう。
また、ブラド・ツェペシュを悪魔と評するなら、同じ理由でジャンヌ・ダルクも悪魔と評される。
ツェペシュは串刺し公という異名を持つほど恐れられてはいたが、別の見方をするなら、ルーマニア独立のために戦った英雄とされている。
詳しい説明は省くが、要するに彼は戦争や政治的背景によって反逆者を殺したのだ。もっとも、それを貴族も農民も関係なく串刺しという形で示したのが『悪魔』と評される由来になったのだろう。
ともかく、彼が行った殺人や虐殺には正当な理由が存在する。ならば、同じ理由でジャンヌ・ダルクも聖女であり悪魔であると言えるのだ。
そういう考えで資料を探るのなら、当然、戦争の英雄なども疑うべきである。戦争を否定し始めた時代以降、戦争で活躍した英雄は大量虐殺を行ったのと同じように扱われることもあるのだ。
だとすれば、この膨大な資料から読み解ける全ての人物を自分に当てはめ否定するのに、かなりの時間が掛かることだろう。
もっとも、自分が『悪魔』に分類される人物なのかどうか、そこから探っていく必要はあるのだろうが、それについては答えが出ていた。
僕はパチュリーがいうところの『悪魔と認識しているモノの特徴に合致する物体および生命体』である。だから、彼女から見た僕は『悪魔』に分類され、その『悪魔』の資料に掲載されているリジー・ボーデンやジャンヌ・ダルクなどの人物と同じ何かであることは疑いようが無いのだ。
この図書館には、キーワードで検索をするような機能が備わっていた。もちろん、それはシステム的な問題ではなく、この図書館の作成者であるパチュリーの魔法によるものらしい。
探している本のキーワードを思い描き、検索するための魔法陣を描く。これも情報を自分の中に『召喚』する技法らしい。僕はそれを彼女が常にストックしている本棚から盗み見たことで知っただけだが、やり方だけを覚えていれば問題ない。
カテゴリーごとに本を並べ替えるまでも無く、現在どこにあるか分からない本であっても、本棚に存在していれば検索結果の候補に上がる。もちろん、そういう本が存在するという結果が得られるだけであり、その結果を自分の足で探し回る必要はあるのだが。
ともかく検索さえできれば、あとは自分で探せばいいので、僕はその機能を利用しようと思い立った。もちろん、本のタイトルを記憶するまでには至らないと予想し、パチュリーの本棚から羊皮紙の束をくすねてメモを取る準備を済ませてある。
少し範囲を広めにキーワードを決める。僕が定めたキーワードは三つ、『有名』『殺人』『悪魔』。これらに該当する人物を絞り込む。
さすがにこの三つのキーワードからはジャンヌ・ダルクは外れたが、相変わらずツェペシュのような悪い印象から先に有名になった人物は残り続けた。そして、実在と創作を区別しなかったためか、オペラ座の怪人のファントムやルシファーなど、創作物の人物まで対象になってしまったようだ。
そこで、キーワードに『実在』を加える。絞り込まれた本のタイトルにはいくつも種類があるが、それでも創作を抜いた分、半分以下には抑えられた。ざっとタイトルを読み取るあたり、四十から五十冊程度である。
その結果の中で気になった人物を紙に記しておく。
まず、切り裂きジャック。十九世紀のロンドンで連続猟奇殺人を行った人物で、正体は未だ不明。切り裂きジャックは四人の娼婦と一人の少女を殺害し、いずれも女性の卵巣や子宮を取り出されたり解剖されたりしているため、医者ではないかと疑われている。
この人物と僕の相違点は二つあり、一つは、僕に医者であるという記憶や証拠が存在しないこと、もう一つは、性別が違うことだ。僕は医者ではないし、医者の頭脳や手先の器用さを持ち合わせていない。また、僕はどこからどう見ても女性の体だが、ジャックという名は男性のものだ。
除外はできるが、なんとなく気になったので彼の名前を紙に書き入れる。
