Part.3 side-N
それから四時間くらいが経過した。現在午後八時。俺は寝室を訪れた。まだ寝ているかもしれないが、一応ノックをする。
「あ、はい。どうぞ」
返事があった。どうやら起きていたようだ。俺はドアを開けて中へ入る。
「いつから起きていたんだ?」
「六時くらいからですかね」
「それから一睡もしていないのか?」
「はい……。何だか緊張してしまって……」
もう何度もうちには足を運んでいるだろう。寝泊りだってしたこともある。今更緊張などするだろうか。
とにかく、それでは二時間くらいしか寝ていないじゃないか。俺はベッドの横にしゃがみこみ、尋ねる。
「それで、体調はどうだ?」
「さっきより大分楽になりました。すみません、迷惑かけました」
「侘びはさっき聞いた」
俺は体温計を手渡す。最新のものではないので少々時間がかかる。
「そろそろ夕飯時だが、何か食べられそうか?」
かく言う俺はすでに夕飯を済ませたのだが。
「はい。おなか減りました」
寝ているだけだったというのに、よく言いやがる。とはいえ、そう言うだろうと思っていたので、すでにおかゆは製作済みである。
「じゃあ持ってきてやるから」
そこで、体温計がチープな機械音を上げ、計測完了を告げる。
「何度だ?」
「三十七度九分です」
さっき計ってから一度以上下がっている。どうやら落ち着いたようだ。その数値が本当なら、の話だが。
「見せてみろ」
俺は体温計の提出を要求すると、
「今度は本当ですよ」
こう言いつつ、岩崎は体温計を身体に抱え込むようにして、俺の要求を拒んだ。それじゃ、真意を確かめられないではないか。
仕方がないので、俺は先ほど同様、岩崎の額に手のひらを当てた。確かに若干下がったように感じる。すると岩崎は、
「ね、本当に下がっていましたよね」
などと言い、体温計を渡してきた。確かに岩崎の発言どおりの数値が表示されていた。始めから渡しやがれ、手間かけさせやがる。
俺が思い切りため息をつくと、岩崎は楽しそうにくすくす笑った。
どうやらからかわれたみたいだ。本当に面倒なやつだ。ま、それほど回復したということだろう。
「じゃあ夕飯の支度をしてくる。ちょっと待ってろ」
そう言って俺が立ち上がり、部屋を出ようとすると、
「あ、あの成瀬さん。できればリビングで食事したいのですが……」
「何で?」
「あの、ここだと少し落ち着かないもので……」
さっきも同じようなこと言っていたな。何で今更そんなことを言うのだろうか。ベッドの上で食事をするのが嫌なのだろうか?
「駄目だ。病人は布団の上から動かないものだ。これ以上迷惑かけたくなければ大人しく待っていろ」
おかゆを持ってくると、待ってましたとばかりに岩崎が手を叩く。どうやら熱だけではなく、体調的にも回復したようだ。ま、いいことなんだけどね。
俺はお盆ごと、岩崎の膝の上に乗せてやった。
「ありがとうございます」
「水は足りているか?」
俺はペットボトルを見て言う。中身はほとんどなくなっていた。返事を待たずに再び部屋から出て行こうとすると、岩崎は、
「あ、水はいいので、い、一緒にここにいて下さい……」
人は弱ると急に心細くなるという。だからと言って一駅以上離れた他人の家に来るのはどうかと思うが、これくらいなら許してやろう。
俺はきびすを返して、ベッドの脇に座る。
「成瀬さんは食べないんですか?」
「俺はもう食べたんだ。遠慮しないで早く食え」
「はい!いただきます!」
手を合わせてそう言うと、岩崎はれんげを持ち、食事を始めた。
「熱いから気をつけろ」
と言ったときにはすでに口に入れてしまった後だった。岩崎は何事か、はふはふ言っていたが、おそらく
「そういうことはもっと早く言って下さい」
と言ったのだろう。
「それで、いつからここにいたんだ?」
「えっと、だいたい二時くらいに寮を出たので、二時半くらいでしょうか」
すると、俺が家に帰ってくるまでの約一時間半、ああして外で待っていたと言うのか。全くご苦労なことだ。俺と岩崎はクラスが同じなので、今日の時間割くらい知っていたはずである。つまり、今日は何限まであって、何時くらいこの家に帰ってくる、というところまで予測が立てられたはずだ。それなのに一時間もこんなところで待っていたということは、無計画でここにきたということが解る。もしかしたら普通の時間に帰ってこない可能性もあったのだ。どうせなら連絡を入れてくれればよかったのだ。
「あんた携帯は持っていないのか?」
「ああ、そういえば、家に忘れてきてしまいましたね」
「化粧はしっかりしてきているのに、か?」
と言っても、いつもどおり薄くしているだけなのだが。
岩崎は黙り込み、顔を真っ赤にした。どうやら驚いているらしい。おそらく俺が気付いていないとでも思っていたのだろう。
「そんなどうでもいいことばかり考えているから、考えなくてはならないことを忘れるんだ」
「ど、どうでもいいことではありません!女の子にとってはかなり重要なことなんです!成瀬さんには解らないことでしょうけど!」
「食事中に叫ぶな」
これでは真嶋のメールに返事がないことも納得できる。余計な心配かけやがって。もちろん真嶋に対して、である。
「あんたの携帯に、真嶋からのメールが入っているはずだ。心配していたぞ」
