第一話 オークガルデへようこそ
ガタンゴトンと小石を蹴りながら荷馬車が遠ざかっていく。
王都を目指して街道の向こうに小さく消えていく荷馬車を、あたし――メアリはただ見送ることしかできなかった。王都から定期便の荷馬車に乗って何日もかけてここまでやってきたが、何度帰りたいと思ったかわからないほどだ。
だけど、それだけはできない。シーザリオ王国の南の果て。開拓都市オークガルデまでやってきたのには訳がある。この地であたしはやらなくてはいけないことがあるのだから!
「けれど……」
意を決して街道から目をそらし振り返れば、そこにあったのは木、木、木、木ばかり。しかもただの木ではない。のっぽと言われることも多い背丈の上から辺りを見渡してもそれ以外の光景なんて見えやしない。
一本一本が神話の時代から生き残ったのかと言わんばかりに天を突くような大樹ばかりであった。そんな巨木で織りなされた森が、あたしの目の前に広がっていた。
そう森。ここにあるのは視界全てを覆う立派な樹で彩られた広大な森だけ。それ以外には、どこを見渡しても何もない。唯一あるのが今来たばかりの街道と隣にでんと立つ看板だけだ。その看板には「開拓都市オークガルデ」としっかり書かれていた。そう、間違いなく「開拓都市オークガルデ」と書かれているのだ。
「うん、間違いないわね。地図にも最南端の街オークガルデって書かれているし……。けど、どこに、街が……?」
悲しいことに、いくら見渡しても視界に広がるのは森と樹だけ。街などどこにもない。
しかし、魔法使いギルドで支給された地図には、あたしが今立つ場所にはしっかりと最南端の街オークガルデと書かれているし、荷馬車のおじさんにも降りるときに確認したから間違いはないはずだ。
なのだが、嫌な予感にあたしのこめかみから冷や汗が流れ落ちた。
「もしかして、この森の中に街があるとか……?」
総毛立つとはこういったことかとあたしは戦慄した。けれど、おそらくこの嫌な予感は間違ってはいない。というか、眼前に森しかないこの状況ではそれ以外に考えられない。
この森の中に、「開拓都市オークガルデ」はあるのだ。
「この森の中に突き進んでいくのは勇気がいるわね……」
もしこの考えが間違っていたらと思うと、思わず足がすくんでしまう。それに予想が合っていたとしても、道を間違わない保証はない。街道は続いているが、一度でも道を外れたら、一人で森の中をさまよう羽目になるからだ。こんな巨木の森で迷ってしまったら、とてもではないが出くる自信などない。
というか、王都生まれの王都育ちの十六の小娘が、森を一人でさ迷い歩いて、迷うことなく街を見つけ出せるとどうして思えようか。
「け、けど、行くしかないわ。あたしはオークガルデに行かなきゃいけないんだもの……!」
そう、あたしが生まれ育った王都を離れ、オークガルデまで来たのには理由がある。
眼球だけを動かして、あたしは背中に背負った杖を見た。
簡素だが使い勝手の良い意匠を施された樫の木の杖。その先端には、球体に磨き抜かれ美しい緑の光を放つ魔石が取り付けられている。これは白の塔で初等教育を修めた魔術士の見習いに渡される見習い用の杖だ。
そう、あたしメアリはつい先日、白の塔の初等教育を終えたのだ。これからは白の塔の長老により選別された師匠の下、魔術士として本格的な修行に入ることとなった。その修行を終えてこそ、ようやく一人前の魔術士として認められる。
そして、あたしの師匠は、ここ、オークガルデにいる。連絡はすでにいっているはずだから、あとは魔術士ギルドに行けば、すぐにお師匠様と引き合わせてくれるだろう。
魔術士として一人前になるためにも、こんなところで立ち止まっているわけにはいかないのだ。
「そうと決まれば、あの森に言ってみるしかないわね。ここで日が落ちたらそっちの方が危ないし。道もあることはあるし、とにかく枝とか折ってみて、道しるべを作りながら行けば、何とかなるんじゃないかしら」
「あの、そんなところで何をしているのですか?」
「……え?」
どこからか声が聞こえた。近いところから聞こえたが、そばに人影はない。
聞き間違えかしら、と首を傾げた時、「にゃーん」と足元から鳴き声が聞こえた。
「あら?」と思いながら首を下に曲げれば、そこにはいつの間にやってきたのか黒い子猫が一匹、尻尾を揺らして座っていた。
毛並みも良く、人を恐れる様子もない。
「あら、かわいい」
あたしは思わず笑みを浮かべた。
猫とかかわいいものがあたしは好きだ。思わずなでたくなる。
あたしは膝を折り曲げ、できるだけ優しく子猫を抱き上げた。
のっぽのあたしは小さな動物には怖がられることも多いというのに、猫は大人しくあたしの腕に抱かれて、暴れるどころか腕に爪を立てることすらしない。背中をなでれば、のんびりゆらゆら尻尾を揺らしている。かなり人間慣れしているようだ。
飼い猫かしら?
