その五 side-I
私が目を覚ましたとき、一番最初に視界に飛び込んできたのは、見慣れぬ天井だった。光で包まれるこの空間は、私の部屋ではない。ではどこだろうと、ぼんやり考え始めると、だんだん昨日の記憶が蘇り始め、その蘇る記憶とともに、私の顔もだんだんと紅葉して言った。
恥ずかしい!恥ずかしすぎる!なぜ昨日の私はあんな醜態を晒してしまったのだろうか。これはもう後悔なんて生易しいものではない。このときほど、日本が銃社会でないことを呪ったことはない。今手元に銃があったならば、私は間違いなくこめかみに銃口を当てていただろう。それほど私はもだえていた。あれは恥ずかしすぎる!
一通り後悔した後、私は起き上がることにした。正直、彼と顔を合わせづらくはあったが、いつまでもベッドにいても意味はない。時計を確認すると、まだ午前五時半。いつもの起床時間まで、まだあと一時間以上もあった。しかし、二度寝すると言う選択肢はない。自ら目を覚ましたのだ。ここはすんなり起きておくべきだろう。私は、窓に近づき、カーテンを開けた。昨日遅くまで降っていた雨は、きれいに止んでいた。しかしどうして寝起きの朝日はこうも気分を高揚させるのだろうか。
私は大きく伸びをすると、洗面所へ向かった。とりあえず顔を洗って、水を飲む。ここに来てようやく思い出す。そういえば彼は昨夜、どこで眠ったのだろうか。
申し訳ないことに、彼の寝床は私が選挙させてもらっていた。残念ながら私の隣で寝ていた、なんてイベントはなかったので、おそらくリビングにあるソファーにでも眠ったのだろう。私はリビングへ向かった。
案の定、彼はソファーで身体を丸めて眠っていた。私はまたしても申し訳ない気分に駆られた。いくら上質なソファーだとは言え、ソファーは寝具ではない。さすがに寝苦しかったのではないか。しかし、こんな罪悪感は長続きしなかった。
私はソファーの背から、正面に回りこんだ。すると、横向きになって身体を丸める彼の顔が見えた。その寝顔はまるで子供のようだった。かわいらしい。彼を見て、こんな感想を抱くとは夢にも思わなかった。起きているときは、ほんの五年前まで小学生だったなんて、とてもじゃないが信じることができないような彼だが、眠っているときはなるほど子供のようにかわいらしい顔をしていた。
私は近づいて、目の前にしゃがみこんでみる。相変わらず無表情に近い。そして、私との距離が近い。かつて、これほど近い距離で彼の顔をまじまじみたことがあっただろうか。答えは否。当たり前だ。こんな近くで彼の顔なんて、直視することができない。間違いなく眠っているのに、私は顔が熱くなってしまっている。
彼も夢を見るのだろうか。見るならどんな夢を見ているのだろうか。夢とは記憶を整理するために見るらしい。私は彼の夢に登場しているのだろうか、などと妄想丸出しの恥ずかしい考えが頭をよぎり、私はますます顔を熱くした。すると、彼はわずかにうなり、眉間にしわを寄せた。
「…………」
まさかとは思うが、嫌なタイミングだった。苦悩の表情とうめき声は、私が夢に登場したからではないだろうか。私は夢の中でも迷惑をかけているのか。いや、それが私に対する彼の評価ということか。夢とは言え、嫌な感じだった。
何となく負けた気分になったので、私は仕返しの意味もこめて、彼の頬をつついてみる。反応はない。今度はつまんでみる。すると彼は嫌がるように、一層眉をしかめ頭を動かした。あまりに微笑ましい反応。私は思わず声が出そうになった。調子に乗って、鼻をつまんでみる。すると、
「うーん……」
一際大きな反応を見せて、うなった。さすがに焦った。起こしてしまったかと思って、私は妙な大勢で身構える。もし起きてしまったら、一体何て言い訳をしよう。
「無防備にリビングで眠っているのがいけないんですよ」
一体何様だろうか。誰のせいでリビングで眠っているのか、と言われたら私は誤るしかできない。
「寝顔があまりにかわいらしくて、つい」
一体どこの変態だろうか。誘拐犯とかがいいそうなセリフである。私は前科持ちにはなりたくない。
