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Part.2 side-N

 雨に対する愚痴が、いつの間にかこの世に対する八つ当たりに変わってきたころ、俺はようやくマンションに到着した。


 自動ドアをくぐり、エントランスに入る。雨から解放されたことに、何となくほっとする。しかし、思ったより強かった雨により、俺の身体はびしょびしょである。頭しか守れていないこの折り畳みの傘ではどうにも防ぎようがなかった。どうして濡れることに対して、人はこれほど不快感を覚えるのだろうか。


 どうでもいいことを考え始めた俺は、そろそろ限界だった。早いとこ着替えないと、さすがの俺でも風邪を引きそうだ。


 俺は傘を畳むと、オートロックを解除しエレベーターに乗り込んだ。目指すは自分の部屋だ。


 エレベーターを降りたところで、俺はまたしても奴と遭遇を果たした。嫌な予感である。やはりというか何というか、俺の嫌な予感はとことん当たる。原因が家でないことを祈ったらこれだ。俺は思わず回れ右したくなったが、そんなことをしてもどうしようもない。今までどおり面倒ごとと対峙するしかない。俺は部屋を目指して歩を進める。


 そして、俺は足を止めた。そこはもう玄関の目の前だ。二・三歩でドアに手が届く。しかし、そのドアの目の前に人が座っていた。そして、そいつのことを俺は知っていた。


 俺は去年の九月に起こった、これまた面倒な事件を思い出していた。確か笹倉のときも、俺の家の前から始まったのだ。あのときの笹倉はかなり様子がおかしかったが、目の前にいるこいつも、とてもじゃないが普通とは言えないな。


 俺はそいつの前にしゃがみこみ、そいつの顔を覗き込んだ。体育座りのようにドアにもたれかかって座っているそいつは、眠っているようだが、楽しげな夢を見ているとは到底思うことができないような、辛そうな表情をしている。こいつ、いつからここにいたんだろうか。


「おい」


 俺は軽く頬を叩く。起こさないという選択肢も俺の中にはあったのだが、如何せんドアにもたれかかっているのだ、起こさなければ中に入れない。


「……ん」


 どうやら起きたらしい。


「あ……、成瀬さん。お帰りなさい……」


 暢気な第一声を放ったそいつの声は、元気なときのバカでかい声と似ても似つかないほど弱々しいものだった。


「学校サボって何しているんだ?」


 どう控えめに表現しても、明らかに衰弱している。


 そこにいたのは岩崎だった。

 

 いつからここにいたのか、いまいち不明ではあるが、どう見ても風邪が治ったからここに来た、という様子ではない。逆にこの雨模様の中の外出で悪化してしまったのではないかというのが俺の見解である。


「午前中はちゃんと横になっていたんですが、時間が経つにつれてだんだん独りでいるのが苦痛になってきてしまいまして……」


 これは俺の問いに対する答えだろう。照れているのか、自嘲気味に笑うその笑顔にも、やはりいつもの力強さがない。


「……来ちゃいました」

「……冗談も休み休み言え」


 俺はもう呆れるしかなかった。開いた口が塞がらないとはこのことだ。バカだバカだと思っていたが、ここまでだとは思いもよらなかったね。


 岩崎がいつもの状態であれば、自分がどれだけバカで愚かで考えなしであるかを、言葉の限りを尽くして説教してやろうかと思った。


 が、止めた。何度も言うように、今のこいつはいつもの状態ではない。今言っても最後まで耐えられそうにないし、どうせ覚えてもいないだろう。聞いてもらえない説教ほどむなしいものはない。やれやれ。


 俺はため息をつくと、


「立てるか?」


 岩崎に肩を貸して、起こしにかかった。


「す、すみません」


 岩崎は真っ赤な顔で侘びの言葉を口にした。謝罪の言葉などいらないから、二度とこんな無茶をしないでくれ。なぜだが知らないが、あんたが無茶をすると俺に被害が及ぶ。それが現在の世の中の仕組みらしい。そう考えると、侘びの言葉を素直に受け取れなかった。


 いっそのこと追い返してやろうかと思ったが、外は雨が降っている。こんな中一人で放り出したら、大袈裟ではなく死んでしまう。それ以前に、仮にも病人である岩崎に対してそこまで邪険にすることは、さすがの俺もできやしない。

