表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
68/69

小早川先輩の動画を見た

明けましておめでとうございます。

今年度も何卒、よろしくお願いいたします。

 スタッフ用のトイレに向かうも、入り口前には月末アイドル委員会のスタッフであることを示す黒ジャンパーの一団がいた。


 スマホで連絡を取っているスタッフもいれば、心配そうに男子トイレの様子を伺っていたりするスタッフもいたりと、明らかに中で何かしらの異変が起こっていそうな空気感だ。


 あまりスタッフ軍団の様子を伺っていても進展は無さそうなので、一番近くにいた男子生徒スタッフに声を掛ける。


「何かあったんですか?」


 声を掛けたスタッフは、何故か両鼻にティッシュを詰めていた。


 彼はその腕白面(わんぱくづら)を此方に向けてくるなり、驚いたように目を丸くする。


「わっ、本物の誠君!?顔も背も全部ちっちゃ⋯⋯えっと、お疲れ様です。実はここのトイレの中で、2年生の子が熱中症でぐったりしちゃってまして、応急処置中です。なんで、申し訳ないんですけど、別のところを利用してもらってもいいですか?」


 大変に遺憾な感想を述べてきた辺りで、俺が鋭く睨み据えたからか、徐々に声量が小さくなっていく。


 ──しかし、熱中症でダウンしている生徒も出てきているのか。


 よく晴れた六月末とあって都内の外気温は20度を上回り、湿度は80%を超えている。


 校内放送でも何度か熱中症の注意喚起はされているが、こればっかりは予防と対策をしていてもなってしまうものだ。


「大丈夫っすか?もし、ヤバそうなら外の救急隊呼んできますよ」


 今日は保健室が解放されているだけでなく、屋外ステージの方でも最寄りの病院と消防署から何人か救急隊が派遣され、救護テントが設置されている。


 仮にゼックラショックで保健室が満員御礼だったとしても、そっちは空きがあるだろうと道順まで思い巡らせる。


 しかし、考え込んだ俺を前にして、スタッフは大きな溜息を吐いた。


 ──その瞬間、勢い余って両鼻に詰められていたティッシュがスポンと勢いよく飛び出して行った。


 まるでワインのコルク栓が景気よく抜けた時のように飛んでいったティッシュに、俺の口が「あ」と開く。


 フライさせたスタッフも、俺と似たような唖然とした表情で、バビューンと発射されたティッシュを目で追っている。


 だが、彼は見守るだけの此方と違って、咄嗟にティッシュへと手と足を動かしていた。


 根元が赤く染っているそれが自由を謳歌したのもつかの間のことだったらしく、反射神経の良い男は地面に落ち切る前に両手でキャッチする。


 間一髪の出来事に、思わず「おおー」と素直な感嘆の声が出た。


 俺の賞賛の声を聞いたスタッフは少々気恥しそうにえへへと笑ったが、刹那、彼の両鼻から鼻血がたらりと垂れてくる。


 赤い二本の縦線が人中に入っていく様を見届ける間もなく、スタッフが俊敏な動きで掌中にあるティシュを両鼻に詰め込んだ。


 目にも止まらぬ早業であり、本人も素知らぬ顔をしている。


 だが、全ての過程を見知っている俺の目は半目だ。


 物言いたげなこちらの目線をすぐに汲み取ったスタッフは、何事も無かったように再度口を開いた。


「それは大丈夫です!救護テントの方にはもう呼びに行ってもらってますし、電話で救急隊の人から指示してもらって応急処置も済んでますから。ただ、今回は例年の10倍以上の来場者数とあって、救護テントの方もかなり忙しいらしく、ちょっと到着が遅れちゃってるんですよね⋯⋯。

