その六 side-I
「何怒っているんだ?」
「自分の胸に聞きやがって下さい」
思わず口が悪くなってしまう。
「顔が赤いぞ。原因は熱じゃないようだがな」
「黙って歩いて下さい!ええ、もちろん原因は熱じゃありませんとも!」
解ってて言っているところが、また嫌な感じである。彼が嬉しそうなのは、私にとっても喜ばしいことだと思っていたのだが、そうとも限らないのだと、今日はっきりと理解した。この人は、人をからかって楽しむ人なのだ。
「成瀬さんはやっぱり最低です。私が勇気を出して言ったのに。あんまりです。あんなに笑われたら私がかわいそうです」
私は彼に対する恨み言を呟きながら、無心で歩を進める。何だか弱点を作ってしまったような気がする。いや、彼に強力な武器を渡してしまったと言ったほうが合致しているだろうか。とにかく今の私はかなり不利な状況だ。心の守りを厳重にしておかないと、更なる弱点を作ってしまいそうだ。
これ以上不利な状況を作ってしまわないために、自分に暗示をかけていると、ようやく気付く。私の隣に彼がいなかった。急いで周りを見渡す。すると、背後に彼の姿を発見。まだあんなところにいたのか。早く出たとは言え、寄り道しなくてはならないのに、なぜあんなにゆっくり歩いているのだろうか。
「何しているんですか?早くして下さい!」
私が彼に向かって叫ぶ。彼は軽くため息をつき、少しだけ歩くペースを速めた。そして、ふと何か考えるような表情になり、直後、またしても頬が緩み始めた。
「ちょっと!また笑っているんですか?いい加減本気で怒りますよ」
一旦つぼに入ってしまうと、なかなか抜け出してくれないので、それを阻止するために、私自ら駆け足で近づいた。今は外にいるのだ。さすがに黙って見ているわけにはいかない。
「悪かったよ。いい加減しつこかったな」
私が近づくと、彼は適当極まりない感じで、謝った。しかし、そんなもので許すつもりはない。もう一度きつく言っておく必要がある、と思った私は口を開く。
「しつこいにもほどがあります。ものには限度ってものがあるんです。その辺を無視して行き過ぎると、暗黙のルールから逸脱します。成瀬さんは完全にルール違反です!」
「解っている。だからこうして謝っている」
「全然反省の色が見えません。上辺だけの謝罪なんて、してほしくないです。一昨日きやがれです」
私がこういうと、彼は黙り込んだ。おそらくしばらく放置して、機嫌がよくなるのを待つつもりだろう。要するに、逃げ、である。これは私の勝ちということでいいだろう。今後、一切この話題を禁ずることにしよう。そしてもう一つ、勝者は敗者に対して、何でも自由にできる権利を持つ。せっかくだから、私もそれを行使することにしようと思う。
私は歩く速度を落とし、彼の隣に並んで、同じ速度で歩く。
「何だ?」
「別に何でもありません。ちゃんと前見て歩いて下さい。転びますよ」
私の変化に気付いた彼が、いぶかしんで問いかけてくる。もちろん私は答えない。私は勝者なのだ。敗者の言うことに耳を貸す必要はない。
私は徐々に彼に近づく。そして、私の肩が彼の腕に当たる。それは今まで入れそうで、入れなかった空間。今までは彼と私との間には、近くて遠い若干の距離があった。だが、今はない。それは少し動かせば、手と手が触れ合う距離である。
「…………」
意識すると、顔が熱くなった。普段ならこんなことは絶対に出来ない。でも今は、勝者なのだ。いつもの私なら、ここまでで許したかもしれない。しかし、今日はこんなもので許すと思ったら大間違いだ。私は次なる行動に出ようとする。すると、
「あんた、大丈夫か?」
突然声をかけられて、私は伸ばしかけた手を引っ込めてしまう。
「え?な、何でですか?」
「どんどん俺のほうに寄ってきているぞ。顔も赤いし。熱がぶり返してきたんじゃないか?」
私は思わずむっとする。相変わらずの鈍感っぷりだ。私の行動に関して、一切理解できていないらしい。私は言い返そうと思って口を開いたのだが、更なる名案が頭をよぎった。
「そうですね、もしかしたら熱が出てきたかもしれません。成瀬さん計って下さい」
「若干熱いな」
手を伸ばし、私の額に手のひらを当ててくる。何度やってもくすぐったい。しかし、嫌な感じはしない。むしろくせになってしまいそうな感覚だった。