次に、エド・ゲイン。こちらは二十世紀初頭にアメリカ・ウィスコンシン州での二人の殺人と、墓荒らしを行った。確かに『悪魔』ではあるだろうが、彼の場合はどちらかといえば『ネクロフィリア』に分類されるだろう。墓を掘り起こして発掘した死体を解体して道具を作ったり、自身の仮装に利用したのだ。
この人物は相違点より、僕との共通点を探すほうが困難だ。なにしろ、僕には死体をそのように扱う精神力がない。よほどのことが無い限り、僕がこの人物のような振る舞いを行えるとは到底思えないのだ。
だが、気になるといえば気になる。彼は育った環境によってこのような凶行を実行できるような精神を備えたのであり、また、もっとも人間らしい領域からかけ離れていたのだ。猟奇的な行動を言っているのではなく、その行動を行う精神が『手段』であって『目的』ではないところが悪魔じみている。
その他、いくつか名前を挙げることはできるが、主に気になったのはリジー・ボーデンを含めてこの三人だろう。これなら自分との相違点を比べて、当時の情景を思い浮かべようとする行為で自分の記憶を取り戻せるかもしれない。僕は『召喚』を行う技術を持ち合わせていないが、こういう意味での『召喚』ならば誰でも可能なはずだ。
それにはやはり資料が必要となる。
◇◇◇
キーワードは『一八九二年前後』『アメリカ・マサチューセッツ州フォールリバー』『斧』。この三つによって、まずはリジー・ボーデンの可能性を探った。一八九二年前後のアメリカ、フォールリバーという場所の風景や斧による殺人の感触。リジー・ボーデンが本当に殺人を行ったかはともかくとして、仮にそれが正しければという前提で、それらの感触を思い出そうとする。
情景は白黒写真でしか語られない。そんなものを目に焼き付けたとしても、脳内にある情報と一致するとは考えられない。何しろ、カラーで見た映像と白黒の写真だ。印象は変わって見えるのが当たり前である。
だとすれば、僕が知るべきは斧による惨殺の感触だ。それこそ、リジー・ボーデンが両親惨殺を実行していないとなれば無意味となるかもしれない。だが、やらないよりはやるべきだ。僕は実行する手間より得られた場合の見返りを期待し、斧による惨殺の光景を『召喚』する。
イメージする。
棒の先に錘をつけたような形のモノを振り上げ、その重みに体勢を崩しかける。さらにその重みを空中で静止させるため、後ろに回した足と両腕に力を込め、その姿勢のまま筋肉をこわばらせて形を整える。目の前には、これから惨殺する人間が一人。そこに向かって、一気に棒を振り下ろす。体重の移動、腕の位置の変更、前に出た腕を下向きに引っ張り後ろに回した腕を前に出す。棒の先の錘は半円を描き、刃が空を切り裂く。その重みを勢いに変え、棒の先に存在する狂気が目の前の人間に突き刺さる。紅い閃光。一つが二つに分かれる感触。硬い何かに引っかかり、棒の進行に力を加える必要が出てくると、いよいよそこには肉塊に姿を変えた元生物のかけらが誕生する。
次のキーワードは『一八八八年前後』『イギリス・ロンドンのイースト・エンド、ホワイトチャペル』『ナイフ』。この三つの条件によって、切り裂きジャックの可能性を探る。とはいえ、彼はおそらく違うだろうと予想を立てて、敢えてそれを行うことにした。
一八八八年の夏から秋にかけて、ロンドンのイースト・エンドで起きた五人の連続殺人。それが切り裂きジャックの犯行である。
先ほどのリジー・ボーデンとは違い、切り裂きジャックが殺したというところまでは分かっていて、誰が切り裂きジャックなのかがわからないパターンであるため、人物で特定することはできない。そういう意味で、僕は自身の思い描く切り裂きジャックを演じる余裕を与えられた。
先ほどのリジー・ボーデンは特定された個人であるため、完全に模写できなければ心情を察することはできない。斧で人を惨殺する光景にしても、アレは僕が創作した情景である。
逆に言えば、細部を似せていくごとに記憶もはっきりさせやすい。僕が僕を演じるだけなら、根底にある人格は同じものだからだ。
