その三 side-I
次に起きたのは辺りがだんだんと暗くなってきたころだった。時計を確認すると、午後六時過ぎ。何時に寝たか、はっきりと覚えていなかったけれど、おそらく二時間は寝ただろう。時間としては大した睡眠ではないのだけど、私はずいぶんすっきりした気分になっていた。頭の痛みも大分引いていて、気持ちも楽になっていた。
すると途端にいろいろなものが見えてきた。ここは本当に寝室と呼ぶにふさわしく、勉強机すらなかった。おそらくここは寝起きと着替えをするための部屋なのだろう。ベッドと箪笥・クローゼットしかない。つまり勉強部屋は他にあるということだろうか。彼は高校生の一人暮らしである。にもかかわらずなぜこんなに広い部屋に住んでいるのだろうか。家庭の事情にあまり首を突っ込んではいけないと思い、深く追求したことはないのだが、前々から気になっていたことだ。箪笥だってシンプルだが、安物には見えない。このベッドにしても布団にしても私が寮で使っているものより、ずっといいものだ。彼は毎日こんないい布団で寝起きしているのかと思うと、少し頭に来た。そこでふと気付く。
彼が、毎日、寝起き……。
「…………………………」
ついに意識してしまった。もう知らん顔することはできない。私の顔は急激に熱を帯びる。一瞬熱がぶり返したのかと思ったが、そんなことではもちろんない。
私は途端に落ち着きをなくした。どうにも落ち着けない。今、私の周りは彼の匂いで充満している。出会ってから、もう一年以上の付き合いになるけれど、ここまで彼を近くに感じたことはない。顔が熱い。きっと私の顔は真っ赤だろう。このままではまた熱が上がってしまうのではないか。加えてここはベッドの上、布団の中なのだ。そこで彼の匂いに囲まれて。なぜか緊張してしまうし、恥ずかしくてしょうがない。
私はもう一度寝ようと、布団をかぶりなおす。しかし、思い切り逆効果。私は何度も寝返りを打ったり、水を飲んだり、とにかくいろいろしたのだが、結局落ち着きを取り戻すこともできず、眠ることもできなかった。
そのまま二時間、無駄に疲労を蓄積して過ごしてしまった。午後八時を回ったとき、部屋のドアがノックされた。
「あ、はい。どうぞ」
私が返事をすると、彼が部屋に入ってきた。
「いつから起きていたんだ?」
「六時くらいからですかね」
「それから一睡もしていないのか?」
「はい……。何だか緊張してしまって……」
私の言葉に、彼は若干眉をひそめる。私の言っていることが理解できていないのだろう。私だってビックリだ。この部屋には幾度となく訪れた。泊まったこともある。違いはこのベッドで寝たか否かだけだ。
その事実を再び感じてしまい、顔を赤くした私のそばに彼がやってきて、しゃがみこむと、
「それで、体調はどうだ?」
と尋ねてくる。
「さっきよりは大分楽になりました。すみません、迷惑かけました」
今思うと、我ながらとんでもないことをしたと思う。雨の中帰ってきたら、ドアの前で誰か倒れていたのだ。彼の動揺は半端じゃなかったと思う。私としては、今更ながら申し訳ない気持ちでいっぱいになり、何度謝っても足りないように感じていたのだが、
「侘びはさっき聞いた」
と、彼はそっけなく答えた。彼は謝られるのがあまり好きではないみたいだ。それに、彼は鈍感を極めたように、感謝や罪悪感に疎い。私の罪悪感や、突然来たにもかかわらず、不満を口にせずに、しっかりした対応をしてくれたことに対する感謝など、全く知る由もないのだ。それが謙遜ではなく、本心であるのだから、もっとちゃんと侘びや感謝を伝えたい私としてはとても困る。
例によって、本気で気に留めていないような態度で、私に体温計を渡してくる。私は、納得行かない気持ちを抑えて、体温を計った。
「そろそろ夕飯時だが、何か食べられそうか?」
「はい。おなか減りました」
寝ていただけだというのに、私のおなかは激しく自己主張していた。恥ずかしいと嘆くべきなのか、元気が出てきたと喜ぶべきなのか、恋する乙女としては非常に微妙なところである。
「じゃあ持ってきてやるから」
どうやらすでに製作済みである様子。こう答えるとバレバレだったようだ。食に対する執着が強いと思われていることを嘆くべきなのか、私のことをよく理解してくれていると喜ぶべきなのか、恋する乙女としては非常に微妙なところである。
そこで、体温計がチープな機械音を上げ、計測完了を告げる。
