その四 side-I
「電話ありがとうございました」
頑張って涙を止め、涙声にならないようにしたのだが、それ以上に苦労したのが、使った電話がなぜ成瀬さんの電話だったのかというところの、嘘をでっち上げる作業だった。ちなみに、外でばったり会ったという、何とも嘘っぽい嘘だったのだが、真嶋さんはちゃんと信じてくれた。こういうところに彼女の育ちのよさを感じた。信じてもらえてよかったのだが、騙してしまったという罪悪感が残った。しかし、
「成瀬さんの言ったとおり、真嶋さんは寮に行っていたみたいです。とても心配かけてしまいました」
それ以上に心に突き刺さったのが、予想以上に心配して下さったことだった。もしかしたら、私の嘘を信じてくれたのも、それ以上に心配して下さったからなのかもしれない。お見舞いをしてくれるなんて、これっぽっちも考えていなかった私は、軽率で自分勝手な行動に出てしまった。彼にはもちろん、真嶋さんにも予想以上の迷惑をかけてしまった。後悔ばかりが残る一日になってしまった。しかし、落ち込んでばかりもいられない。明日もまた学校はあるのだ。
「これ以上心配をかけないためにも、絶対に今日で治してしまわないといけないですね」
彼も、私の考えに賛成してくれたようで、無言で深く頷いてくれた。しかし、
「じゃあ、もう寝るか?」
と言われると、少しもったいないような、寂しいような気がしてくる。思わず、
「あ、いえ……」
などと抽象的ながらも、否定の言葉を口にしてしまった。もちろん彼は、疑問符を浮かべて首をかしげる。こういうことに鈍感な彼のことだ。はっきりと言わなければ、きっと理解してもらえないだろう。事件になると本当に鋭い感性を披露するくせに、もっとこっち方面でも勘を鋭くしてもらいたい。しかし、出てきた言葉は、
「あの、ちょっとお話したいなあ、なんて思ったりなんかしたりして……」
などという実に弱々しいものだった。我ながら情けない。いつもは強気に言葉を並べ、彼を罵倒しているくせに、自信のないことに関してはどうしても強く出られなかった。曖昧な言葉に、自分でも苦笑いしてしまった。これでは何も伝わらないだろうと思っていたのだが、予想に反して、彼は腰を下ろしてくれた。おそらく夜中に起こされるくらいなら、今付き合ったほうがましだ、なんてことを考えているのだろう。まあ、私としては結果オーライだ。
「それで、一体どんな面白い話を聞かせてくれるんだ?」
と思ったら、話はとんでもない方向に飛んでしまった。
「え?面白い話、ですか?」
思わず聞き返してしまう。今の話でなぜ面白い話をしなくてはいけなくなってしまうのだろうか。すると、彼は、
「俺を止めてまで言うんだ、飛び切り面白い話でも披露してくれるんだろ?」
なるほど。そういう解釈をされてしまったのか。
「あ、いえ、別にそういうつもりで言ったわけではないんですけど……」
私としては、本当に他愛もない話をしたかっただけなのだが、彼はそうでもないみたいだ。そんなにネタを持っているわけではないし、面白い話などできる自信もなかったのだが、彼が面白い話を期待しているなら、何とかしなければ。
「むむむむう。面白い話ですかあ、そうですねえ……」
考えたのだが、やはり出てこない。黙って考えていると、そのまま彼は寝てしまうような気がした。私はとても焦ったのだが、焦っても出てこないものは出てこない。こういうときに面白い話がパッと出てこない自分に腹が立った。すると、
「どうだ、久しぶりに学校サボった気分は。去年の九月以来か?」
彼が助け舟を出してくれた。しかも、それは私が望んでいた普通の話。これは私の妄想かもしれないが、もしかしたら彼も普通の話がしたくなったのではないか。あくまで私の妄想なのだが。
「えっと、確かそうですね。あれは、笹倉さんの事件のときですか。あれからもう九ヶ月近く経つんですね。早いものです」