切り裂きジャックは正体不明である。ならば、その正体を手探りで、しかも推測で似せていくしかない。しかし、それが僕に余裕を生んだ。なにしろ正体が分からないのならば、僕自身がそれを想像して演じればいいのだ。
問題なのは、切り裂きジャックが何を考えて殺人を行ったのか。これに関してだけは、どうしても『その瞬間』の意思を汲み取らなければならないだろう。そうでなくては演じる意味がない。物語の登場人物を演じるのではなく、自身に記憶を戻すための儀式なのだ。リアリティよりもリアルが必要である。
まず、僕は無理やり女性を恨むことにした。怨恨や利益が殺人の一番の動機であると聞いたことがあるからである。女性に対して何を恨む。例えば、女性に対しての恐怖だが、それは怨恨とは違う感情である上、恐怖を感じた相手を丁寧に解体するなどとは考えにくい。ならば、立場ならどうか。
これは当時の状況をよく知らないが、男性だから、あるいは女性だからという理由で何か利益を得たり損失があったりというのは考えにくい。十九世紀のロンドンにおいて、男性だろうが女性だろうが同じように生活していたはずだ。むしろ、仮にそういった理由で恨みを買うなら、女性が男性を恨む場合が多いだろう。
そうすると、男性が女性を恨む理由はあまり見当たらない。
それは偶然であったが、ふと僕は別の観点で切り裂きジャックを見始める。単なる思い付きだが、それでも的を射ているような気がしたのだ。
その閃きを自身の中に閉じ込め、切り裂きジャックの心情を推し量りながら、女性をナイフで殺害する場面を思い描く。吹き出る血とスモッグの匂い。染み付いた人間の臭いがそれらに洗い流され、人間以外の何かに目覚め始める感覚。ナイフを刺し、引き抜く。機械的な動作を終えるまでのわずかな間に、自身が持つ人間の感情を込める。これによって、自分の感情が引き抜かれるような錯覚に陥った。刺して、引き抜く。それだけの動作に集約した僕の人間性は、次の瞬間、あっけなく消失した。
最後のキーワードは『一九五七年前後』『アメリカ・ウィスコンシン州バーノン郡』『墓荒らし』。この三つが示す、エド・ゲインという名の青年を自身に当てはめた。だが、その前に行った切り裂きジャックの投影のとき、自身の人間性が消失しかけているのに気付いたために、あまり深く当てはめすぎると戻って来れなくなるのではと、僕は少しだけ躊躇する。
エド・ゲインは本名エドワード・セオドア・ゲインであるが、自身を指してエド・ギーンであると言っていたらしい。おそらく、母親にもらった名前は母親の発音の癖まで含めて名前であると考えていたのだろう。彼は母親以外に気を許せる人物がおらず、その母親から全ての生きた女性は汚らわしいのだと教わり、信じていた。
そのうち、父親が病死し、兄が火事で呼吸ができずに窒息死、母親さえも病死した。そうして、エド・ゲインは孤独になったのだ。その気持ちを、今の自分に当てはめる。周りの誰もが死に絶え、自分という人間がポツンと置いていかれた感覚。
ふと、パチュリーが病気から回復せずに死亡してしまった姿を想像した。僕にとって、現在頼れるのは彼女だけだ。その彼女が死んでしまったとなれば、当時のエド・ゲインと同じ心情にもなるだろう。
その状態で、キーワードを追加する。『オカルト』『解剖』『死体への執着』。それによって得られた知識で自身を満たす。これでネクロフィリアの出来上がり。あとは、実行するだけだが、僕は切り裂きジャックでの自身の喪失未遂を気にし、想像するのを放棄した。このまま自分を見失っては困る。
だが、僕は最後の三つのキーワードによって、完全におかしくなってしまったように思った。何しろ、僕の目に映る資料に重なり、僕が体験したことが無いはずの死体解剖の一部始終が映し出され、その感触が、あたかも現在自分の体験として復元されたように感じたのだ。
僕は人を殺し、その死体を解体した。なぜ、何のために? エド・ゲインが僕である可能性は低い。なぜなら僕は男性ではない。しかし、何故?