 なんで、誠君も体調には気をつけて過ごしてください」


 ──鼻血を出してる人に気遣われてもな、という感想が真っ先に思い浮かんだ。


 しかし、貰った気遣いを無碍(むげ)にするのも無作法に思えて、滲んでいた苦笑のまま会釈する。


「黎明館のバックヤードまで行けば、生徒専用のトイレがあります。嗚呼、でも、そのままなら不味いか」


 表情が豊かな彼が今度は思案げな顔つきで俺の顔から爪先まで見渡すと、袖を通していた黒ジャンパーを(おもむろ)に脱ぎ始めた。


 そして、「これ、使ってください」と一言を添えて、脱いだジャンパーを俺へと向けてくる。


「黎明館に向かう途中で、ファンに絡まれたら大変ですよね。今回、エンジュはデビュー組のグッズも直ぐに捌けたって桃郷(ももざと)⋯⋯同僚が言ってました。俺も最後の【エンジョイ行進曲】だけ見ましたけど、見た瞬間、全身の鳥肌がぶわああって立っちゃって。ウチの1番のアイドルってこんなに半端なかったんだってそん時、すっごく思いました」


 純粋なスタッフからの賞賛に、あっという間に頬が熱を持つのが分かる。


 ファンやチームメンバーからの掛け値なしの賞賛も嬉しいが、参加している多くのアイドルチームを支えている裏方スタッフからの褒め言葉はまた別格だ。


 特にファンや演者である俺達と違って、そこまでアイドルに思い入れが無い裏方達はフラットな視線で俺達のライブを見ている。


 そんな人達から『良かった』と声をかけてもらえる喜びは、どんな言葉で表現したらいいのかが分からないくらいだ。


「中島。ジャンパーだけだと、折角のイケメンが隠れないじゃん。僕の帽子も使ってください。特徴的なその髪も帽子の中に押し込んだら、かなりバレにくくなると思うんで!」


 俺達のやり取りを見ていた他のスタッフ達の中から、キャップを被ったスタッフが出てきた。


 熱中症予防も含めて被っているだろう黒いキャップは、一切の躊躇もなく取り払われて差し出される。


「お前、汗大丈夫だろうな?誠君にそんな汚いもん付けんなよ」

「やばっ!?ちょっと待って!? 今、拭くから」

「大丈夫です。俺だってライブ終わりで汗臭いですし」


 鼻血スタッフが余計な茶々を入れたことで、折角差し出してくれたキャップが引っ込みそうになる。


 それを慌てて受け取って、自分の頭へと被せた。


 口にもしたように、俺もマントの下にあるドレスシャツはかなりビショビショだ。


 握手会の前に制汗スプレーと冷却スプレーで、何とか体裁を整えたが、どっちみち汗だらけなことに変わりない。


 キャップを身につけた後、ジャンパーも受け取って袖を通す。


 前のジッパーを1番上まで引き上げて、1つに束ねている襟足を帽子の下に押し込んだらお忍びルックの完成だ。


「2人とも、ありがとうございます。返却のためにも名前を聞いてもいいっすか?」


 同じ学校の生徒同士とはいえ、顔と名前しか知らない人間に持ち物を貸してくれるなんて有難い話だ。


 何かお礼品も一緒に添えて返そうと思いつつ、なかなか名乗ってくれない2人を見やる。


 少し焦れた俺は、コテンと首を傾げて追撃を掛けると、何故か揃って2人は喉仏を鳴らした。


「な、中島です! 他のスタッフに普通科1年C組の中島楓(なかじまかえで)と言ってくれましたら、通じるんで!!」

「俺は山田柑士やまだかんじっす!よろしくお願いします!」

「お、おう」


 目を皿のように見開いて名乗ってくる彼等の剣幕に飲まれて、たどたどしく頷く。


 ──返す時は他のスタッフづてに返そう。


 何故か分からないが、何となく身の危険を察した。


 ◆◆◆


 中島君と山田君から借りた黒ジャンパーと帽子を身につけたお陰で、来客に絡まれることなく無事に黎明館の裏口に辿り着くことが出来た。