正確に言うと今日はサボったわけではなかったのだが、あのときは完全にずる休みだった。彼も一緒にサボったのだ。若干の罪悪感はあったが、後悔はしていなかった。密かに皆勤賞を狙っていた私だったが、あれは必要なサボりだったと、今でも思っている。そして、
「あの事件がTCCのきっかけになったんでしたよねぇ……」
私はあのとき笹倉さんの感謝の言葉が心に響いた。自己満足と言われても仕方のないくらい、情けない理由だけど、それから今までいくつか事件を解決してきたのだ。完全に無駄だったとは思わない。当時を思い出し、黙り込んでしまった私だったが、
「…………」
彼も同じように黙り込んでいた。おそらく私同様、当時を思い出しているのだろう。そして、それから今までのことを考えているのだと思う。彼はどう思っているのだろうか。一度そんなことを思うと、いても立ってもいられなくなってしまった。
「あの、成瀬さん?」
「何だ?」
声が震えそうになるのを押さえ、搾り出すように出した私の声に、彼が反応する。そして、私は決定的な一言を口にした。
「成瀬さんはこの半年どうでしたか?楽しかったですか?」
不安で押しつぶされそうだった。声は震えていなかったかもしれないが、手は震えていた。おそらく表情はとても硬いだろう。それは自分でも解った。
「唐突だな。先にあんたのほうから聞こうか?あんたはどうだったんだ?」
「私はとても楽しかったです。今まで送ったことないような、とても充実した毎日を送ってきました」
即座に答えることができる。心から楽しかった、と。
「私はTCCを作って本当によかったと思います。きっかけである笹倉さんの事件はとても悲しいものでしたし、きっかけが事件というのはやはり悲しいのですが、それでも私はTCCを創ってよかったと思っています。そのときは思い付きでしたが、我ながらいい思い付きだったと思います」
やはり思い付きだったんじゃないか、と責められてしまうかもしれないが、今は自分の本心を口にしたかった。いつもなら怒られてしまうかもしれない様な言葉だったが、今なら真剣に聞いてもらえるような気がした。今なら本音が聞けるような気がした。
「これまで半年、請け負った事件のために奮闘した時間より、部室でまったりしていた時間のほうが長いかもしれませんが、私は充実してました」
かつて、これほど真剣に私の言葉を聞いてくれたことがあっただろうか。いや、いつも彼は真剣に聞いてくれていたのだ。はぐらかしていたのは私のほう。彼は普段は自由奔放な人だ。集団行動が似合わない人だ。しかし、彼は自分を押さえつけて、相手を尊重してくれる人でもある。私が真剣に話せば、真剣に聞いてくれるのだ。知っていた。ただ、彼の真剣な言葉から逃げていたのだ。
「成瀬さんは、存在意義のない団体、と言うかもしれませんが、私はそうは思いません。実際事件の解決を請け負っているときは、間違いなく存在意義があることに異議はないと思いますが、請け負っていないときも私にとってはとても重要な団体です」
そこは私の居場所だった。幸運ながら家族には恵まれていた。友人にも恵まれていた。委員会やクラスでも、私は排斥されることはなかった。しかし、TCCという場所は、他のどの場所より居心地がよかった。それは間違いなかった。
「つまり、あんたは他人のためのと掲げているにもかかわらず、自分のためにこの団体を創設した、ってわけか?」
彼の言葉を聞き、考え込む。言われてみればそうかもしれない。相談者のために動いていないときも、私には存在意義がある。つまりは私自身が一番TCCを必要としていたということではないか。
「そうですね、TCCは私のために存在しているんです、きっと」
言われて初めて気付いた。彼のことを鈍感と言えないかもしれない。思わず苦笑いをしてしまう。
「なるほど」
納得の言葉を口にした彼も、つられたように笑ってくれた。その笑顔を見て、また私も笑う。
「私って結構自分勝手だったんですね。ショックです」
「俺は結構前から知っていたけどな」
「成瀬さんに言われたくありません!」