「何度だ?」
「三十七度九分です」
先ほどから一度以上下がっている。確実に体調は良くなっているようだ。私は安心した。しかし、
「見せてみろ」
彼は信じてくれていない様子。私は書いてある数字をそのまま読み上げたのだが、そう言われると、少し頭に来た。そして、私は思いつく。
「今度は本当ですよ」
私は体温計を身体に抱え込むようにして、彼の要求を拒んでみせた。彼は、私の行動を見て眉をしかめる。おそらく彼は、私の言った数値の真偽を確かめるために言ったのだろう。なのに、私は体温計の提出を拒んだ。すると、彼が取るべき行動は一つに絞られるだろう。
彼はため息混じりに、私の顔に向かって手を伸ばす。そして、額に手のひらを当てた。先ほどとは違い、彼の手のひらの感覚が額を通して、鮮明に伝わってくる。傍から見る分にはとてもきれいで、女性のそれと見違うような整った見た目をしている彼の手だが、実際はやはり男性の手で、女性の手よりは少し硬い。私はまたしても顔が熱くなった。考えてみれば、これだけ近くにいるのに、手に触れたのは今日が初めてかもしれない。それともあまり意識していなかっただけなのだろうか。
そんなことを考えていると、彼は手を離した。何か言わなければ。私の行動に、不審を抱かれてしまう。
「ね、本当に下がっていましたよね」
こう言って、彼に体温計を渡した。彼は体温計に目を落とした後、私を軽くにらみつけていた。あまり見かけない彼の様子に、私は思わず笑みを漏らしてしまった。
すると彼はため息をついて、
「じゃあ夕飯の支度をしてくる。ちょっと待ってろ」
と言って、立ち上がった。ということはここで食事をしなければならないのか。私は未だこの官能的な空間に慣れることができていない。
「あ、あの成瀬さん。できればリビングで食事したいのですが……」
「何で?」
「あの、ここだと少し落ち着かないもので……」
彼は一人暮らしだ。寝具はこのベッドしかないだろう。寝るのは我慢するとして、食事をする場所くらい、別にしてもらいたい。でなければ、私の熱はこのまま下がることがないだろう。私は精一杯真摯にお願いしてみたのだが、
「駄目だ。病人は布団の上から動かないものだ。これ以上迷惑をかけたくなければ大人しく待っていろ」
と、見事に断られてしまった。確かに今立ち上がって熱が上がってしまっては意味がない。すでに多大な迷惑をかけてしまっているので、さすがに逆らうわけにはいかず、不本意ではあったけれど、ここは頷かざるを得なかった。
彼が来るまで、ベッドの中で布団に包まっていたのだが、考えることは彼のことばかりだった。しかし、彼がおかゆを持ってくると、その匂いで少しの間忘れることができた。何しろおなかが空いていたため、本当に嬉しかった。
私はベッドの上で起き上がり、その膝の上に彼がお盆ごとおかゆを乗せてくれる。
「ありがとうございます」
「水は足りているか?」
その言葉と同時に彼はペットボトルを見た。その中身はほとんど残っていなかった。私は思わず、彼の袖を掴んでいた。そして思わず、
「あ、水はいいので、い、一緒にここにいて下さい……」
と言ってしまった。恥ずかしい。反射的な行動と言動とはいえ、こればかりは恥ずかしすぎた。今日の私は本当にどうかしている。熱が出て、学校を休んだだけで寂しくなってしまい、一駅以上離れた彼の家に来てしまっている。加えて今のこと。正直、瞬間的な体温の上昇が急激過ぎるし、激しすぎる。
これ以上ない愚行をしてしまった私は、己の愚昧さを嘆いていたのだが、私の発言を受けた彼が、ベッドの隣に腰を下ろした。彼は今の発言について、どう考えているのだろうか。そんなことをチラッと考えてしまったのだが、すぐに頭を振り思考を飛ばした。これ以上妄想してしまうと、頭が爆発してしまう。適当に話を振って、違うことを考えよう。
「成瀬さんは食べないんですか?」
「俺はもう食べたんだ。遠慮しないで早く食え」
「はい!いただきます!」
我ながら下手な演技だったと思う。これでは落ち着きをなくしてしまっていることがバレバレである。万が一、下手な演技を信じてくれたとしても、これではただの食いしん坊だ。大して動いていないのに、喜んでおかゆにかぶりつくなんて、恋する乙女にふさわしくない。
そんなことを考えながら、私は勢いよくれんげでおかゆを掬った。そして、口に運ぶ。その直後、