そして、その一つ前に行った切り裂きジャックの投影を思い返す。そうか、あの思い付きが事実ならば、僕の正体がおぼろげには見えてくる。だが、やはり疑問は残る。僕は何故、悪魔じみた事件を起こしたのか。そこが分からなければ、その深い部分を知らなければ、僕は僕の正体を知ったことにならない。
最初に行ったリジー・ボーデンを思い返す。思えばあの殺人演技のおかげで僕の体は意識と離れた。僕は意識だけで人を殺し、体は全く動いていない。意志とは、すなわち僕が存在するこの体に『召喚』されたものだ。だとするなら、僕は体とは無関係な人物であるべきなのだ。
ああ、なんということだ。僕はいよいよ、自分の意思を疑うことになった。僕はこの女性の体に違和感を感じていなかった。確かに僕は、以前女性だったのだ。ならば、なぜ気付かなかったのだ。この女性の体に違和感を感じず、けれど一人称が一般的には男性が使用するモノであることに。口調が男性のそれであることに。
つまり僕は、女性でありながら女性を否定された人物ということになる。いや、表現が違う。僕は自ら、自分が女性であることを否定したのだ。女性の体をもち、女性として生きた時間は過去のもの。それを否定された自分は、その瞬間の情報を信じた。そして女性である自分を否定した。
女性と男性、身体的な特徴ならばやはり性器だろう。それを否定されたとなれば、僕は周囲にいた完全な女性を羨むはずだ。そして、羨望が憎悪に変化したとき……。
僕は、彼女たちの女性の象徴を削除したい欲求に駆られたのだ。
3
パチュリーが召喚した切り裂きジャックの亡霊は、完全なる女性の体を持った誰かを喚起させ、そこに侵入した。僕の正体はそうやってできた二つの要素の化合物だったのだ。
なるほど、僕が切り裂きジャックならば、殺した女性の性器を解剖するシーンを思い返すはずだ。女性の性器、すなわち子宮である。どうやってその解剖の技術や知識を身につけたのか、そのこと自体は特に不思議な現象ではない。
なにしろ、自分の女性器が機能を失ったのであれば、医者にその事実を宣言されることにもなろう。そして事実を認めたくないのであれば、自分の意思は自動的に医学書の項目を探り始める。
僕はその中で、とりわけ解剖学の医学書に興味を持ったのだ。女性器の摘出を行うわけではなく、女性の体の構造を知りたがった。自分の中の問題がどの場所に存在しているのかを知りたかったのだ。
知識は僕を現実に繋ぎ止める。幻想を抱き続ければいずれ憎悪に変わる気持ちが、原因を追い求めることで興味へと変化していった。自分はつらい目にあっている、けれど、原因を突き止める行為の原動力にしてしまえば、自傷行為などには至らない。
だが、その生活も一変した。近所の女性、自分の知り合いの女性、彼女らが自分の子を授かる姿を目撃するたび、次第に自分の中の衝動が羨望に塗り替えられていく。その姿に自分を重ねたいと願ってしまう。
知識が僕を現実に繋ぎ止めていたのが災いしたか、とうとう現実と理想の板ばさみになった。僕は女性として当然の、ほんのささやかな理想を抱いた。その理想は多くの女性には平等に訪れるものであったが、僕は現実を知ってしまったおかげで、その理想を実現させる術を持たないことを理解してしまった。
壁が僕を阻んだのだ。その壁を破壊したい衝動を感じるほど、理想は身近にあるべきものだった。だが、壁が僕を阻み、その壁が僕の中の衝動を引き寄せた。
そして、僕は女性であることを否定され、女性である自身を否定した。なぜ僕だけがこんなにも苦しまねばならないのだ。僕が何をしたというのか。
次第に、羨望は憎悪へと変化した。僕を阻む壁を壊すことができないのなら、周りを僕と同じ場所に引き込めばいい。そんな危険な思想を抱くようになって、僕はいよいよおかしくなったのだ。