「こんなところに一人いたら危ないわよ」
「にゃーん」と子猫があたしの言葉に応えるように鳴いた。
子猫が人間の言葉などわかるはずなどないというのに、明るい金色の目を見ていると、不思議とわかっているような気がしてきて、つい話しかけたくなる。
「それにしても、さっきの声の人はどこにいるのかしら。道を聞けたらいいのだけれど……。猫ちゃん知ってる?」
「ふむ、迷い人ですか。良ければ道案内いたしますが?」
「へ?」
今度ははっきりと声が聞こえた。それもすぐ近く、腕の中から。あたしが撫で、見つめている子猫の口から。
天鵞絨の様に整っている黒い毛並み。体格は小さく、下手をすれば両の手に収まるほどの大きさだ。どこからどう見ても可愛らしい小さな子猫。その黒い子猫の口が、かぱりと再び開いた。
「先ほどから見ていると、どうにもお困りのご様子。今日の見回りも終わりましたし、道案内くらいならさほどでもありませんが」
「いかがでしょう?」と黒い子猫が小首をかしげる。その仕草はあんまりにも人間らしくて、あたしは一瞬、我を忘れた。
姿に見合った可愛らしい声が話したのは、それはそれは流暢な共通語で、意味を理解するのに何の支障もありはしなかった。
けれど驚くべきはそこではなかった。
「猫ちゃんがしゃべったー!?」
「猫ちゃんはないでしょう、猫ちゃんは」
なにやら猫ちゃんが突っ込んできたが、あたしの耳には入ってこない。
それよりも目の前で起こったことに対処するだけでいっぱいいっぱいだ。
「あ、あなた、猫ちゃんなのにおしゃべりできるの……?」
動揺で声が震える。そんなあたしの姿を、子猫は冷めた様子で見据えていた。
視線が痛い。あからさまに呆れている様子に、あたしの頭はすっと冷え込んだ。
「はい。猫妖精なら当然のことでしょう。それともあなたは猫妖精を見たことがないのですか?」
「……見たことも聞いたこともないわ」
可愛らしいが硬質な声。人間族なら「やれやれ」と肩でもすくめそうな様子だ。
しかし、これは事実だ。獣人や土小人なら見たこともあるし、珍しいと聞く森人も話には聞いたことがある。
しかし、猫妖精という種族は、さすがに見たこともなければ話を聞いたこともない。よほど珍しい種族なのだろう。
辺境では多種多様な種族が人間族と共に暮らしていると聞くが、この猫もまた、そうした辺境で暮らす種族なのだろうか。頭が冷えてきた今ならそう判断できるが、目の前でいきなり猫ちゃんがしゃべり始めたら驚きもするだろう。
「ふむ、それなら驚くのも仕方ありませんか。それにしても、こんなところで何を迷っているのですか? 先ほど向こうに走っていったのは定期便の馬車でしょう。あれに乗ってきたということは、あなたはこの地、オークガルデを目的としてやってきたのでは?」
「ええ、まったくもってその通りよ。けどね……」
矢継ぎ早に繰り出される質問に、あたしは眼前に広がる森を見据えることで応えた。
「この森の中にあるのかしらね。街の姿が見えなくて、なかなか足を踏み入れる勇気が出なくて……。あなた、もしかしてオークガルデがどこにあるのか知ってる?」
それならば話は早い。
一抹の期待を込めて猫ちゃんの顔を見つめれば、どこか困ったように口ごもらせた。
「森の中というか、なんというか……。まあ、いいでしょうそういうことなら……」
ぴょんっと、腕の中から子猫が飛び出した。音もなく地面に降り立つ姿は、さすがに猫だ。
「私がご案内いたしましょう」
「まあ、それは助かるわ!」
少し迷ったのが気にかかるが、案内してくれるというのならそれ以上のことはない。
「よろしくね、えーっと、猫さん?」
「猫さんもやめてください。私にはエルカレンというちゃんとした名前があります。長いので、エルと呼んでいただければ結構です」
「エルちゃんね。あたしはメアリというのよ。よろしくね」
「ちゃん付けもけっこう」
気に障ったのか、硬質な声で訂正されてしまった。
子ども扱いされるのが嫌なのだろうか?
「わかったわ、エルね。オークガルデの案内、よろしくお願いするわ」
「大丈夫ですよ。もう見えていますから」
そう言うと、黒猫のエルは先導するかのようにさっさと歩き始めた。
その後ろを、あたしは慌ててついていくのだった。
「それにしても……」
あたしは口の中で呟いた。
先ほど、彼女が言った言葉が気になったからだ。
「もう、見えているってどういうことなの?」
疑問に思いながらも足は止まらない。子猫だというのにエルの足は速く、急いでついていかないと、おいていかれそうになるからだ。
もともとすぐそばの街道横に降ろされたのだから当然だが、大樹の森まですぐそこだった。
けど、近くで見れば見るほど大きな樹だ。下から見ると、高すぎて上まで見ることができない。
本当に神代のころからあると言われたなら、一も二もなく信じてしまうだろう。
それとも、あたしが知らないだけで本当に神代のころからあるのかしら?
そんなのんきなことを考えていると、エルが一歩前へと出た。
何をするのだろうか?と疑問に思いながらみていると、エルはすうっと息を吸い込んだ。
「門番さん、扉が閉まっています!お客様がいるので、早く開けてください!」
「ほいほーい」
いきなり誰もいない方向に声を張り上げたかと思うと、どこからともなく返す男性の声が聞こえた。
どこから聞こえたのか「えっ?えっ?」と、きょろきょろ辺りを見回しているうちに、真正面にある樹から地響きのような音が鳴り始める。
いったい何が起こるのか、固唾をのんで見守っていると、なんと真正面の樹の木肌が動いている。
扉だ!扉が開かれようとしている!
樹と同化していて一目ではわからなったが、これがこの街の大門なのだ。
つまり、オークガルデとは……。
「はい。大樹の街、この森そのものがオークガルデという街なのです」
「…………」
あたしは呆然とするしかなかった。
辺境の街というものは、こういうものなのだろうか。王都とは違い過ぎていて、想像の範疇を超えている。
「ああ、そうそう言い忘れていました」
黒い猫が振り返る。金色の目が、どこか笑っているように見えた。
尻尾を二度振って、彼女はこう言った。
「オークガルデへようこそ。魔術士見習いのメアリ」
その声はどこか笑っているように聞こえた。