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7、ステラーカイギュウ

「ステラーカイギュウっていうのは、ロシアの東部、コマンドル諸島のベーリング島に生息していた海獣でね。海獣っていうのは、海に棲む哺乳類だね。クジラやイルカ、ジュゴンやアシカなんかのことだ。


 そのステラーカイギュウが発見されたのは1741年のことだった。当時のロシアの探索船が無人島に座礁したんだ。飢えと寒さ、そして壊血病によって、船員たちは次々と命を落としていった。


 そんな彼らの命を救ったのが、ステラーカイギュウだったんだ。


 極寒の地で彼らが遭遇した巨大な海獣の肉は彼らにとって、非常に有用な食糧源となった。ステラーカイギュウはとても大きな生き物で、体長は約7メートル。重さも、10トンほどにもなったんだ。そんな巨大な体からとれる肉や脂は約3トン。しかも、その肉は仔牛のように柔らかく、脂はアーモンド・オイルのように甘かったらしい。さらに、その皮は靴やベルト、防寒具にも使われて、船のカバーにまで使われた。そして、そのミルクも直接飲んだり、バターにしたりして、有効に活用された。


 そう、彼らはステラーカイギュウを殺して生き延びたんだ。


 べつに、その選択を責めるつもりはない。探検隊の約半数が死んでしまうほどに過酷な状況だったんだ。生き延びるために必死だった彼らを誰が責められるというんだい?


 彼らは、ただ生存本能に(のっと)り、生き残るための最善の策を取ったまでだ。そんなことは、自然界では当然のことで、珍しいことでもないんでもない。ライオンは、飢えを満たすためにガゼルを狩る。けれどもそれは特別(むご)いことではないだろう。それと同じことだ。


 ただ、ステラーカイギュウにとっての不運は、知られた相手が人間だったということだ。


 その後、生還した船員によって、ステラーカイギュウの存在は人々の間に知れ渡ることとなった。


 ――そして、乱獲が始まる。


 その巨大で珍しい海獣を狩るために、ハンターや商人たちが大挙して押しかけたんだ。


 それまで、人間と接したことのないステラーカイギュウは、人間に対して無警戒だった。そのうえ、巨大な体で、泳ぐのはあまり得意ではなく、分厚い脂肪によって基本的にはぷかぷかと浮かんでいるだけだったのだから、ハンターたちにとっては格好の的だ。


 有効な防衛手段を持ち合わせていない彼らは、ハンターたちの攻撃に対して、ただうずくまるしかできなかった。


 そして、彼らはとても賢く、少し優しすぎた。


 ステラーカイギュウには、傷付いた仲間を助ける習性があったんだ。特に、メスの仲間が襲われていると、複数のオスが助けに来て、その刺さった銛や絡まったロープを外そうとしたらしい。


 けれども、もちろんそれはハンターたちにとっては好都合だった。たった一頭を殺し、その死体を放置していれば、あとは勝手に獲物のほうがこっちに集まってくるんだ。こんなにも楽な狩りはないだろう?


 こうしてステラーカイギュウはみるみる数を減らしていった。


 それが有用な死ならば、まだ救いようはあったかもしれない。座礁した探索船の船員たちのように、その死体を肉も皮も脂も、すべてを余さず有効に活用したのならば、その死にも意味を見出せたのかもしれない。


 けれども、残念ながらステラーカイギュウの多くは海の藻屑(もくず)と消えていった。


 ステラーカイギュウを殺すことは簡単だけれども、その巨大な死体を陸まで移動させるのは困難だったからね。なら、どうしたか。答えはとてもシンプルだ。


 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 数多く殺せば、そのうちの何頭かは打ち上げられるのだから、その死体を持って帰ればいい、と考えたのさ。その結果、殺されたステラーカイギュウの死体のうちの五頭に四頭は無駄死にとなったんだ。


 とても信じられない思考だろう? けれども、確かにこの当時のベーリング島にはその思考が在ったんだ。


 そして、1768年にステラーカイギュウを2、3頭殺したという報告を最後に、彼らは人間の前から姿を消した。ステラーカイギュウは発見からわずか27年でこの地球上から姿を消すこととなったんだ。


 もともと、ステラーカイギュウが発見された時には、その個体数は2000頭ほどだった。決して多い数ではない。彼らは、そのときすでに滅びつつあったんだ。だから、人間の乱獲が無くても、いずれステラーカイギュウは絶滅してしまったのかもしれない。けれども、人類がその絶滅の瞬間を加速させたのは言うまでもないだろう。


 きっと、この出来事は人類の残酷な部分が如実(にょじつ)に色濃く出ていた出来事だ。私利(しり)私欲(しよく)のために、人はここまで残酷になれるのだ、というお手本のようなものだ。そして、そのお手本に倣うようにして、未だこの地球上での密猟はなくならない。とても、悲しいことだよ。


 人類の存在理由を疑うには、十分すぎるほどの残虐性だ」


   *   *   *


 そこまで語ると、彼は小さく息を吐き出した。まるで、溜まった(うみ)を絞り出すかのように。


 そんな彼の顔を見て、私はなにも言えなかった。

 頬を、小さな熱が伝う。


 あまりにひどい、あまりに惨いその出来事を、私は知らなかった。仲間を救おうとして、自らも殺される。攻撃されて、自らを守る術もなくただうずくまるステラーカイギュウ。その光景を想像するだけで、胸が苦しくなる。けれどもきっと、そういった出来事は世の中にありふれているのだろう。私が知らないだけで、当然のようにこの世界に存在するものなのだ。


「けれどもまあ……」


 と、彼はそっと私の頬をその手で拭う。


「……こういうふうにして、いなくなってしまった彼らに対して涙を流すことのできる人間がいるのならば、やはり人類がこの世界に存在する価値はあるんだろう」


 そう言って、彼はいつものへらへらとした軽薄そうな笑みを浮かべる。見慣れたその笑顔に、なぜか安心感を覚えてしまう。きっと、彼なりに私を気遣っているのだろう。やはり、こんなふうに笑える人が、連続失踪事件の犯人のはずがない。確かに少し怪しくは見えるのかもしれないけれども、彼はいい人だ。


「ああ、そういえばこれから友達とカラオケだったよね。足を止めさせてしまった、ゴメンよ。それじゃ、いってらっしゃい」


 と、彼は小さく右手を上げる。それに答えるようにして、私も小さく右手を上げる。


 正直、そんな話を聞かされてしまって、これから楽しくカラオケという気分ではないのだけれども、してしまっている約束を反故(ほご)にするのも申し訳ないし、目の前で彼にこうして送られてしまっていては、行かざるを得ない。


「それじゃあね」


 なるたけ明るく言って、私は振り返った。小さくすすった鼻の音が彼に届いていないかを気にしながら、今ごろきっと盛り上がっているであろうトリプルAの待つカラオケボックスへと向けて、右足を踏み出す。


 かつて、ステラーカイギュウという心優しい海獣がいたということを思い返しながら。

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