心外なことを言われて、思わずカッとなってしまったが、声を荒らげた次の瞬間、一気に熱が冷めた。TCCは私のために存在している。だから私は充実した毎日を送れている。それはさっき確認したことだ。しかし、他の人はどうなのだろうか。
私は生唾を飲み込んだ。ここまで来たのだ。その勢いで聞いてしまおう。そうでなければ、ここまで本音を言った意味がない。ここからが本当に聞きたいことだった。
「それで、こうしてTCCを創設して、毎日充実した生活を送れているのですが、」
彼はどう思っているのだろうか。このTCCを中心に回る高校生活について。
「それで、そのう……成瀬さんはどうですか?」
ついに、決定的な一言を口に出してしまった。もう引き返せない。出した言葉を飲み込むことは出来ない。私は目を閉じた。聞きたいような聞きたくないような。怖いというのが本音だ。しかし、これを聞かないと、前に進めないような気がした。
私は自分の思いつきで、彼を振り回してしまっているのではないか。彼の生活を狭めてしまっているのではないか。彼の高校生活をつまらなくしてしまっているのではないか。
そして、
「確かに面倒なことが多かったな。俺もそれなりに苦労した」
彼は静かに口を開いた。
「面倒ごとが嫌いな俺にとっては、自ら面倒ごとを呼ぶようなこの団体は悪夢のような団体だ。赤の他人のために自分が苦労するなんて、俺はごめんだぜ」
私のよくないほうの予想が的中してしまった。ショックかと聞かれれば、もちろんそうだが、信じられないかと言われれば、答えは否だ。むしろ、やっぱりそうか、と納得できる。彼はそういう人だ。自分自身でもよく口にしている。
「そう……ですか。そうですよね、成瀬さんは面倒臭がり屋ですもんね、成瀬さんにこの団体は似合わないかもしれませんね」
聞きたくなかった。しかし、これは現実だ。受け入れなければいけない。これ以上私のわがままに付き合わせるわけにはいかない。私はこの半年、ずいぶん楽しい思いをさせてもらった。十分すぎるほどの思い出が出来た。またしても目頭が熱くなる。泣いたらだめだ。ここで泣いてしまったら、彼に迷惑がかかる。笑って何か言うんだ。そうすれば、笑い話に出来る。しかし、そんなことできる訳がなかった。出来れば、否定して欲しかった。すると、
「だが、」
「え?」
彼は逆説を使った。それは、私の幻聴ではない。なぜなら、彼は続けてこんなことを言ったからだ。
「TCCがあんたのために作られた団体なら仕方がない。あんたの尻拭いをするのが、どうやら俺の仕事らしい」
理解できなかった。コンピューターがよくやるように、私はフリーズしてしまった。読み込んだ情報が処理できなかった。そして、頭に熱が回ってくる。人間もコンピューターも、脳みその構造はあまり変わらないんだな、なんて全く関係ないところで冷静さを保っていた。続けて彼は言う。
「それにもう慣れちまったよ。あんたのわがままには。TCCはあんたのわがままの象徴だ。それなら俺が巻き込まれるのは道理ってもんだ」
まだ理解できない。だが、何となく解った。彼はまだ私のわがままに付き合ってくれると言っているのだ。そこまで理解できたとき、私は、子供のわがままを温かく見守る親が脳裏に浮かんだ。つまり、私がわがままを言うのは世の常であり、彼がそれを受け入れるのは、道理だということなのだろう。
「生意気言わないで下さい」
安心して思わず笑みがこぼれた。加えて、思わず悪態をついてしまった。やはり私はわがまま娘なのかもしれない。しかし、表立って認めるわけにはいかないので、嬉しい気持ちを抑え、さらに嫌味を言うことにする。
「でも、よかったです。やっぱり本当に嫌がっているのなら、強要するのはよくないですからね。ちょっと安心しました。あれは嫌がっている演技だったんですね」
「クビにしたいなら好きにしてくれ」
そんなことする訳がない。私の居場所は、彼の隣なのだ。私が彼をクビにして、いいことなど一つもない。もちろん、そんなこと言える訳がないので、