「もう起きる時間ですよ」
まだ六時にもなっていない。今何時だと思っているんだ、と聞かれたら、私は謝るしかない。
いろいろ考えたのだが、やはりというか何というか、答えは出なかった。実際のところ私の不安は杞憂に終わり、彼は小さく寝返りを打つと、そのまま静かに寝息を立て始めた。ほっとする私。悪いことはするものじゃないな、などと思いながらも、とてもいいものを見たという気持ちで、心が満たされていた。写真を撮ることができないのが、とても残念である。こんなにかわいらしい彼を知っているのは、私くらいなのではないか。
それからしばらく、静かに彼の寝顔を眺めていた。そして次に私が思いついたのは、朝食を作ることだった。二月ごろから料理を始めたのだが、何だかんだ、彼に料理を食べてもらったことはない。ここは昨日の詫びもこめて、朝食を作るべきなのではないか。これはチャンスとも言える。
しかし考えてみると、凝った者を作る時間はないし、重たすぎても朝食にふさわしくない。考えてみたら、私は制服を取りに帰らなければいけない。ある程度時間に余裕を持って出発しなければならない。諸事情を踏まえつつ、何を創ろうかと考えた結果、サンドイッチを作ることにした。
「失礼しまーす……」
誰に言うでもなく、声に出して、冷蔵庫を開ける。さすがと言ったところか。整理整頓の行き届いた冷蔵庫だった。食材が少ないわけではない。ある程度、何でも作れるくらいの食材はそろっていながら、この行き届いた整理具合。こんな高校生男子は彼くらいなのではないだろうか。
食材を見ながら何を作ろうか考え、調理に入る。まずまな板と包丁を軽くゆすぎ、野菜から切っていく。作り始めてから思ったのだが、なぜ私はこうも調理器具の場所を把握しているのだろうか。
調理は滞りなく進んでいった。さすがにキッチンが広いと、作業がさくさく進んだ。料理に請っている彼が使うキッチンだけあって、とても使いやすかった。彼と一緒にいると、学ことが多くて困る。
ある程度作業が終わり、残りは盛り付けくらいになってきたとき、リビングのほうで物音がした。どうやら彼が起きたようだ。私はコーヒーメーカーを起動させ、カップを用意した。
しばらくすると、寝ぼけ眼の彼がキッチンに現れた。こんな表情も私にはとても新鮮に写り、かなり頬が緩んでしまった。
「あ、成瀬さん起きましたか。おはようございます!」
挨拶をするが、反応はない。代わりに、何だが嫌な感じの視線が私の外見に注がれる。
「今、何か失礼なこと思いませんでした?」
「…………」
この無言の返事は、行程と捉えて問題ないだろう。私にも言い訳はある。何しろ、ここではこの服しかないのだ。しかも借り物なのだから、その上からエプロンを着用するのは当然だと言えるだろう。言い訳というより、かなり常識的な行動である。
彼はどうでも良さそうにため息をつくと、
「考えすぎだ。それで、体調はどうだ?熱は下がったのか?」
「熱はもうほとんどありません。体調もほぼ万全だといっても過言ではないと思います」
「熱は計ったのか?」
なぜこうも熱を計れというのだろうか。心配してもらえるのは嬉しいが、今日はさすがに学校に行きたい。全快していると自信を持っていえるのだが、万が一微熱でもあったら、休めとか言われてしまうのではないだろうか。ここは回避すべきところだろう。
「計ってませんけど、大丈夫です」
きっぱり言い切ったのだが、
「いいから計ってみろ」
一言で押し切られてしまった。その後もどうにかしようと、回避行動を取り続けたのだが、最終的にかわしきることができず、彼から体温計が手渡されてしまった。仕方なく体温を計る私。そして待つこと数十秒。体温計がチープな機械音を発する。
「三十六度八分」
昨日の悪ふざけのこともあり、手に取った瞬間、彼に奪われてしまい、数値が読み上げられる。私の平熱より若干高めだったのだが、ここはしらばっくれることにする。
「やっぱり大丈夫ですね、私平熱高めなんですよ。むしろ平熱より低い感じですねー」