 今日を迎えるまでは、昼休みになる度に此処でデビューライブの練習を桜羽と白星とやっていたんだなと目が細くなる。


 今はライブ本番日とあって、海嘉先輩がよく腰掛けていたステップにまでダンボールが押し寄せているが。


 出来るだけ荷物を引っ掛けないように気をつけながら、ステップを上りきって裏口の戸を開く。


 スタッフの出入りが多いからと施錠されていない戸を開くと、天井が高いこともあって照明がついているにも関わらず薄暗い黎明館の中が顕になった。


 時刻的にエッジ雑技団のライブ中だろうから、人の姿も全くない。


 がらんどうとした館内を少し歩くと、犀佳が避難していた休憩スペース近くまで来ていた。


 確かこの辺にトイレがあったはず⋯⋯と首を巡らせると、よく見る男女のピクトグラムを発見。


 男子トイレの中へと足を踏み入れると、想像通りの無人ぶりで、音といえば緩く締められた蛇口から垂れる水滴の音くらいなものだ。


 手早く用を済ませて、もの侘しいトイレを後にする。


 オツカレンジャーのハンカチで手を拭きながら外に出ると──刹那、何処からともなく大勢による歓声が聞こえてきた。


 締め切られた扉の向こう側から響いてきたことがわかる曇った歓声に、舞台裏へと続く観音扉に視線が向く。


 エッジ雑技団のデビューライブはどんなものだったかと脳の奥底に眠るゲーム知識を引っ張り出したその時、瞬時に過ぎっていくゲーム画面に思わず目頭を抑えた。


 そうだ。


 エッジ雑技団のデビューライブは、元々木ノ下ツインズの代表曲である『勇者と魔王』を新入生の睦月恭也と夕暮優大が演じるんだった。


 この曲は勇者が魔王を倒して、『友達になろう』と手を差し伸べる物語調の友情ソングなのだが──なんとゲーム本編では、魔王に扮する睦月が勢い余って勇者役の夕暮を倒してしまう。


 その時点で曲としては破綻してしまう展開になってしまうのだが、この話では睦月が全く気にせずにそのまま勇者役のパートを乗っ取って、魔王と勇者は友達になりましたで着地させるのだ。


 あまりに力技すぎる結末であるが、クソガキだらけのエッジ雑技団だからこそ、押し通っているストーリーラインだ。


 それに、2人が殺陣を完成させるためにお互いのパートを練習していたからこそ、咄嗟にカバー出来たというオチだったこともあって、『半人前も二人いれば一になる』というエッジのコンセプトが結構な数のオタクに受けていた。


 さっきの歓声は、きっと魔王が勇者を倒してしまったことによるどよめき声だろう。


 それからも随分と抑えめであるが、断続的に驚くような声が聞こえてきて、その中に押し殺した泣き声すらも混じっている。


 エッジ雑技団のストーリーはドタバタ劇多めで、シリアス寄りなAngel*Dollや、ド真っ黒なN=?のストーリーをやった後にやると良い箸休めになるんだよな。


 面子がヤンキーに片足を突っ込んでいる元気すぎる男子高校生ばっかりだから、カラッとしているイベントが多いのも理由の一つだろう。


 そこまでエッジ雑技団の本編を思い返したところで、俺は「ん?」と思考を停止させた。


 ──そういえば、さっきから歓声に混じって啜り泣き声みたいなのが聞こえてきてるよな?


 締め切られた扉を超えて聞こえてくる大声量の歓声は分かるが、人目を忍んで泣いていることが分かるこの押し殺した泣き声が、会場から俺の耳にまで届くことはあるのだろうか。


 ⋯⋯え? 無理じゃね?


 そう察した瞬間、汗で張り付いているドレスシャツの下にある背中に鋭く悪寒が走った。


 人っ子一人見えない黎明館のバックヤード。


 何処からともなく聞こえてくる、誰かの啜り泣き声。


 薄暗い照明のせいで、廊下の四隅は薄ら暗く見通しが悪くなっている。


 ──もしや、学生アイドルとして開花出来ないまま、無念にも卒業してしまったOBの無念が彷徨ってるとか⋯⋯?