私は死に絶え、僕が生まれた。女性である自分を否定し、女性ではない自分が誕生した。彼女たちに、同じ気持ちを与えよう。そんな目的を持って生まれた僕が行ったのは、女性自身の破壊だ。
手始めに、近所の女性を襲った。抵抗する彼女の子宮を破壊するのは容易ではない。ならば、抵抗できないようにしよう。
そして、僕はナイフを突き立てた。生命活動そのものを停止させてしまった。いけない、これでは苦しみは与えられない。同じ立場には引き込めない。ならばせめて、破壊ではなく剥奪を行うことで同じ立場に引き込もう。
彼女の犠牲は、僕の中に新たな目標を作った。子宮の摘出、女性自身の剥奪。つまり、彼女たちから僕の欲しいものを奪い取るという行為だ。
僕が欲しかったものを彼女たちは持っている。それを奪い取るのは楽しいからではない。けれど、いつも僕は高揚感を感じていた。彼女たちを殺し、女性器を剥奪する際の、ほんのわずかな心の躍動を知った。
そして、いつしか気がついてしまった。自身の外側に我が子を『喚起』したのではなく、自身の内側に我が子を『召喚』したのだと。これは『私』ではない。こんなことを女性である自分ができるわけがない。
私でないならそれ以外の誰かなのだ。自分が生み出した女性ではない『僕』という存在。これを我が子と呼ばずして、一体なんだというのだ。
私は女性への憎悪を行動に変化させたとき、理想であった我が子を手に入れたのだ。我が子は目には見えないけれど、存在を感じることができた。そうだ、彼に名前を与えなければならない。
そうして私は、存在の証明とそれへの命名の意味を込めて、自身を『切り裂きジャック』と称したのだ。
パチュリーには感謝しなければならない。生れ落ちることの無かった僕という存在が、別の肉体を得た。ようやく、ここで誕生することができた。僕はジャックだ。世間は僕を切り裂きジャックと呼んでいた。
呼称などこの際どうでもいい。僕には生まれた理由と、存在する目的がある。ほんの些細な理想が僕を宿し、羨望と憎悪が僕を具現化した。その目的を果たさなければ、僕は自分を否定するのと同じだ。
ならば、この場所で僕が行うことは一つしかない。目的を達成するのだ。
見た目だけならば、パチュリーは女性だ。当然、女性の象徴も内包していることだろう。それを剥奪することが僕の目的であるのだ。
必要なものを揃えなければならない。まずは、ナイフだ。彼女を抵抗できないように縛り付けることもできるが、彼女は魔法を使うことができる。ならば、その気力すら削いでしまえばいい。縛り付けるより、傷を負わせるほうがいいだろう。
現実とは思えない超常現象を可能にする彼女を停止させるためには、機能そのものを破綻させる必要がある。
パチュリーのデスクにそれを可能にするナイフがある。薬を渡したとき、一緒にナイフがしまってあるのを確認した。
そうだ、それを利用することにしよう。僕は彼女のデスクを漁るため、彼女が眠っているはずのソファの近くに移動する。
ゆっくりと、ソファで眠る彼女を起こさないように、慎重に。後一歩。ほんの少しで引き出しに手が届くという瞬間に、横から不意打ちのように現れた手が僕を捉えた。
「そこまでよ」
手に含まれた意思が声を発する。呼吸困難で眠っていたはずの魔女が僕の目の前に姿を現した。
いや、これは正確には彼女ではない。つい数時間ほど前に目にした召喚技法の痕跡が見える。
彼女の頭には蝙蝠の羽のようなものが付いていた。おまけに爪は長く伸び、今にも引っ掻きそうな気配がする。髪は薄い桃色、彼女の本来の色が紫であったのなら、深い赤を取り込んだのか。