さすがの彼も、これにはどうしようもなかったみたいで、半ば諦めたように頷いてくれた。そして、
「ところで、人の家で勝手に何をしている」
一応聞いてみた、と言った感じで、私の行動に関して質問をしてきた。怒られたのだろうかと、若干引いてしまったのだが、そんな感じではなかったので、
「朝食を作ってるに決まっているじゃないですか。寝ぼけているんですか?」
と、適当にはぐらかしておいた。さすがに昨日の罪滅ぼしです、とは言えなかった。そんなはずはないのだが、きれいさっぱり忘れてしまっているという、希望的観測を捨てきれず、私は誤魔化すことにしたのだ。彼のそれ以上は何も言って来ず、キッチンから退散していった。どうやら洗面所に行って、顔を洗ってきたらしい。
再び彼がキッチンに戻ってきたときは、全ての準備が整い、あとは配膳するだけというところまできていた。そんな私の様子を見て、彼が、
「サンドイッチ」
と呟く。どうやら私が作っているメニューを見て、言ったらしい。見たまんまである。いちいち口に出す必要のない言葉。まだ寝ぼけているのだろうか。こんなことをいう彼はとても新鮮だった。
「成瀬さんは牛乳とコーヒーどっちがいいですか?」
「コーヒーをくれ」
「解りました。じゃあ私もコーヒーで」
準備ができると、私と彼は向かい合って座り、
「いただきまーす」
食べ始めた。私はまずコーヒーをすする。コーヒーメーカーで作ったものだったが、今日はいつもと違った味がした。おいしいというより、よく解らないが感動的な味がした。自分でも何を言っているのか解らない。
今度は自分で作ったサンドイッチを一つ手に取り、そのまま一口いただいた。うん、われながらおいしくできたと思う。たぶん彼の口にも合うだろう。
「いかがですか?味のほうは」
「うまいような気がする」
何だが曖昧な言葉だったが、嬉しいことには変わりない。私は得意満面で、当たり前だ、と言おうとしたのだが、顔を上げて彼を見ると、
「ってまだコーヒーすすっただけじゃないですか。早く食べて下さい。我ながらなかなか上手に出来ました」
そう言った私は自然に微笑んだ。昨日とは打って変わって、今日は体調がかなりよかった。昨日の不調が嘘のようだ。本当に嘘だったらよかったのに、と思わなくもないのだが、昨日の不調が嘘になってしまうと、現在の状況も嘘になってしまうので、自重しておく。
彼はタマゴサンドを一つ手に取り、一口かぶりつく。そして一言。
「うまい」
「そうですか?それはよかったです!もう大分料理にも慣れました。今では免許皆伝の腕前になったのではないかと自負しています」
自分で勝手に料理を始めて、勝手に免許皆伝になっていたら世話ないな、と自分でダメ出しをして、勝手に微笑んだ。体調より、機嫌のほうが絶好調かもしれない。
「さあどんどん食べて下さい。朝食は一日の活力の源です。いっぱい食べて元気に登校しましょう!」
思った以上に体が回復していて、私はようやくいつもの私に戻りつつあった。
「あ、私は勉強道具と制服を取りに行かなきゃいけないので、今日は早めにここを出ましょう」
舌のほうもいつもの調子を取り戻し、あっさりこんなことを言ってみる。すると、
「勝手に行け」
当然のように、断られた。
「一緒に行きましょうよ!」
私が逆の立場だったら、当然一緒に行くと思う。
「出発点が一緒で最終的な目的地が同じなんですから、一緒に行くべきです!」
「何だ、その自分勝手な理論は」
しかし、彼にとっては自分勝手な理論であったようだ。
「どうして一緒に行って下さらないんですか?」
「面倒だからだ」
「でも、成瀬さん昨日言っていたじゃないですか。私のわがままを聞くのが俺の仕事だって」
何か違うような気がしたが、大体合っているだろう。つまるところ、こういうことであっているはずだ。
「それって私は、成瀬さんにわがままを言うのが仕事ってことですよね?」
「どうしてそんな解釈になる。わがままなんて言わないに越したことはない」