 居住まいを正して、キャップを深く被り直す。


 音の正体を探すようにぐるりと首を巡らすも、やはり人の姿は全く見当たらない。


 無意識のうちに、喉仏が上下に動く。


 やっぱり──この泣き声って、超常現象的な奴なのでは⋯⋯と思考を飛躍させたところで、壁掛時計の盤面が目に入った。


 短針が13を差し、長針が6に差しかかろうとしているのを見て、瞬時に俺の悪ふざけ思考は霧散していく。


 やっべ、もうすぐで握手会が終わる時間じゃねぇかよ。


 あまりにも雰囲気が良かったから、もうちょっとこのおどろおどろしいムードを楽しみたかったが、生憎と時間があまりない。


 耳を澄まして、泣き声が聞こえてくる場所へと足を向ける。


 個人的には勝手に作り上げた元アイドル学生の怨念も気に入っているが、どうせ泣き声の主は、何かしらのミスをして教師か上級生に怒られた同学科の学生アイドルか、スタッフの普通科生って所だろう。


 本当に超常現象の類いだったら良かったんだが、そんな非現実的なものはソーシャルゲームによく似たこの世界でもまだお会いしたことはない。


 泣き声が聞こえてくるのは、舞台裏へと続く搬入口の近くに乱雑に置かれた機材のスペースからだった。


 またこんな物が積まれた所で、隠れやがって。


 機材の近くは危ないから近づくなって、前リハの時にも口酸っぱく教師陣に言われていたはずなんだがな。


 それでも、人目を憚るように一人悲しく泣いている誰かを放っておけなくて、俺は音響ミキサーや予備のマイクが置かれた机へと近づく。


 音響ミキサー達の下には傷にならないようにか、暗幕が敷かれていて、机の足元をすっぽりと覆っていた。


 俺はその場にしゃがみ込むと、容赦なく垂れ下がった暗幕を(めく)りあげる。


 刹那──スマホ画面に煌々と照らされた、たっぷりの涙を貯めたエメラルドの目と視線が合った。


「⋯⋯芹沢先輩?」

「誠君?」


 互いに目の前にいる人物が信じられなくて、名前を呼び合う。


 だが、目の前にいる頬に涙の粒をつけている美青年は我らがエンジュのリーダーで間違いないし、俺を呼ぶ声は前の人生でも何万回とスピーカー越しに聞いた大御所声優のものだ。


 ──ってか、さっきまでの啜り泣き声は芹沢先輩のものってことか!?


「先輩、どうしたんすか!?もしかして、朝、虎南先輩に詰め倒されたのが今になって効いてきました?それか、卒業したくせに激詰めしてきた古坂兄の説教が原因すか!?」

「誠君って、実は結構上級生に辛い評価を下してる時あるよね。たまにすっごく呆れた目で上級生を見てるから」


 やっべ。


 2年生をおっぺけって呼んでることを筆頭に、あれこれ言ってることが芹沢先輩にバレてる気がする。


「ふふふ。そんなに気まずそうな顔をしないでいいよ。実際、しっかり者の君からしたら、私達や二年生はたまに頼りないこともあるだろうし。それより、どうして誠君はここに居るの?」

「黄昏館の男子トイレが熱中症の生徒の処置で封鎖されてたんで、こっちまで用足しに来たんすよ。そしたら、啜り泣き声が聞こえてきたんで⋯⋯先輩こそ、こんな所でなんで泣いてるんすか」