 

 とりあえず、


「気にするな」


 と言い、岩崎の身体を支えながら家の中に入った。


 今すぐ着替えたかったが、まずは岩崎を何とかしないことには、自分のことに移れない。俺は岩崎を寝室に連れて行くと、洋服ダンスを漁った。何か着替えるものは……。とりあえずこれでいいだろう。スウェットを上下取り出すと、岩崎に手渡す。


「これに着替えろ」


 そう言い、部屋を出た。この女、今にも死にそうな顔をしているくせに、しっかり余所行きに着替えてここに来ているのだ。さすがにそんな格好で寝かせるわけにはいかないし、それ以前に少なからず濡れていた。スウェットはもちろん俺のものだが、仕方ないだろ。文句なんか言わせないね。


 岩崎が着替えている間、俺は薬を探すことにする。先ほど少し歩くのも辛そうにしていたので、おそらく着替えにもそこそこ時間がかかるだろう。


 うーん、ないな。考えてみればここ何年も俺は風邪を引いていないのだ。薬などあるはずがない。あったとしても一体いつのか解らないような年代ものだけだろう。さすがにそんなものを飲ますわけにはいかない。


 それでもしばらく探し回ったところ、体温計だけは発見した。これも現代的なものではなく、小さいころ世話になっていたようなアンティーク物だったがないよりはましだろ。


 体温計だけ持って寝室に戻ると、


「あの、成瀬さん……」


 全く何を考えているのだろうか。岩崎がドアを開けて、そこから顔だけ出して俺のことを待っていた。


「あの、着替えましたけど……」


 見れば解る。と、普段なら言うところだが、今日は止めておく。


「そうか」


 そう一言口にして、寝室に入った。


「探したんだが、薬は見つからなかった」

「あ、それなら私が持っていますよ」


 岩崎は自分のかばんから錠剤タイプの薬を取り出して見せた。今考えれば、容易に思いつきそうなことだった。


「とりあえず体温計っておけ。今水を持ってくるから」

「……はい」


 俺は部屋を出ると、台所に向かった。屋内に入ってから若干体調が落ち着いたように見える。さすがに外での待ちぼうけは堪えたのだろう。そりゃ当然だ。元気な状態でもいつ帰って来るか解らないようなやつを待つのは堪える。とりあえず早く帰って来てよかった。日が暮れてから、今より悪化した状態の岩崎が玄関先で横たわっていたら、さすがの俺もパニック状態に陥って、条件反射的に119に電話していただろう。


 俺がペットボトルに水を汲み、部屋に戻ると、岩崎はベッドに入り、体温計とにらめっこしていた。


「計ったか?」

「はい」

「何度だった?」


「さ、三十七度五分でした」


 意外に低いな。と、思ったのは一瞬だ。


「嘘をつくな」

「え?」


 俺は岩崎の額に手のひらを当てた。


「三十九度、ってところか?」

「何で解るんですか?」


 もちろん解るわけない。ただのハッタリだ。若干高めに言ったのだが、まさかそんなに高温だったとは。


「こんなときに嘘つくな」

「でも、私の感覚的には本当にそんな感じですよ。あまり辛くないです。きっとじっとしていればすぐによくなりますよ」


 それも嘘だな。おそらく心配かけまいとしているのだろうが、それならこんなところまで来ないでほしい。じっとしていなかったからこうなったのだろうが。岩崎が精神的に強いのはずいぶん前から知っている。おそらくそれと同じくらい身体も強いのだろう。逆に俺はそんなに強くない。もし次に麻生あたりがうちの前で倒れていたらショック死してしまう。それに、あまり辛くないなら人の家の玄関先で倒れるな。


「強がりはいい。それより薬を飲んで早く寝ろ」


 それからしばらく、岩崎は自分がそこそこ元気であるというアピールをしていたのだが、それが聞こえなくなったと思ったら、寝ていた。先ほどと違って呼吸も寝顔も穏やかだと思ったのは俺の気のせいではないだろう。


 俺は自分の着替えを手に取ると、静かに部屋を出た。




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