「こうして朝食を作ってあげたじゃないですか」
「誰も作ってくれと言ってない」
言われると思った。それにしても、本当にデリカシーというものが欠けている。いや、かけているなんていう表現じゃ生ぬるい。欠落しているというのが、妥当だ。こんな会話をしていると、機嫌のよかった私もだんだんヒートアップしてしまう。
「わがままですねえ。じゃあ私はいったいどうすればいいんですか!」
「俺が寮に行かなければならない理由を教えてくれ」
言われて、私は黙り込んだ。これでは昨日の繰り返しだ。本当に昨日の出来事を忘れてしまったのだろうか。夢であってほしいと願いながらも、こうして自分の都合で覚えてほしいというあたり、やはり彼の言うとおり、私はわがままなのだろうか。しかし、これに関しては鈍感すぎる彼に、落ち度があるだろう。
「お願いですから、もっとこういうことに鋭くなって下さい。でないと私がかわいそうです!」
私があまりに必死になっているからか、彼は黙り込んで考え始めた。だが、シンキングタイムは意外に早く終わった。
「まさか、俺と一緒にいたいからか?」
「なっ!」
まさかそんなことを言われると思わなかった。私は思わず叫んでしまい、持っていたサンドイッチを落としてしまった。合っているといえば合っている。しかし、私はそんなことを言った覚えはない。どうしてそんな解釈が出てくるのか。全く的外れでないあたり、性質が悪いといえるだろう。
「ななななな、何でそんなことになるんですか!何がどうなったらそんな答えが出てくるんですか!」
「いや、昨日言ってたから」
「言ってないです!」
「いや、言ってたから」
「言ってません!絶対言ってません!」
完全に否定しておいて、思い出した。昨日、幾度となく部屋を出て行こうとする彼に向かって、言ってしまったような気がした。本当に恥ずかしいことをしてしまった。しかし、いまさら認められないし、そもそもこれ以上愚考を重ねるつもりもない。
「まったく、訳解らないこと言わないで下さい。そんなに私と一緒にいたいんですか?」
私は無理矢理誤魔化すことにして、話をそらすことにした。
「どうでもいいですけど、早く食べちゃって下さい。七時には出ますよ」
「何でそんな早く出る必要がある。七時半で十分間に合うだろ」
「まあいいじゃないですか。早く起きたわけですから、早く登校するのは道理です」
彼が諦めモードになってきている。ここまで来れば、あとは強気に攻めれば押し切ることができるだろう。いつもの勝ちパターンである。
「さ、そろそろ諦めて下さい。無駄な足掻きですよ」
勝利宣言をした私だったが、ここに来て彼が再び黙り込んだ。あれ?おかしいな。いつもならため息をついて、解ったよ、と妥協にも似た了承をくれるのだが。彼もいつものパターンになっていることに気づいてしまったのだろうか。
私は若干の恐怖を覚えた。相手の裏を読むことには、絶対の強さがある。こういうことに関しては、かなりの上策を提示してくるのが彼なのだ。私が見えない冷や汗を見えない右手で拭っていると、
「本当のことを言って、俺にお願いしろ。そうしたら一緒に行ってやる」
案の定こんなことを言ってきた。
「え?本当のことって何ですかねー?」
何とか誤魔化そうと、三文芝居を打ってみる。しかし、良かれと思ってやったこの策が裏目に出てしまった。
「食事の後片付けは俺がやっといてやるから着替えて来い。それまでに考えをまとめておけよ」
どうやら私が本心を隠していることがバレてしまったようだ。
「え?本気ですか?成瀬さん、ちょっと待って下さいよ!」
焦った私を無視して、彼はお盆を持ってくると、本当に片づけを始めてしまった。
「七時に出るんだろ?早く着替えてこないと時間がないぞ」
「わ、解りましたよ!」
完全に立場を逆転されてしまった私は、こう言うしかなかった。何とかいい作戦を考えなければ。
「準備オッケーです!」
私は昨日着てきて私服に着替えながら、作戦を考え、準備万端でリビングに戻ってきた。我ながらいい作戦だと思う。これで勝てる!