 つい芹沢先輩の質問にいつもの癖で即座に答えてしまったが、俺の現状よりも異常事態が発生している先輩だ。


 しれっと話の主導権を握って有耶無耶にしようとしている芹沢先輩に、これ以上の誤魔化しは受け付けないとばかりに両目に力を入れる。


 すると、流石の芹沢先輩も観念したのか、困ったように前髪の下に隠れている眉根を垂れさせた。


「これをね、見てたんだ」


 両手で抱えるように持っていたスマホの画面を、先輩はおずおずと俺へと向け直した。


 よくよく見ると、先輩のスマホカバーには三本の天使の羽が刻印されているのが見えた。


 これが芹沢先輩・虎南先輩・小早川先輩によるユニットチーム『三大天使』のロゴマークであることは今世のネットで履修済みだ。


 ⋯⋯三大天使のグッズって、小早川が中退したことで早々に廃盤になってて、もうトレードとかでしか入手出来ないんだよな。


 なんて、気持ちの悪い俺のグッズ情報収集の成果を披露するのも程々に、向けられたスマホ画面を覗き込む。


 スマホ画面には、藍色の髪を短く切り揃えた男が包装紙に包まれたハンバーガーを片手に黄昏ている光景が映っていた。


 切れ長の目をしているが、緩やかに垂れ下がっているからか、一重の割には優しそうな顔つきをしている。


 ハッキリとしたEラインをしている事もあって、何処と無くハーフっぽくも見える男を見て、俺は目をかっぴらいた。


「こばやかわ、こうた⋯⋯」


 彼から水色を引き継ぐと決めてから、何十、何百、何千と電子世界に転がっている三大天使の動画や写真を見てきた。


 Angel*Doll 第八期目の新入生であり、プロアイドルデビューした芹沢真白の同期。


 天真爛漫が服を着たビジュ担当の芹沢真白、女の子の王子様像を具現化したリアコ枠の虎南聖仁──そして、そんな2人のまとめ役であり、ファンと規格外の同期を繋いでいたパパ枠の小早川昂汰。


 世間的には、有名な女性アイドルと熱愛報道を出した小早川昂汰は、同期と比べると地味めであり、あまり注目を浴びることもなかったと認識されているが、白蘭高校界隈ではその評価はすぐに覆される。


 彼は大らかな芹沢真白と神経質な虎南聖仁を宥めることが出来る唯一のブリーダーであると、コアなファン達からは認められていたからだ。


 今では考えられないが、この2人の意見が衝突した時は、小早川が取り纏めて解決していたらしい。


 ライブ映像を見る限りは、エンジュの一員らしく、歌も踊りも高水準であるが、取り立てて心に残るほどの印象を与えてくるわけではない。


 可もなく不可もなく。


 さらっと見ることは出来るが、彼のパフォーマンスはあまり記憶には残らないのだ。


 それよりも、隣でこの世で一番幸せそうに踊っている芹沢真白や、動く度にキラキラエフェクトが舞っていそうな虎南聖仁に目が釘付けになる。


 ──でも、それも小早川という比較対象がいたからこそだということも一目瞭然だった。


 癖のない歌と踊りの一言で済ませるには簡単だが、それだけで終わっては素人の意見だ。


 小早川のパフォーマンスは、誰よりも振付師と作曲家に忠実だった。


 だからそこ、皮肉にも傍にいる誰かを際立たせる。


 そして、忠実だったにも関わらず、己を目立たせる何かを彼を持ちえなかった。


 きっと、小早川先輩が事務所に所属していながらも、鳴かず飛ばずだったのは、この辺りに理由があるのだろう。


「久しぶりに、(しょう)さんをはっ倒したくなったよ。どうりであんなに探しても見つからないわけだ。昂汰を隠していたのはウチのOB達だったもの」


 苦々しい口振りで吐き出された先輩の声音は、これまでに一度も聞いたことがないぐらいにド低音だった。


 芹沢真白って、こんなドスの効いた声も出せるのか⋯⋯。


 聞いた瞬間、背筋がゾワっとしたぞ。


 ド低音ボイスと共に、水の膜が張った両目からも緩やかにハイライトが消えていく。


 好青年売りの芹沢先輩には有るまじきことに、ささくれだった不貞腐れ顔になっていた。


 ──こんな顔、虎南先輩が見たら、すぐに飛んできそうだな。


 そんで、すごい俊敏な動きで芹沢先輩の機嫌を取ってそうとまで思考が広がったが、最近の虎南先輩は芹沢先輩に厳しめだし、何より芹沢先輩と同様に虎南先輩もOBに嵌められた仲間だ。


