その二 side-I
「おい」
私はそっけない声に起こされた。正直顔を上げるのがつらい。あまり顔を叩かないでもらいたい。私は女の子なのに。
「……ん」
私はゆっくりと目を開ける。するとそこには私の待ち人がいた。私は何て言おうか迷った結果、
「あ……、成瀬さん。お帰りなさい……」
声が出なかった。心配をかけないように、暢気なセリフを選んだのだが、これでは逆効果だろう。
「学校サボって何しているんだ?」
「午前中はちゃんと横になっていたんですが、時間が経つにつれてだんだん独りでいるのが苦痛になってきてしまいまして……」
言っていて自分で情けなくなってしまった。嘘でももっとましなことを言えばよかった。私は思わず自嘲的に笑ってしまった。
「来ちゃいました」
すると彼は、
「……冗談も休み休み言え」
どうやら私は呆れられてしまったようだ。そりゃそうだろう、と私も思う。普通はこんなことしないだろう。私は学校を休んでいるんだ。自分でも非常識な行動だと思った。
彼はため息をつくと、
「立てるか?」
と言って、肩を貸して起こしてくれた。私は思わず顔が熱くなった。近い。近すぎる。不謹慎な気がしたけど、こんなことを考えられるくらいには余裕があるのだと、心のどこかで冷静に分析している自分がいた。
「す、すみません」
「気にするな」
許してくれたというより、呆れてものが言えないといった感じだった。
彼に支えられて、私は寝室に入った。私は今すぐにでも横になりたかったが、勝手に横になるわけにもいかず、彼の指示を待っていると、
「これに着替えろ」
と言って、彼はたんすからスウェットの上下を差し出した。思えば私は完全に余所行きの服だった。確かにこんな格好では寝苦しいかもしれない。というか、私はこの服装で、地面に腰を下ろしていたのか。つらかったとはいえ、ハンカチくらい下に敷くべきだった。お気に入りの服なのだからなおさらだ。
彼が部屋から出て行ったのを見て、私は着替え始める。やはりタクシーに乗ったことは正解だった。あまり濡れていない。私はほっと息をつき、脱いだものを畳んで、今出してもらったものに袖を通す。
「………………」
普段は何てことない着替えという動作がとてもつらい。風邪とはこんなにもつらい病だったのか。
私は何とか着替えを終え、そこで待機していた。が、彼はいつまで経っても来てくれない。私は心配になり、少しだけドアを開ける。するとすぐに彼を確認できた。一安心。
「あの、成瀬さん……」
そこまで言って、私は言うべき言葉がないことに気がついた。そこで、
「あの、着替えましたけど……」
と言った。当然見れば解る。こんなこと報告する必要ないだろう。きっと彼もそう思ったに違いない。冷たい言葉が掛けられると思ったのだが、彼は、
「そうか」
とだけ言って、寝室に入ってきた。
「探したんだが、薬は見つからなかった」
どうやら彼はいろいろ探し物をしてくれていたようだ。時間がかかったのも納得。
「あ、それなら私が持っていますよ」
私は自分のかばんから錠剤タイプの薬を取り出してみせる。それを見た彼は、軽く頷くと、
「とりあえず体温計っとけ。今水持ってくるから」
そう言って、私に古めかしい体温計を手渡した。これは私が小さいころに使っていたものと酷似している。こんなアンティーク、正常に動くのだろうか。
「……はい」
私が返事をすると、彼は再び部屋から出て行ってしまった。張っていた緊張の糸が少し緩む。ふう。私は言われたとおり、体温を計る。今時のものと違って、しばらく時間がかかる。その時間、私はどんどん体調が悪化しているように感じられた。しょうがないので、床に座らせてもらう。
そして、待つこと三十秒ほど。体温計がチープな電子音を上げ、計測完了を告げる。そこに映る数値を見て、私は軽くめまいがした。三十九度。未だかつてこんな高熱出たことがない。原因は二つ。雨の中の徒歩と玄関前での待ち。やはり相当無理をしていたらしい。確かにつらかった。この私が地べたに腰を下ろして、意識を失ってしまうのだから。
私が体温計を見つめたまま、一人反省会を開いていると、寝室に彼が帰ってきた。そして、
「計ったか?」
「はい」
「何度だった?」
正直聞かれたくない。さすがの彼も心配するだろう。もしかしたら病院に連れて行かれてしまうかもしれない。私は迷わず嘘をつくことにした。
「さ、三十七度五分でした」
私が決死の思いでそう言うと、彼は頷いてくれた。信じてくれたのか?と思った直後、
「嘘をつくな」
「え?」
全く信じてくれていなかった。私はなんと言って誤魔化そうかと考えていると、彼は私に手を伸ばしてきた。そして、私の額に、彼の手のひらが当たる。
私は急激な体温の上昇を感じた。顔が熱い。
「三十九度、ってところか?」
「な、何で解るんですか?」
彼の行動に、私がいくつか作っていた嘘の出番は消されてしまった。私の頭は今何も考えることができない。私の頭は、額に当たる彼の手のひらの感触に支配されている。彼の手のひらが冷たくて心地いいと感じてしまうのは、おそらく私の体温が上昇し続けているからだろう。私は爆発してしまうのではないか。
「こんなときに嘘をつくな」
彼が額から手を離すと、私の熱は急激に下がった。こうして私は爆死の危機から免れた。
「でも、私の感覚的には本当にそんな感じですよ。あまり辛くないです。きっとじっとしていればすぐによくなりますよ」
そして再び正常に動き出した頭脳を使い、私はこんな言い訳じみたことを言ったのだが、彼の反応はいつものため息だった。
「強がりはいい。それより薬を飲んで早く寝ろ」
そこまで一瞬で看破されてしまっては、さすがに気分がよくないので、本当に元気だとしばらくアピールしていたのだけど、彼は全く取り合ってくれなかった。怒った私は不貞寝することにした。最初は狸寝入りのつもりだったのだけど、しばらくすると本当に眠気がやってきて、あっさりと眠りについてしまった。