「熱いから気をつけろ」
その助言は意味を成さなかった。注意してくれたのはとてもありがたかったのだが、すでに手遅れだ。私は熱さに耐えられず、口を開ける。口に入れたおかゆをはふはふしながら、
「そういうことはもっと早く言って下さい」
と言ったのだが、おそらく彼には届いていないだろう。彼は私の怒りをさらっと無視して、
「それで、いつからここにいたんだ?」
「えっと、だいたい二時くらいに寮を出たので、二時半くらいでしょうか」
やっとの思いでおかゆを飲み込み、私は質問に答えた。
「あんた携帯は持っていないのか?」
と言われて、考える。そういえば家を出てから携帯電話を見ていない。かばんを探してみたけど、やはりなかった。落としてしまった可能性もあるけど、携帯電話を持って寮を出た記憶がないので、おそらく忘れてきてしまったのだろう。
「ああ、そういえば、家に忘れてきてしまいましたね」
「化粧はしっかりしてきているのに、か?」
彼のこの言葉に私は閉口。この人、こういうことには気付くのか。おしゃれ関係には全く無頓着かと思っていたのだが。
私が黙っているのをいいことに、
「そんなどうでもいいことばかり考えているから、考えなくてはならないことを忘れるんだ」
こんなことを言い出した。これにはさすがに黙っているわけにはいかなかった。
「ど、どうでもいいことではありません!女の子にとってはかなり重要なことなんです!成瀬さんには解らないことでしょうけど!」
一体誰のためにお化粧をしていると思っているのだろうか。もちろん自分のためではあるけど、その次に彼のためである。しかし、解っている。彼の言っていることはもっともだということを。先に連絡を入れておくべきだったかもしれない。
「食事中に叫ぶな」
食って掛かった私に対して、彼の対処はいつも冷静。彼は私のことを少しは考えてくれているのだろうか。何で携帯電話を忘れるくらい冷静でなかったにもかかわらず、お化粧は忘れなかったか、ちゃんと解っているのだろうか。きっと疑問に思っても考えることを放棄しているのだろう。考えるだけ無意味だと。
そんな私を尻目に、彼は話を続ける。
「あんたの携帯に、真嶋からのメールが入っているはずだ。心配していたぞ」
「そ、そうですか。これは悪いことをしてしまいました・・・」
これに関しては本気で反省した。私の体調を心配してくれた人に対して、返信をしないと余計に心配させてしまう。
「成瀬さん、電話貸して下さい」
「何で?」
「決まっています。真嶋さんに連絡をするからです。心配かけて申し訳ありませんと、伝えたいんです」
「後にしろ。それより先にさっさと飯を食え。おかゆが冷めると不味いぞ」
「まだ熱いと思うけど」
またしても遅い忠告に、私の口の中は大変なことになってしまったのは言うまでもない。
「はふー。ご馳走様でした。おいしかったです」
「そりゃどうも」
全然喜んでいないような返事をする。私としては本気でおいしかったのだ。味以外の何かを感じたようで、彼の私に対する気持ちの一部が流れ込んできた感じがした。おそらく気のせいだと思うけど。しかし、そんな私を尻目に、
「食ったあとすぐに寝るな」
いつもどおり私の行動に対して、冷静な非難をしていた。
「いや、落ち着いてしまって。ようやくここにも慣れてきましたし」
実際先ほどまでは緊張し続けていたのだ。変に意識してしまってからはなおさらだ。本当に気持ちが楽になってきたような気がした。ただ、正直緩みすぎてしまったのかもしれない。
「もう何度もうちには来ているだろう。慣れるも何もないと思うが」
言われて気がついた。思わず本音が口からこぼれてしまった。
「いえ、確かにこの家にはずいぶんお世話になっているのですが、」
何て誤魔化そうか、必死になって頭を働かせたのだが、
「何だ?」
彼に真顔で問い詰められて、
「あ、あの、匂いが」
またしても思わず本当のことを言ってしまった。
「におい?」
「何の匂いだ?」
「そ、その……。成瀬さんの……」
聞いた彼は、一瞬納得したような表情になり、そしてすぐに眉をしかめて、不機嫌そうな表情を作った。
「あ、別に嫌と言っているわけでも、臭いと言っているわけでもありませんよ!」
私は訂正した。冷静に考えてみれば、こんなこと言われていい気持ちになる訳がない。誤解で嫌悪感を抱かれたら、私としてもかなり気分がよくないので、