 一緒になって報復を企む方が正しいかもしれない。


 三年生達の報復とか、超えげつなさそう。


 古坂先輩には悪いが、古坂兄の寿命もここまでかもしれない。


 妄想上の三年生の報復劇に及び腰になっている俺の前では、芹沢先輩がスマホ画面を軽くタップして、静止画になっていた動画を再生させていた。


 ハンバーガー片手に遠くを見ていた小早川先輩の藍色の眼差しが、ゆっくりとカメラへと向けられていく。


『もしかして、カメラ撮ってます?』

『おう。一応、記念にな』


 小早川先輩は子守唄とかが得意そうな柔らかな声音をしている。


 だが、今は機嫌があまり良くないのか、カメラを見据える視線と言葉には存分に険が籠っていた。


 ──ってか、カメラを持っている男の声もどっかで聞き覚えがあるんだよな。


 それこそ、テレビやネットなどのメディア系だったような気がする。


 古坂猩にしてはキーが高いが、声音の底に重低音が潜んでいる彼と違って、この撮影者の声は夏風みたいにカラッとした感じなんだよな。


『何の記念すか?』

『昂汰が初めて()()()()した記念だな』

()()()()()()()()記念の間違いじゃないですか?』


 それ以上、喋る言葉を持ち合わせていないとばかりに、日本ではあまりお目にかからない顔の半分以上ある大きなハンバーガーにかぶりつく。


 口角にケチャップをつけて、八つ当たりするようにハンバーガーを口に突っ込んでいく小早川先輩を撮っている男は、何が面白いのか『ダハハハハ!』と豪快な笑い声を響かせた。


『聞いたか、りゅ※△○sZ!?俺ら拉致犯らしいぜ!!」

『マジ可哀想だよね。パトロンの変な女社長に連れ回されていたかと思えば、気付いたらメンヘラ女アイドルに芸能人生ぶっ壊されてるし。しまいにはお前の海外凱旋に連れ回されてるんだもんね。前世で寺でも焼いたんじゃないの?』


 夏風の声が隣にいるだろう誰かに呼びかけたが、生憎と音声の調子が悪いのか名前の部分が聞き取りにくい。


 とんでもなく口の悪い隣の男がケッと吐き捨てるように小早川先輩を滅多刺しにしたせいで、ハンバーガーに齧り付いている先輩の目がますます死んでいった。


『っつーか、17歳の分際でパトロンなんか持つんじゃねぇ。そんなショタコンババアの力に縋るから、どえらい目に巻き込まれんだよ。成り上がるんなら、自分の力で成り上がれ』

『⋯⋯才能マンのふ✕h#さんには言われたくない。真白や聖仁みたいに凄く上手いわけじゃないのに、なんでアンタのパフォーマンスはあんなに目が離せないんだよ』

『ハッ!このド三流アマが。そんな腐った目してるから、ババアの甘言に乗っちまうんだよ』

『り、りゅう──!?』


 全員が喧嘩腰になって、分かりやすく不和の空気が流れた所で動画は途切れた。


 恐らく、撮影者が口の悪い男と小早川先輩の仲裁に乗り出したからだろう。


 というか──。


「小早川先輩は⋯⋯熱愛報道だけじゃなくて、枕的なこともにも手を出してたんすか」


 本当はこんなこと、会ったことがない俺が聞いてしまうのはマナー違反だ。


 だが、聞いてしまったことを聞かなかったふりも出来ずに、一番その事実を受け止めたくないだろう同期の芹沢先輩に尋ねてしまう。


 俺の不躾な質問を真正面から受け取った芹沢先輩は、意外にも澄んだ目をして俺を見返してきた。


「どうだろうね。でも多分、やってないと思う。そういうのは聖仁が目の敵にしてるから」


『思う』と曖昧な表現を使いながらも、芹沢先輩は小早川先輩はやってないと確信しているようだった。


 芸能界では、稀に業界人やスポンサーに身体を明け渡して、売れるための融通を図ってもらうアイドルやタレントがいる。


 そういった行為は『枕』と呼ばれていて、性別問わずに使われている奥の手だ。


 その奥の手を虎南先輩が蛇蝎(だかつ)のごとく嫌っているのが、なんともらしくて、つい笑みが溢れてしまった。


 芹沢先輩も俺の言いたいことが分かるのか、一緒になってクスクス笑う。


「聖仁は女泣かせなのに、自分が泣くのは嫌なんだ。だから、私と昂汰が事務所に所属した時は口を酸っぱくしてずっと言ってた。『絶対に自分を安売りするな。お前達自身で値を安くしたら、俺が許さない』って」