「そんな強がり言わなくてもいいですよ。何と言っても成瀬さんの唯一の居場所ですからね、私も理解しているつもりです」
と言っておく。
すると彼は、めんどくさそうにため息をついた。彼は本当にため息が似合う。これは褒め言葉なのか解らないので、本人には言わないが、私はその仕草が気に入っていた。今日は特別多くその仕草が見れているので、先ほどの言葉とともに、私の心を幸せにしていた。
しかし、不幸は突然訪れた。
「言いたいことはそれだけか?ないならもう寝ろ」
いきなりそんなことを言う彼。そして、私の返事を待たずに立ち上がろうとする。もちろん私は慌てた。
「あ、ちょっと待って下さい!まだあります、えーっとそうですねえ……」
何とか服のすそを掴むことに成功し、強制的に座らせる。
「何慌てているんですか?本当のことを言われたからといって怒らないで下さい」
どうでもいいことをまくし立て、何とか時間を稼ぐ。こんな姿を見ていると、自分のことながら、やはりわがまま娘そのものだなと思ってしまう。しかし、心のどこかで、私は病人なのだから甘えて当然だ。などという自分勝手極まりない意見が発生していた。
「とりあえず手を離せ」
「嫌です」
なぜだか私は急に強気になっていた。そして、
「何で?」
「どっか行っちゃうからです」
恥ずかしげもなく、恥ずかしい本音を口にしていた。彼は当然理解できなかったようで、眉をしかめる。
「どこも行かないから離せ」
「本当ですか?」
「ああ」
「じゃあ離します」
一体どこの子供だろうか。わがまますぎる自分の行動に対して、冷静に駄目だしを入れる自分がいた。しかし、今私の中にはいわゆる冷静で大人な天使と、わがままで子供名悪魔が同時に存在していた。加えて、今は悪魔のほうが圧倒的に立場が強く、表面上の私に影響を与えていたのは、完全に悪魔のほうだった。
「あんた、本当に病人か?」
「見て解りませんか?こんなにけだるそうな顔をしているのに。だから成瀬さんは鈍感だと言われるのです」
おそらく彼のことを鈍感だというのは、ある程度付き合いの長い、もしくは深く付き合っている人だけだろう。なぜなら彼はある一定の事柄に関してだけ、鈍感になるのだから。
「今日はやけに突っかかってくるな。いつも以上に情緒不安定だし」
私がここまでいつもと違うのに、彼はいつも以上に冷静だった。またしても自分勝手極まりないことなのだが、私だけ醜態をさらしているのは、納得がいかずに思わず叫んでしまう。
「成瀬さんが鈍感すぎるからです!」
彼はまたしてもため息をつく。おそらく近所迷惑になるだろう、などと考えているに違いない。
「俺が鈍感なのはいつものことなんじゃないのか?」
口にするセリフも、いつもと同じように冷静で的を射た発言だった。
「いつも以上に鈍感です。今日はいつもの三倍鈍感です」
だからいつも以上に私は腹が立った。今日くらい私の気持ちに気付いてくれてもいいのではないかと。
「鈍感鈍感とばかり言ってないで、はっきり言ったらどうなんだ?これじゃあいつまで経っても理解できないぞ」
「私ははっきり言いました!」
「何て言った?」
「で、ですから……」
また言わなければいけないのだろうか。先ほどの曖昧で、正直な苦いいたいのかわからないような発言でも、私は恥ずかしさから沸騰しそうだったというのに。実際この人は本気なのだろうか。
「成瀬さん、本当に解らないんですか?意地悪しないで下さい……」
私の言葉に、彼は黙り込んだ。どうやら先ほどまでの会話を思い出して、考えているようだ。今日は恥ずかしい発言ばかりしているので、あまり思い出して欲しくない。しかし、簡単に忘れられても、やはり困る。先ほどから、私は矛盾する発言ばかりしているな。こういうことを考えると、つくづく思う。人の想いは、葛藤から生まれるのだと。
「…………」
待つこと、五分ほど。永遠かと思われるほど長かったが、果たしてその結果は?