「こうして、成瀬さんのスウェットを着て、成瀬さんのベッドで成瀬さんの布団に包まれていると、成瀬さんの匂いが私の周りに充満していて……」
と一生懸命説明したのだが、ここまで口にして気がついた。
「だ、だから何となく、な、成瀬さんと一緒にベッドインしているような気がして……」
どっちにしても、嫌悪感を抱くのではないだろうか、と。
実際、案の定だった。
「な、何するんですか!女の子に!」
言った瞬間、頭をはたかれた。咄嗟に攻勢に出たが、
「やかましい!何が女の子だ。変な妄想もいい加減にしろ。それと、あんたの妄想に俺を巻き込むな。何が一緒にベッドインだ。高熱が出て頭に気味の悪い虫でも湧いたか?」
最後の一言は余計だったとして、彼の言うことのほうが百倍正しかった。しかし、私だって本気でそんなことを考えていたわけではないし、彼のほうが正しかったからと言って、このまま黙っていたら、私はただの変態である。なので、
「わ、私だって本気でそんなこと思っていたわけじゃないですよ!ただ、そんな感じがすると、あくまで感覚を言葉で表現しただけで、だから、私は落ち着かないって……」
私は本気で釈明した。ただ、ほとんど本当の話だったのだが、ところどころ曖昧な表現を使っていたので、言っていて説得力がないと感じていた。しかし、彼は理解してくれたようで、
「まあ、それは置いておいて。とりあえず元気になったようだな」
と、話題を変えてきた。
「はい。おかげ様で」
私は素直に感謝の気持ちを伝えたのだが、返って来たのはまたしても頭に平手打ちだった。
「な、何ですか!もう変なこと考えていませんよ!私はお礼を言っただけで」
訳が解らなかった私は、彼に抗議したのだが、
「このバカ野郎」
私は本当に何も解っていなかったようだ。
「何考えてやがる。学校を休むほどの高熱出したやつが、雨の中外をうろうろするな」
「…………」
私は何も言うことができなかった。彼の言うことがあまりに的確すぎて。自分があまりに愚か過ぎて。
「しかも雨の中、一時間もあんなところで寝てやがって、肺炎にでもなったらどうするんだ。今でも肺炎は怖い病気なんだぞ」
「すみません……」
目頭が熱くなる。彼の怒りがあまりに怖かったからではない。とにかく涙ができてきた。泣いてしまうと彼を困らせてしまう。そんなことは百も承知だった。しかし止まらなかった。彼は優しい人だ。困っている人、悲しんでいる人を見かけると、放っておけないくらい優しい人だ。そんな彼が、ここまで怒ってくれている。それは間違いなく私に対する優しさだった。
「たかが風邪だって見くびっていると、痛い目見るぞ。今日は俺がたまたま早く帰ってきたからよかったものの、麻生あたりとどっかうろうろしていたら三十九度じゃすまなかったかもしれないんだぞ」
「…………」
私は沈黙の変わりに感謝を述べたかった。しかし声は出なかった。代わりに出てきた涙はとどまることを知らなかった。そんな私を見て、彼は呆れてしまったように、一度小さくため息をつくと、いつもの落ち着いた声に戻って、私に向かって、タオルと携帯電話を放り投げてきた。
「とにかく、こんな無茶は二度としないでくれ。俺に迷惑をかけたくないんだったらな」
「はい、すみません……」
とにかく何も言えなかった。謝るしかできなかった。でも、悪いと思った反面、素直に嬉しかった。不謹慎かもしれないし、彼には絶対に言えないが、私を心配してくれて怒ってくれた彼の優しさに、心が熱くなった。しかし、直後急激に熱が下がるようなことを言った。いつも私に構ってくれず、声をかけるのはいつも私からだった。正直私に興味ないのでは、と疑問に思ったことは数知れない。しかし、今日のことで彼の、私に対する気持ちが少し伝わってきた。もしかしたら彼が私に対して積極的に行った初めての行動だったかもしれない。
小さな喜びに浸っていると、彼はそれを妨害するようなセリフを口にした。
「真嶋に連絡入れてやれ。そういえばお見舞いに行くとか言っていたから、かなり心配しているだろう」
もう八時を過ぎている。まさかとは思うが、まだ寮の前で彼女が待っていたらどうしよう。きっと心配しているだろう。加えて、私も彼女が心配である。なぜ今言ったのだ。正直遅すぎると思う。
「そ、それを先に言って下さい……」
怒られた直後とは言え、さすがに悪態をつかざるを得なかった。