「それで、どうなんだ。覚悟はできたのか?」
「任せて下さい!」
あとでほえ面かかないで下さいよ、と付け加えたかったが、止めといた。
「言ってみろ」
彼の言葉でゴングが鳴り響いた。私は息を大きく吸い込んで、自信満々でこう言い放った。
「それは、成瀬さんが私の下僕だからです!」
すると、
「却下だ」
即座に却下されてしまった。おかしい。私の作戦は完璧だったはずだ。しかし、嘆いていても仕方ないので、第二第三の作戦を実行する。
「うー、じゃあ奴隷だから」
「却下。ニュアンスが一緒」
「え、えーっと、じゃあ私がお姫様だから!」
「上下関係の設定から離れろ」
「え、えー!そ、そうだなあ……」
他に手段は残されていなかった。今更だが、上下関係の設定ばかりだった。うかつだった。盲点だった。私が後悔の念に苛まれていると、彼があからさまに大きなため息をついた。私は思わず、びくっと肩を震わせてしまう。そして、
「残念ながらこれじゃ、一緒に行くことはできないな」
「えー!成瀬さん、本当のことを言えって……」
「本当のことじゃないだろ。面白くもないし」
「面白いこと言わなきゃいけないんですか?」
「若しくは本当のことだ」
うかつだった。面白い方向で考えていれば、もう少しましな作戦が立てられたかもしれなかった。悔やんでも悔やみきれない。今更頭を抱えても、いい考えがまったくといていいほど思いつかない。そんな私の耳に非情の言葉が届いた。
「さて、時間も出来たことだし、コーヒーでも淹れよう」
「ちょ、ちょっと待って下さい!今言いますから!」
「よかろう。これがラストチャンスだ」
「わ、解りました……」
私は生唾を飲む。正直、昨日以上に恥ずかしいことだが、言うしかないのだろう。できればこのことは言いたくなかった。私は息を大きく吸い込んで、覚悟を決めると、真実を口にした。
「ここで別れたらもう二度と会えなくなってしまうかもしれないからです!」
風が凪いだ。空気が止まった。生きとし生けるもの全ては停止した。そして、時間は止まった。森羅万象が停止する中、私の顔だけが徐々に、だがはっきりと熱を帯びていく。それはまるで、温室効果ガスによって、地球の温度が上昇していく様子を早回しで見ているかのよう。世界は停止しているのに、私だけは早回し。そう、そのとき私は確実に世界を置いていった。風邪は治ったが、私は風になった。
…………そして世界は動き出す。
「何だそれ?」
呆れるほど、普通の言葉だった。彼はまったく理解できていなかったようだ。
「え?だ、だからここで二人が別れると、私は夢から目覚めて、本当の世界へ帰るわけです。その世界には成瀬さんはいなくて。だから、もう二度と会えない……って!」
私は恥ずかしい思いを必死で隠して、先ほどの発言について説明を開始する。しかし、説明が進んでいくにつれて、彼の表情は壊れていき、それは豪快な笑い声となって顕現した。
「何笑っているんですか!」
私は思い切り怒鳴った。正直近所迷惑になるくらい大きな声で怒鳴ったのだが、それ以上に彼が大声で笑っていた。温厚で有名な私も、さすがに頭にきた。
「わ、笑いすぎです!ひどいです、成瀬さん!そんなに笑うなんて、最低です!せっかく私が勇気を出して、恥ずかしいのを我慢して言ったのに、大笑いするなんて失礼すぎます!」
私は本気で恥ずかしかった。ここ最近、ここまで本気で恥ずかしい思いをした覚えがない。だから本気で怒鳴ったのだが、彼はそんなこと意にも介さず、
「いや、恐れ入った。あんたにこんな奥の手があるとは。俺の負けだ」
ここまでバカにされると、本気で怒っている私のほうが敗者であるような気がする。
「それは褒めて下さっているんですか?」
「ああ。これ以上ないくらい褒めている」
「ありがとうございます。でも、全然嬉しくないんですが」
本気で褒めてくれているようだったのが、なおさら納得できなかった。面白いことを言ったつもりなど、これっぽっちもなかっただけに、これほど褒めれると、逆に釈然としなかった。しかし、それになりに見返りはあった。
「面倒だが仕方がない。約束だったからな。一緒に行ってやる。ちょっと待ってろ」
彼は私一人をリビングに残して、寝室に向かっていった。どうやら本当に一緒に行ってくれるらしい。いったい何が彼を動かしているのか、解らなくなってしまった。そこまで笑いに関心のある人だとは思っていなかったのだが、これからは設定を改めなければならない。これからは笑いというものを勉強して、会話に盛り込んでいこう。
そんなよく解らない決意をしていると、寝室のほうから笑い声が聞こえた。どうやらまだ笑っているらしい。さすがに笑いすぎだ。
「何思い出し笑いしているんですか!さっさと着替えて下さい!」
リビングから怒鳴ったのだが、彼の笑い声は一向に止まなかった。いっそ寝室に乗り込もうかと思ったが、着替えている最中だと申し訳ないので、止めといた。しばらく聞いているうちに、何だか慣れてしまった。
しかしそのせいで、準備が終わったときすでに七時を回っていたことには、再び怒りを覚えた。