「やっぱりそうですか。少し熱いです」
何でもないように言ってみせる私。だが、赤くなった頬はおそらく隠せていないだろう。しかし、彼は勝手に勘違いしてくれる。なぜなら私は昨日風邪を引いて熱があったからだ。
「大丈夫なのか?」
聞いてくる彼は冷静そのもの。とりあえず言ってみた、という感じに聞こえてしまう。本当に心配してくれているのか、甚だ疑問ではあったが、私の目的はこんなことではない。
「はい。朝薬も飲みましたし、今日は学校に行きたいですから」
私の言葉が真意かどうか、疑っているようではあったが、おそらく信じてくれるだろうと思う。きっと嘘には見えない。なぜなら本当に大丈夫だからだ。
「無理するなよ。俺が迷惑だ」
「でもそれが成瀬さんの仕事なんですよね?」
「仕事なんてしないに越したことはない」
「成瀬さんは本当に引きこもりですね」
彼はこの手の攻撃に弱い。こう言うと黙ってしまう。私が唯一知っている弱点である。今朝からからかわれ続けてきたので、もっとお返しした気持ちもあったが、私の目的はこれでもないので、ようやく本題に入ろうと思う。
「それで、さっそくというわけではないのですが、一つお願いが」
「何だ?」
大きく呼吸して、意を決すると、口を開く。
「腕を貸してもらえませんか?」
言ってしまった。返事はなかなか返ってこない。いても立ってもいられなかった私は、続けて口を開いた。
「寮まででいいのですが」
答えはなかったが、その代わりに左腕を差し出してくれた。私は小さくお礼を言い、右手を伸ばす。彼の左腕に自分の右腕を巻き付けると、彼の上腕二頭筋辺りの制服を握り締めた。たったそれだけで急激に体温が上昇した気がする。昨日から今日にかけて、私の体温は激しく上下している気がする。
何となく周りが私たちを見ているような錯覚に陥る。どうせ誰も見てないし、腕を組む男女なんていうのは最近では珍しくないのだが、何となく気後れしてしまうのは、私がこの行為をそれなりに意識しているからだろう。相手が彼だからということが最大の一因であることは言うまでもないだろう。まあ気にしたって仕方ないので、開き直って歩くことにする。
ここでふと思ったのだが、昨日から今日にかけて、私は少しおかしい気がする。体調的なことではない。情緒不安定というわけでもない。私が感じた、少しおかしい、とは、気持ちの面である。なぜこうも積極的に動けるのだろうか。
言ってしまえば、病気ということに託けて、甘えてしまっているだけなのだが、こういう状況なら何度かあったような気がする。しかし今までは、ここまで積極的に行動できなかった。その違いは何だろうか。
しばらく逡巡して、過去にもこれと似た感情を感じた覚えがあることに気がつき、何となく納得できる結論にたどり着いた。
「よく、家に帰るまでが遠足って言いますよね?」
「ああ」
どういう脈絡でその話が出てきたのか、きっと彼には解らないだろう。
「今の私はそんな状態なんです」
「…………?」
全然意味が解らない様子だ。彼は頭の上に大量の疑問符を浮かべている。
「私、自室に帰らないと一日がリセットされた気にならないんです。つまり私にとって今はまだ昨日なんです」
私の言い分はこういうことだ。まだ自室に戻っていないがゆえに、一日がリセットされていない。それは家に着いていないがゆえに、遠足は終わっていない、という理論と同じである。私は現在遠足気分なのだ。遠足が楽しくて仕方がない子供が、教師の言い回しを揚げ足取りのように捉え、家に帰らないという話があるが、そういうことなのだ。
「ですから、今私はこんなことができるんだと思います」
「つまり寮に帰ると遠足は終わり、出てきたときはいつもの日常ってわけだ」
「そういうことです」
昨日は非日常だったというわけだ。子供のころは、普段起きる時間に起きず、普段行く学校に行かず、普段やらなくてはいけないことをやらなくていい。病気になったときの、そんな非日常的な感じを楽しんだ。それは遠足に似ているのかもしれない。それは家に帰ったり、風邪が治ったりすれば終わる非日常で、一時の夢物語というわけだ。こういう考え方に彼も一応共感できたようで、頷いて黙り込んだ。彼も遠足が楽しみだと感じていた時期があったのだろうか。小さいころの話とか少し興味がある。いつか機会があったら、聞いてみることにしよう。どうせ彼本人に聞いてもちゃんと答えてくれないと思うので、麻生さんに聞いてみることにする。写真などがあれば、是非とも見せてもらいたい。きっと彼をからかうネタになるだろう。もちろん本心から見てみたいと思う気持ちもある。