「やっぱ虎南先輩って、女泣かせなんすね」

「は!? ま、誠君。これは私達の秘密にしてくれないかな。後輩に話してしまったことがバレたら、私は暫く聖仁の手作り料理を食べなきゃならないんだ」

「そんであの人、自分の馬鹿舌を振るう機会を虎視眈々と狙ってるっすよね」


 流石に血の気を引かせている芹沢先輩にこれ以上の意地悪は出来ず、虎南先輩が『女泣かせ』なことはここだけの秘密にすることにした。


 ただ、自分の舌と胃腸の命が掛かっているからか、言葉だけでは信用出来ないと芹沢先輩は立てた小指を差し出してくる。


 その仕草がなんとも子どもっぽくて、けども、それが芹沢先輩の仕草としてよく似合っていたから、俺はそれ以上の忍び笑いを堪える。


 そして、己の立てた小指を先輩の小指と絡めた。


 そこまでやって、やっと芹沢先輩は安心できるとばかりに安堵の息を吐き出す。


 どうして指切りげんまん如きでそこまで、ホッとした顔ができるんだろうな。


 ──口約束も指切りも、効力は一緒だろうに。


「でも、虎南先輩って過去の女とのアレコレとか全然スクープ出ないっすよね」


 俺との約束が済んだからか、芹沢先輩の口は長年履いたスウェットのようにユルユルだった。


「聖仁が言うには、『アフターフォローがしっかりしてるから』って。実際に女性と色々とあったのも中学までで、学生アイドルになってからは全部精算してるから、そもそも問題ないって言ってた」

「嫌な中学生だな」


 今朝の女子生徒用のリボンの仕組みを知っていた辺りから、何となく遊んでた気配は感じ取っていたが、多分俺が思っている以上に奔放な女性関係を築いていたんじゃないだろうか。


 ──ってか、まさかあの人。

 その頃は部屋の掃除とかも女の子に任せてたから、あんなにも生活能力が無いとかじゃないよな?