もしかすると、彼女は悪魔の召喚に成功したのだろうか。つまり、体は僕が使っていて、精神は彼女の中にある。この二つを組み合わせれば、彼女は望んだ悪魔の召喚が完了する。
いいや、渡してなるものか。これは僕が得た念願の体だ。
僕の母が自身の体内に宿した命が、ようやく現実に生み出された結果なのだ。そう簡単に手放すわけにはいかない。
僕は彼女の手を振りほどき、なるべく触れられないように間合いを取る。触られたら、僕の体に何かが侵入する気がしてならない。それこそ、彼女の体内にいる悪魔がこの体に侵入してしまうだろう。
間合いを取るだけではダメだ。ただ逃げるだけになってしまう。目的もなく逃走してしまえば、それは意味を剥奪されたのと同じ。
喚起された体には意思が必要になる。意思とは、目的と意味だ。
僕は彼女の体にナイフを突き立て、彼女の体内に眠る女性自身の象徴を剥奪する感覚を『召喚』する。そう、先程と同じ。自身が何者なのかを探ったときと同じ。自分自身の中に感覚を『召喚』するのだ。
そして、その感覚を現実のものにするために、まずは彼女の机の引き出しからナイフを取り出さなければ。
「私のデスクにナイフなんて入ってないわ。探っても無駄よ」
言い訳には聞こえない。彼女は逃げるために言っているわけではない。だが。
「嘘だね。僕は君のデスクから薬を出したとき、そこにナイフが入っているのを見た」
そう。見ていた。間違いなく入っている。彼女が取り出したのでなければ。
僕は手近な本を彼女に向かって投げつける。本は空中で開き、突然膨れ上がった空気の抵抗によっておかしな軌道を描きつつ彼女にぶつかる。飛び方を忘れた蝶のような動きで床に落ちた本は、僕の手を離れてから床に落ちるまで、非常にゆっくり動いていたように思う。
その本が地面に落ちるより前に、ほんの少し大きな轟音が部屋中に鳴り響いた。僕が机を倒して、引き出しを開けるのが面倒で蹴り飛ばした音だ。
木の板一枚分の厚みを貫通して、机の裏側に大穴を開けた後、その中から僕がよく知るナイフの形を探り出す。
皮でできたケースに入っていたらしく、金属ではない感触が手に触れた。それを引き出して、目で確認する。
間違いなくナイフの形をしていたそれを皮のケースから引き抜くと、見慣れたとおり金属の刃が目に映った。ナイフなんて入ってない、か。地獄にでも落ちたら、彼女に整理整頓という言葉の意味を聞いておこう。
今度は彼女を目で見据え、今まさに僕に飛び掛ってきた彼女に目掛けてナイフを突き出す。向かってきた彼女の勢いも重なって、ナイフは深々と彼女の心臓に突き刺さった。
刺さったそれを見てみたくて、僕はナイフから手を離す。そして、そのまま彼女を蹴り飛ばすと、根元まで深々と刺さったそれが天井に向く。仰向けに倒れた彼女は、何度か痙攣し、召喚技法で呼び出した悪魔が消えていったのか、頭に付いていた蝙蝠の羽や長い爪、薄い桃色の髪などの特徴が薄れて行くのが見える。
彼女は死んだのか。少なくとも、魔法を使うことができなくなっているのは間違いないだろう。ならば、今なら目的を果たせる。
僕は彼女に近づいて、最後の仕上げをする。彼女から女性自身の象徴を剥奪するのだ。
「僕は君のいうところの『悪魔』だ。『不思議な力を発揮して生活に利用している』『自分勝手でいい加減な』『それでいて周囲の環境を自分に都合のいいように改ざんする能力を持つ』『悪魔』……。母の周りに女性はいてほしくない。そんな僕の自分勝手な我侭で、母親と呼ぶべき人物の周りから女性を消してしまっていた。それが母の願いだったから。今も同じ。僕の周りにも女性がいることに我慢ができない。だって、僕は『悪魔』だから。役割を与えられたのなら、全うしなきゃ」