「そ、そうですか。これは悪いことをしてしまいました……」
そういえば麻生も心配しているようなこと言っていたが、まあそれはいいか。うーん、何か他にも忘れているようなことがあったような気がするな。思い出したら言おう。
「成瀬さん、電話貸して下さい」
「何で?」
「決まっています。真嶋さんに連絡をするからです。心配かけて申し訳ありませんと、伝えたいんです」
本当に律儀なやつだな。しかし、
「後にしろ。それより先にさっさと飯を食え。おかゆが冷めると不味いぞ」
岩崎は思い出したように手元を見ると、急いでかき込み始めた。そして、
「まだ熱いと思うけど」
またはふはふ言って、残り少ない水を一気に口に含んだ。
「はふー。ご馳走様でした。おいしかったです」
「そりゃどうも」
それからものの十分ほどで食事を終えた岩崎は、満足そうにベッドに寝転んだ。
「食ったあとすぐに寝るな」
「いや、落ち着いてしまって。ようやくここにも慣れてきましたし」
そういえばさっきもそんなこと言っていたな。
「もう何度もうちには来ているだろう。慣れるも何もないと思うが」
確か、寝室にも入ったことがあったはずだ。俺が拒絶しているにもかかわらずな。
「いえ、確かにこの家にはずいぶんお世話になっているのですが、」
ここで言葉をつまらせた岩崎は、若干迷っているように見える。気のせいか、熱が高かったとき並に顔が赤い。
「何だ?」
「あ、あの、匂いが」
「におい?」
確かにスウェットのほうはずいぶん前に洗濯したきりでタンスの肥やしになっていたので、防虫剤の匂いがしっかりついてしまっているかもしれない。だが、そんなに気になるようなものではなかったはずだ。
「何の匂いだ?」
「そ、その……。成瀬さんの……」
俺の匂いだと?それはスウェットではなく布団のほうか。うーん、考えが及ばなかったね。確かにここんとこ天候に恵まれなかったから、洗濯も乾燥も出来ていない。俺の匂いとしっかり解るほど臭うのか。いや、こいつに関して俺は悪くないはずだ。うちには来客用の布団などないし、寝かせるといったらこいつしかない。だいたい、アポなしでやってきたお前にベッドを貸している優しい俺が、体臭のことでとやかく言われねばいかんのだ!
「あ、別に嫌と言っているわけでも、臭いと言っているわけでもありませんよ!」
言い訳を聞こうじゃないか。
「こうして、成瀬さんのスウェットを着て、成瀬さんのベッドで成瀬さんの布団に包まれていると、成瀬さんの匂いが私の周りに充満していて……」
意味が解らない。結局何が言いたいんだ?
「だ、だから何となく、な、成瀬さんと一緒にベッドインしているような気がして……」
俺は岩崎の頭を叩いた。
「な、何するんですか!女の子に!」
「やかましい!何が女の子だ。変な妄想もいい加減にしろ。それと、あんたの妄想に俺を巻き込むな。何が一緒にベッドインだ。高熱が出て頭に気味の悪い虫でも湧いたか?」
「わ、私だって本気でそんなこと思っていたわけじゃないですよ!ただ、そんな感じがすると、あくまで感覚を言葉で表現しただけで、だから、私は落ち着かないって……」
何を言い出すかと思えば、呆れるしかなかった。何というか、悪寒がする。寒気がして、鳥肌が立ったね。むしろ頭に来たくらいだ。そこであること思い出す。
「まあ、それは置いておいて。とりあえず元気になったようだな」
「はい。おかげ様で」
俺は岩崎が口を閉じる前に、もう一度頭を叩いた。
「な、何ですか!もう変なこと考えていませんよ!私はお礼を言っただけで」
「このバカ野郎」
何か言い途中だったようだったが、岩崎の口は開いただけにとどまり、言葉は出てこなかった。
「何考えてやがる。学校を休むほどの高熱出したやつが、雨の中外をうろうろするな」
「…………」
「しかも雨の中、一時間もあんなところで寝てやがって、肺炎にでもなったらどうするんだ。今でも肺炎は怖い病気なんだぞ」
「すみません……」
「たかが風邪だって見くびっていると、痛い目見るぞ。今日は俺がたまたま早く帰ってきたからよかったものの、麻生あたりとどっかうろうろしていたら三十九度じゃすまなかったかもしれないんだぞ」
「…………」
俺に説教されるなんて、一体どれだけこいつは間抜けなんだ。まだ何か言ってやろうかと思ったが、本当に申し訳なさそうにこうべをたれる岩崎を見て、開いた口からはため息しか出てこなかった。
「とにかく、こんな無茶は二度としないでくれ。俺に迷惑をかけたくないんだったらな」
「はい、すみません……」
今日岩崎がやった行為がどれほど危険だったか、一番理解しているのは岩崎自身だろう。だからこれ以上言うのは止めておく。というのは建前で、今の岩崎を見ていると、これ以上言いたくなかった。
岩崎は泣いていた。俺の説教が怖かったからではないだろう。おそらく俺の言葉が岩崎の何かに届いたのではないだろうか。
俺はもう一度ため息をつくと、岩崎にタオルと携帯電話を渡した。
「真嶋に連絡入れてやれ。そういえばお見舞いに行くとか言っていたから、かなり心配しているだろう」
「そ、それを先に言って下さい……」
しばらくしゃくりあげていて涙を流していた岩崎だったが、しっかりとした口調で真嶋と謝っていた。