 不意に浮かんだダメンズ過ぎる『もしも』に頭の奥を痛くさせていると、芹沢先輩が不思議そうな顔で俺の顔色を伺っている。


 それに「なんでもないっす」と軽く手を振って、気にしないでほしいとばかりに愛想笑いを深めた。


 流石にここまで明け透けな話を、清廉潔白な芹沢先輩にするのも躊躇(ためら)われた。


 芹沢先輩は俺のジェスチャーを暫くぼんやりと眺めていたが、詮無きことと片付けてくれたようで、俺に向けていたスマホ画面を自分へと向けなおす。


 スマホ画面に映る小早川先輩の姿に視線を落として、考え込むように目を瞑った。


「昂汰は生きている」


 宣言するように紡いだ言葉と共に、瞼の裏側から森の奥を彷彿とさせる見事な緑が現れた。


 それだけでは物足りないとばかりに、芹沢先輩は画面に映る小早川先輩を親指でなぞっていく。


「エンジュも復活した」


 小早川先輩の輪郭をなぞっていた親指は、スマホ画面の縁──否、三大天使のスマホカバーへとゆっくりと移動していく。


 愛おしそうに落とされた視線と親指で辿られるスマホ画面は、静止画のままなこともあってうんともすんとも言わない。


「水色は無事に誠君へと引き継がれた」


 やがて、情の籠った双眸(そうぼう)は、目の前にいる俺へと向けられる。


 芹沢先輩の瞳孔は、暗闇の中にいるからか開ききっていた。


 それは人体の作り上、何も不思議なことではないのに、どうしてか脳の隅っこでは嫌な虫の知らせというように、変にざわめいていた。


「これで⋯⋯本当に何もかもが万事上手くいったんだね」


 ここで見つけた時と同じように、芹沢先輩の声がまた震えている。


 いつの間にか、先程まで漂っていた朗らかなムードは一掃されていて、再び湿っぽい空気感が俺達を取り囲んでいた。


「ねぇ、誠君」


 問いかけられた名前は、酷く重たく聞こえた。


 なぞっていたスマホから上げられた先輩の指は、迷うような素振りをしながらも俺へと真っ直ぐに伸ばされる。


 その指先の行く末を見守ることなく、必死に震える唇を捩じ伏せて次の言葉を吐き出そうとする芹沢先輩を見据える。


 先輩の指が、頬に手を掛けた。


 こんな所で閉じこもっているせいで、酷く冷たいそれを払い除けずに、俺はされるがままだ。


「今度は避けないんだね」

「なんすか」

「え?」

「俺に答えて欲しいことがあるんすよね」


 くるんとカールした睫毛に覆われた両目が、信じられないことを聞いたとばかりに見張られる。


 しかし、そんな虚をつかれた表情もすぐに消え去り、先輩は緩やかに笑った。


「本当に君は、全てお見通しだ。適う気がしないよ」


 三日月になった両目に涙を溜めた先輩は、ようやっと気持ちが整ったとばかりに瞳に強い光を宿した。


「答えて欲しいことなんて、誠君が俺を推しだって言ってくれた瞬間に無くなっちゃった。だから、言いたいことは一つだけ」

「⋯⋯は?」


 余裕ぶれたのは、本当に数秒のことだった。


 急に自分の耳が変になってしまったのかもしれないとまで、思ってしまう。


 何故なら──芹沢先輩の口から『姫城誠が芹沢真白を推し』にしているという絶対に出てこないワードが出てきたからだ。


 俺が芹沢先輩を推していることは、本人には生涯告げるつもりのない秘密だ。


 俺にとってのこの気持ちは、前世から持ってこれた唯一の感情だからだ。


 自分の正体に迫れるこの感情だけは、大事に取っておくのだと決めている。


 だから、本人にバレてしまったが故に、推しへの純粋な気持ちが変わってしまうことを何より恐れていた。


 なのに──さっき、先輩はなんて言った?


 固まっている俺を気にしていないらしい先輩は、弄ぶように俺の頬を撫でていく。


 まるで、俺達の今の関係を表すかのように。


「俺はもう、君を手放せない」


 この時、漸く、俺は先輩の瞳孔が開いている理由を知った。


 暗闇の中で光を集めるために開いたのではなく、あの夏の宵の時のように熱に浮かされた魔物が再び、表面上に出てきたのだと。


 しかも、ライブ前に出てきた時のような生半可な出現では無い。


 暗幕の中で爛々と輝く両目が、うっそりと微笑んだ。


「大丈夫、もう昂汰のような失態はしないよ。昂汰と違って体の何処かで迷子になってしまう可能性もあるかもしれないけど、記憶と人格なら多分、まだ扱える」


 俺は芹沢真白という人間を、心底侮っていたのだと、思い知らされた。


 プロアイドルとして活躍できるポテンシャルのみならず、頭脳の方も難関大学を狙えるのだと教師からお墨付きを頂いている文武両道の優等生。


 そんな完璧超人が俺の秘密の一つや二つは、あっという間に看破していても可笑しくないはずだった。


 しかし、そうと思い知らされても、心は追いつかない。


「な、何を言ってるんすか」

「難しい話じゃないよ。誠君の人格を定着させる方法をいくつか考えたんだ。思ったよりも人の記憶も脳も単純でね。俺の知っている誠君が何らかの衝撃で奥底に引っ込んでしまっても、呼び出すためのスイッチを設定すれば良いってことまでは辿り着いたんだ」


「だから、あとは何をスイッチにするか次第だね」と、先輩は嬉しそうに笑いかけてくる。


 一体、俺はどこで(ぼたん)を掛け違えたのかが分からない。


 ただ、これだけは分かる。


 俺が記憶喪失であり、人格すらも別物だってことをバレてはいけない人にバレてしまったのだと。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