彼女の胸に刺さったナイフを引き抜くために、そのナイフに手を伸ばした。その瞬間。
彼女の手が、僕の手を捉えた。
「そこまでよ」
今度こそ僕は驚いて、彼女を見据える。彼女はナイフが突き刺さった胸を一瞥し、続けて僕を睨みつける。
「やってくれたわね」
そして、僕の手をつかんだまま、彼女自身の手でナイフの柄を握る。未練がましくゆっくりとした動作でそれを引き抜いた彼女は、そのまま僕の心臓の位置にそのナイフを刺した。
当然、ナイフが刺さった体は痛みが支配する。脳に集められた全ての感覚が痛みを訴え、それが僕の全てとなるだろう。しかし、僕の予想に反してナイフの感覚は痛みを訴えなかった。まさか痛みを『召喚』するのに失敗したわけではないだろう。
その答えは、すぐに僕の体に現れた。
元々ワインレッドの髪だった僕は、それに深みのある紅が混じるのを感じる。僕の爪が伸び、さらに頭に異物が生えてきた感覚まで現れた。鏡を見ていないが、おそらく蝙蝠の羽でも生えていることだろう。
その感覚が僕にとっての現実を浸食し始めた頃、僕は頭の中に声が響くのを聞いた。召喚とは自身の内に宿すことを言う。彼女自身の中に『召喚』された悪魔を、僕の中に移し変える。そうすることで、初めて『喚起』と『召喚』が完了する。
彼女は、ナイフなんて持っていなかったのだ。ただ僕がそれをナイフであると勘違いしていただけで、それはおそらく鳥かごのようなものだったのだろう。
あのナイフのようなモノの中にパチュリーが自身に召喚した悪魔が入り込み、それを僕の体に刺すことで、僕の体に移し変えたのだ。
いわばアレはナイフではなく、容器だったのだ。
頭の中の声が訴える。
―――可愛いお嬢さんだこと。心の姿は案外幼いのね。
僕はその声に問いかける。
「僕が……、幼いって?」
再び、頭の中の声が訴える。
―――ええ。可愛らしい女の子だわ。
会話が成立した。間違いなく、この悪魔は僕の体の中にいる。
これが『召喚』か。違う意思が体の中に混在し、どこまでが自分で、どこからが他人なのかが分からなくなっていく。うかつに『召喚』を行って、自我がなくなれば、召喚した側がされた側に乗っ取られてしまうのか。
パチュリーは僕に問いかけた。
「切り裂きジャック、だったかしら。あんた、記憶は戻ったのよね。それなら、母親の体に『召喚』されて、その意思を乗っ取った記憶もあるはずよ」
その言葉には違和感こそあれ、間違いはない。思えば、僕は母親の体に『召喚』され、それから何度か母親の体を乗っ取った。
「さっき私もあんたと同じ資料で、あんたの正体を知ったわ。けど、自分じゃないから、客観的な意見を言わせてもらう。あんた、自分で自分の母親が女性じゃないって証明してたのよ。だって、そうじゃなきゃ、周りの女性を否定するなんて行動に至らなかったはずよ」
その言葉も同様に、違和感こそあれ間違いはない。僕は、自分の判断で母の気持ちを察したつもりだった。だが、その僕自身が母を女性として見なかったからこそ、母以外の女性に嫌悪感を抱いたのだ。
『お前たちは幸福を授かることができる。だが、母は幸福を授かることができない』
それは、僕が母親に対して、女性の機能が存在しないと宣言したのと同じだったのだ。
つまり、僕が行った行為そのものが、母親の女性自身を剥奪したことにつながってしまったのだ。
なんてことだ。まるでリジー・ボーデンの斧だ。僕自身が母親の女性としての部分を殺していたのだ。そしてそんな母親の皮を被った僕は、エド・ゲインと同じだ。
切り裂きジャックがリジー・ボーデンの斧を持ち、エド・ゲインのように皮を被る。さぞかし、滑稽な姿だっただろう。なにが悪魔だ。これでは、ただの怪物ではないか。
