6、人類が生み出した中で最も美しい音楽
放課後、古典の補習があったことを失念していた私は、トリプルAに先にカラオケに行っててもらうことにした。必ずあとから合流するから! と言って、彼女たちを見送った。幸い、午後の授業は適当に聞き流すと決めていたので、体力を温存さできていた私は、サクッと補習を片付けることができた。
補習を終えた私は、なるべく急ぎ足でトリプルAの待つ駅前のカラオケへと向かう。その途中、商店街のお肉屋さんでトリプルAへのお詫びのコロッケを買って、おじさんから決まり文句の「今日も可愛いね」なんて社交辞令をいただき、目的地のカラオケに向かう。そしてあと少し、というところで喫茶店『ヨハネス』の前で、彼を見つけた。けれども、今回は「やあ、お嬢さん」とは言わない。どうやら、私に気付いていないようだ。両耳にイヤホンを付けていて、なにか音楽を聴いている。
「やっほ」
その肩を叩いてみると、彼はゆっくりと振り返る。
「あ、やあ。学校からの帰り?」
と、片方のイヤホンを外しながらいつもの緩い笑みを浮かべる。
「まあね。今から友達とカラオケ」
「ふうん、そうなんだ。高校生って楽しそうでいいよね」
「貴方だって、高校生だった時代があったんでしょ?」
べつに、私たちだけが高校生だというわけじゃない。誰にだって、15歳から18歳の時代があるのだ。
「ま、そうだね」
「そういえばさ、なに聴いてたの?」
と、私は彼のそのイヤホンを指さす。
「ああ、これ? パッヘルベルのカノンだよ」
「パッヘルベ……なに?」
「パッヘルベルのカノン。パッヘルベルっていう人が作った、カノンっていう曲だよ」
「へえ、そうなんだ」
「……知らないって顔をしているね」
彼は小さくため息を吐く。やれやれ、と声が聞こえてきそうなほどに感情のこもったため息だった。
「……うん、知らない」
バレてしまっているのならば、わざわざ嘘をついてまで誤魔化す必要はない。見栄を張るような相手でもないし、私は素直に答える。
「有名な曲だよ。誰だって一度は聞いたことがあると思うんだけど」
そう言って、彼は外したその片方のイヤホンを私に渡す。それを受け取って、左耳につける。
「……ああ、確かに聴いたことあるかも」
幾重にも重なるバイオリンの音が軽やかな曲を奏でている。確かに、この曲は何度もいろいろなところで聞いたことがある。きっと、とても有名な曲なのだろう。テレビのコマーシャルでも、これをアレンジした曲が使われているものを見たことがあると思う。それに、中学校の卒業式のときにも流れていたはずだ。
「でしょ?」
「こういうクラシックをよく聴くの?」
「いや、そういうわけじゃないよ。ただこの曲が好きなんだ」
「ふうん。まあ、確かにいい曲だと思うよ」
「だろ。きっと、人類が生み出した中で最も美しい音楽だ」
そのあまりに大げさな表現に、思わず笑ってしまう。
「それはちょっと言い過ぎじゃない? 世の中にはもっとたくさんの音楽で溢れているっていうのに」
けれども、彼にしては珍しく、ひどく真剣な表情で首を横に振る。
「いや、きっとこの音楽をこの世に産み出したということこそが、人類の存在理由なんだと言っても過言ではないくらいに、この曲は素晴らしい」
「そう。まあ、でもそう言いたくなるくらいに良い曲だっていうのはわかるよ。心にまで届く曲、って感じがする」
少し、彼の言い方は大げさかもしれないけれども。そういえば、きちんとこの曲を真面目に聴いたのは今日が初めてかもしれない。今まではずっと、どこか遠くで流れているのをただなんとなく聴いていただけだった。それでも、こうしてイヤホンできちんと聴いてみて、思ったのだ。確かにこの曲は聴いていてとても心地いい。彼がそこまで褒めちぎるのも、まあわからなくもない。
とはいえ、やっぱり彼は少し褒めすぎだとは思うけれども。
「ああ、本当に素晴らしいと思うよ。こんな音楽を作ることができるのならば、人類も捨てたもんじゃない、と思うよ」
「あら、ひどく悲観的なのね。カノンが無ければ、人類に価値がない、みたいな口振りじゃない」
「そうとまでは言わないさ。カノン以外にも、人類は多くの美しいものを生み出している。モーツァルトのきらきら星変奏曲や、ガウディのサグラダファミリア、アマルフィの街並み、そしてウォルト・ディズニーのバンビも。どれもとても素晴らしい。けれども……」
そう少し言い淀んで、彼は悲しそうに微笑む。
「……けれども、どうしようもなく残酷になることができてしまうのもまた、人類だ」
「残酷に?」
と、つい聞き返してしまったけれども、彼が言いたいことはわかる。連日テレビで流れるニュースで、信じられないような事件を何度も見たことがある。親が子を殺す、子が親を殺す、仲の良かった友達を殺す、見ず知らずの赤の他人を殺す、もちろん殺人だけに限らず、残酷な事件は日々起きている。
「ステラーカイギュウを知っているかい?」
けれども、彼が口にしたのは、私がまったく知らない単語だった。私は、首を横に振る。
ステラーカイギュウ?
それは、なにかの生き物の名前なのだろうか。
「そうか。少し、長くなるけどいいかな?」
そう言った彼の言葉に、私は頷いた。