こんな楽しい妄想に浸っていると、黙り込んでいた彼が不意に口を開いた。
「まるでシンデレラだな。寮に帰ったら魔法が解け、夢のような時間は終わりってか」
最初はなんの例え話か理解できなかった。しかし、
「!」
少し考えただけで、簡単に答えに行き着く単純な方程式だった。単純なだけに、それが真実のように感じてしまう。そう考えてしまった。私は思わず足を止めてしまった。
「どうした?」
彼も足を止め、私の顔を覗き見てくる。普段ならば、照れてしまうような行動だったのだが、今の私にはそんな余裕はなかった。
「気分でも悪くなったのか?」
私は彼の問いかけを無視して、
「駄目です!帰りましょう、成瀬さん」
と叫んでしまった。
「は?帰っているだろ、寮に」
「違います!帰っちゃ駄目なんです!」
彼は全く理解できていないようだった。言った私も訳が解らなくなっている。でも、とにかく帰ってはいけないことだけ理解できた。私は来た道を帰るよう、彼の腕をぐいぐい引っ張った。
「とりあえず落ち着け。意見をはっきりさせろ。結局何が言いたいんだ?」
彼の冷静な判断が、逆に苛立たせた。先に気づいたのは、彼なのに、何で私の言いたいことが解らないのだろうか。
「だから、寮に帰っちゃいけないんです!」
「何で?」
言った直後、彼の表情が変わった。ようやく気付いてくれたのだろうか、事の重大さに。などと期待していると、
「ふざけたこと言ってないで、さっさと帰るぞ」
全く気付いていなかった。
「だから駄目ですってばぁ」
もう一度叫んだのだが、
「俺はどこにも消えたりしないから」
どうやら本当は気付いていたようだ。
「必ず待っててやるから、安心して寮に戻れ」
彼は呆れたように、面倒臭そうに言葉を紡ぐ。
「本当ですね?嘘じゃないですよね?」
「本当だ」
理解はしているようだが、全く信じていない様子だ。安心しろと言うが、私は全く安心できなかった。しかし、
「もしいなかったら、成瀬さんは私の奴隷ですからね?」
「約束する」
結局のところ、私は彼を信じるしかできなかった。
「解りました。じゃあ帰りましょう」
こうは言ったものの、私の不安は解消されなかった。捕まっている腕にも、自然と力が入ってしまう。
やはり今の私はおかしい。いつもならこんな不安に駆られない。本当に魔法にかかってしまっているのではないか。だとしたら性質の悪い魔法である。誰でもいいから早く解いてほしかった。誰でもいいからと言いつつ、私は隣を歩く彼を見上げる。私は、彼が解いてくれないだろうか、と思っていた。まるで、白雪姫に出てくる王子様のように。
とうとう女子寮に到着してしまった。エントランスに入ると、彼はここで待つと言い出す。未だ不安を拭い去ることができない私の足取りはとても重く、彼のほうを何度も振り返っていた。
エントランスから出ると、当然のように彼が視界から消える。そんなことある訳がないと自分を奮い立たせて、私は自分の部屋へと走り出した。
部屋に着いても、制服に着替えても、私は不安を拭い去ることができなかった。しかし、もう寮に着いてしまった。いい意味にしろ悪い意味にしろ、魔法は解けてしまうのだ。昨日は終わり、ようやく今日になったのだ。自分で言った言葉だ。だったら、部屋を出て、エントランスにいるであろう彼に向かって、私が取る行動は一つしかない。
私は決意を固め、部屋を出ると、彼の元へ向かった。
「お待たせしました!さあ学校へ行きましょう!」
いつもの雰囲気をまとい、私は彼に挨拶した。私はもう彼に甘えるつもりはなかった。それもそのはず。さっきまで私は夢を見ていたのだから。だから先ほどの約束も、昨日の甘えたことも全て夢なのだ。夢での約束など意味があるはずもない。自分の見た夢が、他人に影響を及ぼすはずなどない。だから私はもう何も言わない。おそらく彼も、何も言わないだろう。なぜなら、彼は日常をこよなく愛する人だから。