僕の中の悪魔が僕を侵食して行くのが感じられた。だが、それはもはやどうでもいいことだ。なにしろ、僕は目的を失った。初めから持っていなかった目的を、そこに存在するものとしてでっち上げただけなのだ。
目的もなく人を殺し、目的もなく女性自身を剥奪し、目的もなくこんな場所にまで現れた。
思うに、僕こそ本当の意味で『悪魔』だったのだろう。目的があるとするなら、人を殺したかったのだ。誰の願望かは分からないが、僕自身が実行したそれが目的であるとするなら、そのために母親の女性としての機能という理由をでっち上げたことになる。目の前の魔法使いと同じく、僕も目的のために理想をでっち上げて人を殺していたのだ。
感覚が訴える。目の前に、ちょうどいい牢獄が存在する。このナイフの形をした鳥かごの中に自ら足を踏み入れることで、僕は僕自身の存在を閉じ込めることができるかもしれない。
ゆっくりと、牢獄の中へと足を踏み入れる。感覚だけであるが、僕はこの体から抜け出し、ナイフの形をした鳥かごの中へ進んでいった。
「あら、体から出て行っちゃいましたね」
今まで僕だった体が言葉を発するのを確認し、僕は自分が鳥かごの中に入りこんだのを理解した。今の発言は、体は僕だが、中身は先程の悪魔だ。
「まったく……。抑えきれない悪魔を封印するためにアゾットを作ったのに。こいつのせいで台無しだわ」
パチュリーが憤慨した。この鳥かごはアゾットというのか。
二人の会話を頭の片隅で感じつつ、僕は自身の感覚が消失し、やがて現実と夢の境が曖昧になるのを感じた。
4
眠ってから何時間が経過したのか、それを体感で知るのは難しい。なにしろ、眠っているということは、そのときの外部からの情報を遮断しているということと同義であるからだ。
だが、そのとき疑うべきは、何時間眠っていたのかではない。初めの情報と終わりの情報が正確であるのかということである。
自分がワインレッドの長髪をした女性として活動していた記憶があるが、どれだけ目を凝らしても、鏡の中で自分の意思と同じ動作をする人物は銀の短髪である。
女性であることは正しいようだが、今までの記憶とはまったく異なる容姿をしているのは間違いない。だとすれば、僕は……いや、僕という一人称も、もはや間違いだ。
自分のことを僕などと、私はそんな風に自分を呼びたいと思っていたわけではないのだから。
そのワインレッドの長髪の女性は、今頃図書館の本棚の間を優雅に歩いていることだろう。頭に蝙蝠の羽がついていることを除けば、人間とほとんど変わらない。
ほとんど、である理由はパチュリーを見れば分かる。ネズミを『ネズミ』と呼び、人間を『人間』と呼ぶ彼女が、そのワインレッドの長髪の女性を指して『小悪魔』と呼ぶのなら、その女性が何者なのか、考える必要は無いだろう。
過去の情報は記憶とともに劣化するのが常だ。間違っていることのほうが多い。だから、信じるべきは現在の情報である。
私は、銀の短髪を結び、彼女が待つ図書館の一角へと向かう。手には甘い香りがする紅茶を載せたトレイ。ミルクも砂糖もたっぷりと入れたロイヤルミルクティー。数は三つだ。
珍しく三人でお茶を飲むことを提案したパチュリーは、どうやら今度こそ研究がうまくいったらしい。上機嫌になった彼女がこのミルクティーよりも魅力的であることを知ったのは、自身が何者であるかに興味を無くしてからすぐのことである。
以前の私は、自身が何者であるかに興味を持ち、それを調べ、それを疑った。切り裂きジャックと呼ばれていた記憶があるのも事実ではあるが、それは私とは無関係であるべきだろう。
私は現在『人間』である。過去の情報が間違っているのだ。
―――魔法使いと見習い悪魔・終