「本当に解らん」
だろうと思った。彼が解るわけないのだ。私がどれほど勇気を出して、あの言葉を口にしたか、解る訳が無い。それはしょうがないことなのだ。しかし、納得できない。なぜ、彼は悪びれないのだろうか。むしろ胸を張っているように見える。納得いかない。なぜ、私だけこれほど恥ずかしい思いをしなければならないのだろうか。
「…………」
あまりの恥ずかしさに、私はうつむいてしまった。しかし、言わなければ先に進まない。現在の会話的にも、私と彼の状況的にも。意を決して、顔を上げ、
「わ、私は、一緒にここにいてほしいって言いました!成瀬さんとお話がしたいってはっきり言いました!」
言ってやりました。
「…………」
少し表情が変わったことを、私は見逃さなかった。どうやら思い当たる節があったようだ。当たり前だ。私は間違いなく言ったのだから。
「なのに成瀬さんは、話を切り上げてさっさとここから出て行こうと……。もし意地悪なら性質が悪すぎます……」
「いや、俺はただあんたが寝やすいように……」
珍しく彼が言葉を濁し、はっきりと言い切らなかった。おそらく自分が悪いと気付いてくれたのだろう。しかし、私は攻撃の手を緩めなかった。
「私は寝たいなんて一言も言ってません」
「…………」
黙り込む彼。この沈黙が嫌だった。私はまたしても目頭が熱くなってしまった。なぜだか解らない。おそらく恥ずかしさと、自分のことを理解してくれない悔しさからだろう。
「…………」
とうとう目尻にうっすらと涙がにじんできてしまった。頬がとても熱い。熱のせいじゃない。恥ずかしさと悔しさからだ。
しばらく睨みつけていると、彼が観念したようにため息をついた。
「悪かったな。あんたの言うとおり、俺は度を越えた鈍感らしい。謝るよ」
こういうところはとても大人だ。滅多に悪びれない彼だが、自分が悪いと思った瞬間、あっさり謝る。そこが彼のすごいところであり、ずるいところでもある。
「もういいです。慣れましたから。許します」
こうも素直に謝れると、私は許さざるを得ない。まだ言い足りないこともあるのだが、ここで許さなければ、今度は私が悪役になってしまう。ここは大人しく退くことにしよう。
「ですが、それは成瀬さんの愚考に関してだけです」
なので、違うことに関して、文句を言うことにする。
「これから一晩中お話聞いてもらいますよ。愚痴も聞いてもらいます」
我ながら素晴らしい機転だと思った。これには反論できないだろう。そんなことを考えていると、彼がいきなり立ち上がろうとした。私は焦った。
「ちょっと!言ったそばからいなくなろうとしないで下さい!」
これはずるい。こんな攻勢に出られたら、私はいったいどうすればいいのだろうか。私が動けないからと言って、こんな卑劣な手段を使おうなんて、いくら何でも鬼畜すぎる。病人相手に使う手段ではない。
焦りまくっている私を見て、またしても彼はため息。そして、
「長くなりそうだからな、水を取ってくる」
理由を説明する。
「水なんてなくていいです」
私には理由に聞こえなかった。ここを立ち去る言い訳にしか聞こえなかった。私の心は不安で満たされてしまう。何もしなくていい。とにかくここにいて欲しかった。
そんな私の、必死な言葉が通じたのか、彼は呆れたように苦笑する。その苦笑が、いつもと違ってなぜだか楽しそうだった。
「俺が欲しいんだよ。あとトイレにも行きたい。今夜は長そうだからな」
「……どっか行かないですよね?」
「どっかってどこだよ?」
「どっかはどっかです!行かないですよね?」
「どこも行かない」
「すぐ戻ってきて下さいよ?」
「解っている」
「じゃあ、行って来ていいです」
私は彼を解放する。彼は言った言葉に紛うことなく、すぐに戻ってきてくれた。
「言葉を曖昧にして結論を誤魔化しているわけでもないのに、察してくれないなんて鈍感すぎます。鈍感なんて言葉では括れません。成瀬さん専用に新たに言葉を作らないと私の気持ちが済みません。そうかと思えば、事件になると妙に鋭くなって、他の誰も気が付かないようなことに気が付いて、事件解決の立役者になるから性質が悪いです。きっと事件に必ずかわいい女の子が関わっているのが理由だと思うんですよ。まあ、本人は絶対否定すると思いますが、私には解るんです。間違いありません。って成瀬さん聞いているんですか?成瀬さんはそうやって自分から眼を背けるからいけないのです。そもそも……」
と言った感じで、早速私は思いの丈を言霊に乗せて彼にぶつけた。正直、本人に向かって言っている時点で、これは愚痴ではなくクレームなのでは?と思わなかったこともなかったのだが、この際どっちでもいいだろうと開き直って、私は続けることにした。後半は一体何を言っているのか解らなくなってしまい、いつの間にやら舌が回らなくなってきて、そのまま眠ってしまった。
一体いつ眠ってしまったのか、全く覚えていないが、すっきりした気分だったことは間違いない。眠りについてしまった私だったが、冷静に自分を見ている大人な天使は、おそらく明日は全快しているだろうと、もはや予知にも近い予想をしていた。